第1話
第1話
祖母の咳が、廊下の板をひとつ叩いて消えた。 布団の中で目を閉じたまま、私は秒針の音を数えはじめる。十二、十三、十四。次の咳までの間隔が、ここ数日でまた、少しだけ短くなっている。 壁の時計の音だけが、妙に大きく聞こえる夜だった。介護休職に入って八ヶ月、もう私の体内時計は、深夜二時を真昼のように受け止めている。 布団を抜け出す。すりガラスの向こうの蛍光灯は、紐を引いてから三回点滅して、ようやく台所を照らした。光がつくたびに、ジ、ジ、ジ、と虫のような音が鳴る。 狭い台所には、洗っていない皿の重なりが、シンクで小さく傾いていた。換気扇は、祖母が低い唸りを嫌うから、夜は回さない。空気は、煮詰まった湿気と、薬液と、誰かの古い汗の匂いを、ごく薄く混ぜている。 冷蔵庫を開けた。白い庫内灯の前で、私はしばらく動かなかった。卵がふたつ、しなびたほうれん草、開封してから何日経ったか分からない味噌のチューブ。何を作ればいいのか、思い出せなかった。思い出せないということ自体に、もう驚かなくなった自分にも、たぶん驚かない。 結局、コンビニの袋から白米のパックだけを取り出して、電気ケトルの湯を注いだ。白い湯気がふわりと立ちのぼり、眼鏡をまっすぐ曇らせる。曇りの向こうで、シンクに残った茶碗が二つ、薄い水に沈んでいた。 祖母を起こす。布団の中で身体を起こすのに、いつもより少し時間がかかった。茶碗を持つ祖母の指は、紙を握っているみたいに白い。 「美味しいね」 祖母は笑った。皺の奥でくしゃりと畳まれた目が、こちらを見る。湯を吸ってふやけた米を、ひとつまみ口に運ぶ。咀嚼の音だけが、しんとした畳の上で、しばらく響いた。私は頷いて、自分の茶碗の縁を、唇にだけ当てた。直視できなかった。直視できない自分が誰なのか、もう、よく分からなかった。
祖母を寝かしつけてから、台所に戻る。蛍光灯はまた、三回点滅してから灯った。 シンクの蛇口を回すと、最初の一秒だけ、錆びたような赤い水が出る。それを流しきってから、私はようやく、コップに口をつけた。冷たい水が喉を落ちていく感覚が、自分の身体の輪郭を、ほんの一瞬だけ、思い出させてくれる。 スマホを伏せたまま、画面だけを覗く。同期からの旅行写真。沖縄の海と、誰かの陽に灼けた肩。既読すらつけられないまま、三週間が経っていた。返信の文面を打ち始めて、消す。打ち始めて、消す。「元気だよ」の四文字さえ、嘘になる気がして、指がそのまま止まった。 画面の隅で、通知のアイコンが、ささやかな赤い点を抱えたまま、もう何週間も消えずにいる。指でそっと撫でても、消えない。私の指紋ではもう、その赤を払えなくなっている気がした。 母は遠くで、別の家庭を持っている。叔母は「うちは子供がまだ小さいから」と言った。最初に手を上げたのは、私だった。「私が一番、動きやすいから」と、自分でもそう信じていた台詞だった。八ヶ月前、人事に休職届を出した日、上司は「いつでも戻ってきていい」と言った。その「いつでも」は、いま、果てしない遠い場所にある。 机の引き出しの奥には、出し損ねた年賀状の束と、有効期限の切れた美容院のクーポンが、混ざったまま眠っている。あの頃の私は、化粧水を季節で使い分けていた。今は、祖母の保湿クリームを、自分の頬にも塗っている。減りが早い、と思いながら、それでも新しいものを買い足す気力は、なかなか湧いてこない。 祖母は私のことを、たぶん「優しい子」と思って育てた。その「優しい子」が、夜ごと布団の中で秒針ばかりを数えていることを、祖母は知らない。知られたくなかった。それくらいの気概は、まだ、かろうじて残っていた。 シンクの三角コーナーから、酸っぱい匂いがした。昨日の朝に炊いたお粥の残り。捨てるのを忘れていた。ビニール袋を結び直しながら、ふと指先がひどく冷たいことに気づく。気づいてから、たぶん夕方からずっと冷たかったのだと思った。 血が、足の先から少しずつ抜けていくような感覚に、最近よく襲われる。立ったまま、しばらく動かないでいると、自分が床から生えた古い植物のように思えてくる。誰にも水をやられない、葉先から枯れていく、名前のない鉢植え。 冷蔵庫の上で、目覚まし時計の秒針だけが進んでいる。二時十七分。窓の外は墨を流したように静かで、これから雨でも降りそうな匂いがした。
その時だった。 壁の向こうから、軽い音がした。 コ、コ、コ、と、小さな硬いものを規則的に叩く音。 最初は、空耳かと思った。耳鳴りの一種だと思った。私はシンクの蛇口を、念のため一度、ぎゅっと締め直す。それでも、音はしっかりと続いていた。 包丁の音だ。隣の部屋の、まな板を叩く音だった。
引っ越してきたのは、たぶん三ヶ月ほど前だ。たぶん、というのは、まともな挨拶を交わしていないからだ。エレベーターで何度かすれ違った。背の高い、痩せた男だった。ニットの肘がいつも擦り切れていて、目を合わせない人だった。私も合わせなかった。引っ越してきたばかりの隣人と話す体力など、もう、私にはなかった。 刻む音は、規則正しく続いた。トトトトト、と速くなったかと思うと、しばらく間が空いて、また始まる。何かを薄く切る音、何かを叩く音、鍋の蓋がカタンと鳴る音。深夜二時半過ぎ。普段なら気にも留めない、ただの生活音のはずだった。 やがて、出汁の匂いがした。気がした、と言うべきかもしれない。換気口を伝ってきたのか、私の側の壁紙が古くから吸い込んでいた残り香が、音に誘われて目を覚ましたのか。鰹と、たぶん、ほんの少しの昆布。台所に立つ人間の手の段取りが、その匂いの順番から、なんとなく見える気がした。 私はいつのまにか、シンクの縁に手をついて、壁の方へ身体を傾けていた。耳を澄ませた、というほど積極的なものでもなかった。ただ、その音から、離れられなかった。 壁紙の継ぎ目に、指の腹をそっと当てる。冷たいクロスの向こうから、まな板の振動が、ほんとうに伝わってきているのか、それとも私がそう感じたいだけなのか、もう判別がつかなかった。それでも、指先は、夕方からずっと冷たかったその指先は、その壁にだけは、なぜか少しずつ温度を取り戻していった。 誰かが、誰かのために、夜中に台所に立っている。 そう思った瞬間、目の奥が、じんと熱くなった。 涙、というほどはっきりしたものではなかった。瞼の裏が、内側からゆっくり押されるような、そんな感覚だった。私はそのまましばらく、動けずにいた。蛍光灯がまた一度、ジ、と鳴った。隣の包丁の音は、やがて小さくなり、水を流す音に変わって、止まった。 エプロンの裾で、目元を押さえる。 布の繊維が、瞼の縁にざらりと触れた。その粗い感触に、ようやく私は、自分がまだ泣ける身体を持っていることを思い出した。八ヶ月の間、私は、泣くという行為を、どこか遠くに置き忘れていた気がしていた。 何故泣いたのか、自分でもよく分からなかった。 ただ、隣の部屋にも、人が住んでいた。 私の知らない時間に、誰かのために、誰かが米を研いだり、出汁を取ったり、青菜を湯掻いたりしていた。 その当たり前のことを、私は八ヶ月の間、すっかり忘れていた。 壁の向こうの台所と、私の台所の間には、たぶん十センチもない壁がある。それなのに、その十センチが、ずっと、気の遠くなるほど分厚かった。
朝が来た。 窓の外がうっすら白む頃、私はようやく、シンクの茶碗をふたつ洗った。湯の温度が、指先にゆっくりと戻ってくる。三角コーナーから取り出した、結び損ねたゴミ袋を、もう一度きつく縛り直した。 今日の燃えるゴミの日は、確か、今日だった。 カーディガンの上に上着を羽織って、サンダルをつっかける。階段を下りながら、鼻の奥に、まだ湯気の匂いがうっすら残っている気がしていた。 ゴミ捨て場の角を曲がる。 そこに、彼が立っていた。 背の高い、痩せた、肘の擦り切れたニットの男が、私の足音に気づいて、ほんの少しだけ、目を上げた。