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壁ひとつ向こうの出汁

第2話 第2話

第2話

第2話

朝の空気は、まだ夜の湿り気を引きずっていた。 階段の手すりに触れると、指の腹に薄く水滴が残る。私はそれを反対の手の甲で拭って、黙ってサンダルの先で次の段を探した。集合住宅の外廊下は、四月のはじめにしては、まだ少し冷えた。 ゴミ捨て場の角を曲がった、その場所に、彼が立っていた。 背中が、思っていたよりもずっと近い。半透明のゴミ袋を片手に下げ、もう片方の手で、何か四角いものを胸の前に抱えていた。私の足音が砂利を踏んだ瞬間、彼はほんの少しだけ顎を引いて、視線をこちらに向けた。 目が合ったのは、たぶん一秒もない。 「……おはようございます」 自分の声が思ったより掠れていることに、口に出してから気づいた。言葉が、しばらくのあいだ喉の奥に引っかかっていた湿気を、無理やり連れて出てきた感じがした。彼は会釈とも頷きともつかない動きで、首を僅かに下げた。それから、視線をゴミネットの方へ戻した。 私は、自分のゴミ袋を、ネットの端へそっと滑り込ませる。袋の口の結び目から、酸っぱい匂いが、ふわりと立ちのぼった。昨日の朝のお粥。捨てそびれた残り。それが今、自分の身体のすぐ脇で、外気にさらされている。それだけで、頬の内側が、なぜか少し縮むように感じた。 立ち去る理由を探して、私は袋の口の結び目をもう一度、意味もなく確かめた。指先が縛り目をなぞる。白いビニールが、爪の下でかすかに鳴った。 そのとき、彼の手が、私の側にすっと差し出された。 抱えていたものが、目の高さの少し下に来た。 タッパーだった。蓋越しに、琥珀色の液体が、僅かに揺れていた。深さのある、四角い容器。蓋の内側に細かな水滴がびっしりとついていて、容器の腹は、まだ温かそうな温度を残していた。 「……」 私は、それが何なのか、すぐには理解できなかった。 「出汁、余ってる」 低い声だった。少し風邪をひいたあとのような、掠れの混じった声。最後の「る」が、唇の間で僅かに飲まれていた。 私は反射的に、両手を前に出していた。出してから、なぜそうしたのか自分でも分からなかった。手のひらに、タッパーの底の温度が、布越しのようにじんわりと滲んだ。指の先が、夕方からずっと冷たかった指の先が、一拍遅れて、その熱を信じられないという顔で受け取った。 熱は、皮膚の表面ではなく、もっと奥の、骨と腱のあいだのような場所に届いた。八ヶ月、私はたぶん、そういう場所で熱を受け取ること自体を、忘れていた。湯呑みも、お椀も、握ることはあった。けれど、握るのと、預けられるのとは、たぶん別のことだった。預けられた重みは、私の手のひらに、私のためではない誰かの作業の痕跡を、そのまま乗せてきた。鍋の前に立っていた時間。火加減を見ていた瞼。湯気で湿ったであろう前髪。それらの全部が、容器のかたちをして、いま、私の手の中にあった。 「あ、あの」 返す言葉が、見つからなかった。「いただけません」も「どうして」も、口の中でばらばらになって、組み立てる前に零れていった。私はただ、タッパーの琥珀色を、じっと見ていた。光の加減で、底の方に、ほんの少し濁りが沈んでいる。鰹の、たぶん粉が、ゆっくりと容器の隅に集まっていた。粉は、振られた雪のように、底でゆるく波を描いていた。誰かが本当に削ったのだ、と思った。袋から振り出したのではなく、削った。その「誰か」が、今、私の目の前で、痩せた肩の輪郭を持って立っていた。 「鍋、洗うのに、こぼすから」 彼は短くそう言って、タッパーから手を離した。容器の重みが、私の手のひらに、ことりと預けられた。両腕が、その重みの分だけ、ほんのわずかに沈んだ。 「あの、お代——」 「いい」 被せるように言われた。語尾の角が、少しだけ尖っていた。怒っているわけではない、と分かるくらいの尖り方だった。むしろ、これ以上喋らせてくれるな、という方角に向かって、その尖りはあった。お代という言葉が、彼の側でも、たぶん長く似合わないものだったのだろう。何かをやり取りすることに、お互いがあまりにも不慣れで、その不慣れさを、彼は一音で塞いでくれた気がした。 彼はそのまま、ゴミ袋をネットの端に置いた。それから、私の方を見ずに、階段の方へと歩き出した。スウェットの裾が、痩せた踵の上で、少しだけ揺れた。 私は、その背中を見ていた。 「あの」 呼び止めたつもりだった。けれど声は、たぶん、彼の踵までも届いていなかった。私の喉から出たそれは、ほとんど息に近くて、朝の冷たい空気の中で、白くなることもなく、ただ消えた。声を出すことが、こんなにも力を必要とすることだったか、と思った。八ヶ月、私の喉は、誰かを引き留めるために動いたことが、たぶん一度もなかった。 階段の手すりに、彼の左手がかかった。骨ばった指。爪は短く、清潔に切り揃えられていた。指の関節の皮膚が、料理をする人のそれの色をしていた。何度もお湯に晒された、あの色。 二段、三段、と彼は上っていく。 足音は、ほとんどしなかった。痩せた人の歩き方、というより、誰にも気づかれないことに長く慣れた人の歩き方だった。踊り場で身体の向きを変える瞬間、横顔がほんの一瞬だけ見えた。目の下に、薄く影があった。眠れていない人の影だった。 そのまま、彼は二階の廊下へと姿を消した。 私は、ゴミ捨て場の砂利の上に、両手でタッパーを抱えたまま、立ち尽くしていた。 容器の底の温度は、もう、最初に受け取ったときよりも少し冷めていた。それでも、まだ、私の手のひらよりは、ずっと温かった。冷めていく速度が、なぜか、私の呼吸の速度とよく似ていた。吸って、吐いて、その一回ぶんずつ、容器の底から熱が逃げていくのが分かった。逃げていくと知っていながら、私はその熱を、追いかけて握り直すこともできなかった。ただ、両手で、そこにあるだけの分を、受け止めていた。 ふと、自分のサンダルの足元に視線を落とす。親指の爪が、少し伸びていた。いつから切っていないのか、思い出せなかった。サンダルの片方が、砂利の上で僅かに傾いていた。それを直そうと、つま先で位置をずらす。その動作の、ぎこちなさに、私は静かに驚いた。八ヶ月の間、自分の身体の細かい場所を、自分のために動かすことが、こんなに難しかったかと思った。膝の裏が、少し強張っていた。肩の付け根に、知らないあいだに、固いしこりのようなものが居座っていた。それらの一つひとつに、私はずっと、気づかないふりをしてきたのだと思った。気づいてしまえば、ほどく時間を、自分のために割かなければならなくなるから。 タッパーを胸の前で抱え直すと、蓋の内側で水滴がふっと一筋、滑った。琥珀色が揺れた。揺れた瞬間、鰹の匂いが、蓋の隙間から、ほんの僅かにこぼれた。 匂いは、私の顔のすぐ前で、輪郭を持って立ち上がった。 朝の冷えた空気の中で、その匂いだけが、季節を持っていた。たぶん、誰かの台所の、ずっと続いてきた季節だった。私の鼻は、その季節を、まだ覚えていた。覚えていたことに、私は遅れて気づいた。覚えているということは、たぶん、まだ私の中のどこかが、台所のある暮らしを、捨てきれていないということだった。捨てたつもりで、奥の方に畳んで仕舞ってあっただけだった。畳まれていた布の匂いを、いま、誰かが、ほんの少しだけ、私の代わりに広げてくれていた。 階段を上る。 一段、一段、上るたびに、タッパーの中で液体が小さく揺れた。左の脇腹のあたりに、容器の角がそっと当たった。冷たくなりかけた角の感触が、薄手のカーディガンを通して、肋骨の一本に、はっきりと触れた。その肋骨の場所を、私はずっと忘れていた気がした。誰かに触れられることも、何かを抱えることも、八ヶ月のあいだ、ほとんどなかった。容器の角が、肋骨の位置を、私のためにもう一度教え直してくれていた。 玄関の鍵を回す音が、いつもよりずっと、近く聞こえた。 部屋に入ると、祖母はまだ眠っていた。襖の奥から、規則的な、けれど少し浅い寝息が漏れている。私は靴を脱いで、そのまま台所まで、抜き足のように歩いた。タッパーを、シンクの脇の、何も置かれていない狭いスペースに、両手でそっと置いた。 ことり、と硬い音がした。 その音が、部屋の中の何かを、ほんの少しだけ、組み替えた気がした。 冷蔵庫の上の目覚まし時計が、五時四十六分を示していた。窓の外が、もう、白く明けはじめていた。 蓋を、開けるのが怖かった。開けてしまえば、たぶん、何かが戻ってきてしまう。長いこと忘れていたものが、湯気と一緒に、私の喉の奥まで一気に運ばれてきてしまう。匂いには、時間を巻き戻す力がある、ということを、私はそのとき初めて、身体で理解した気がした。八ヶ月前の台所も、もっと前の、母がまだ元気だった頃の台所も、たぶん同じ場所に仕舞われている。蓋を開けるということは、その仕舞いの戸を、自分の意思で、ひとつ、こちら側に引き開けるということだった。 私はタッパーの蓋に、人差し指の腹を、そっと当てた。 水滴が、指の温度で、ひとつ、また一つと、繋がっていった。

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