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半畳の青春、矢を番える

第3話 第3話

第3話

第3話

五時間目の現代文の教科書を、俺は三回読み直して、それでも一行も頭に入っていなかった。

教師がプリントの空欄を埋めるよう促す声が、廊下から誰かのスニーカーが床を擦る音と一緒に届いた。隣の席の生徒が、消しゴムを落とす。床を転がる音が妙に大きく耳の奥に響いて、給水塔の影で唐揚げを噛んでいたほんの五十分前の自分が、すごく遠くにいる気がした。

階段の踊り場の鏡には目を合わせない、三階の自販機の前は早足で抜ける――そういう手順だけで組み立てられていた、半畳の世界。

それを、白瀬が蹴り破った。

シャープペンの芯が、ノートの上で折れた。芯の粒が罫線の枠を一つ越えて飛び、書きかけの板書の途中で線が曲がって止まる。気がつくと、ノートの右上の余白に「弓道」と書きかけていた。慌てて二重線で消したけれど、芯の凹みは紙に残った。

行かない、と心の中でもう七回言った。

第二体育館の裏。説明はそこで。人が足りないの。白瀬の声の抑揚を、俺の耳はもう完全に覚えてしまっている。覚えてしまっているのが、いちばん始末が悪かった。

六時間目の終了チャイムが鳴ったとき、俺は誰よりも早く鞄に教科書を突っ込んだ。校門までの最短ルートを、頭の中で何度もなぞった。下駄箱、外靴、校門、三十秒。明日の昼休みには、また階段の踊り場の鏡から目を逸らせば、それでいい。

教室を出て、廊下を、駆け足にならない速度で進んだ。

階段の前で、足が、勝手に止まった。

下りる方向じゃなかった。上り階段の手すりに、俺の右手が、いつの間にかかかっていた。

階段を、上った。

下駄箱は一階で、屋上は五階の上だった。逆方向を選んだ自分のことを、俺はもう諦めの混じった目で見ていた。逃げるなら家じゃないのか、と頭のどこかが叫んでいるのに、足の裏は屋上の鉄扉の手触りを覚えていて、それを欲しがっていた。半畳の窪み。鉄錆の匂い。あそこに座れば、たぶん白瀬の声から逃げられる。

逃げられない、ことは、本当は知っていた。

鉄扉を押し開けた瞬間、四月末の風が真正面から顔に当たった。給水塔の影に回り込むまで、俺の視線はもうフェンスの向こうの桜の若葉に向かっていた。腰を下ろそうとして――

「やっぱり来た」

声が、鉄扉のすぐ横から飛んできた。

俺の背筋が、鉄板に当たる前に固まった。気配を確認する側として、俺は彼女に勝てないことを、そこで知った。

白瀬は、給水塔の反対側の段差に、もう座っていた。

ブレザーは羽織ったまま、スカートの下で膝を抱えている。ローファーが脱いであって、足袋に近い形の白い靴下が、コンクリートに直接触れていた。指の付け根のところに、ガーゼで止めた絆創膏が一枚、薄く透けていた。

「下駄箱より、ここ来るほう、賭けてた」

「……賭けてた?」

「うん。負けたら明日のパン、自分で買う」

何の話か分からなかった。分からないまま、俺は給水塔の鉄板にへたり込むようにして座った。立っているのが、急にしんどかった。膝の裏が震えていることに自分で気づいて、もっと嫌になった。

「あのさ」

白瀬の声が、昼の「観察」の声から、少しだけ「説明」の声に変わった。

「春季大会、五月の十七日。県の予選から始まる団体戦」

「……うん」

「うちの男子、人数が足りない。三人で射る団体戦に、二人しかいない」

「……」

「四月の頭に怪我した先輩がいて、復帰、間に合わない。一年は入ったばっかりで、まだ弓を構えるところまで行ってない」

数字が、続いた。三人。二人。十七日。

中学の教室の壁時計の秒針みたいに、白瀬の声には感情の揺れがなかった。代わりに、数字だけがコンクリートの上に並んでいく。並んでいくたびに、俺の喉の奥が、少しずつ狭くなっていった。

「俺、弓、一度も触ったことない」

辛うじて、それだけ言った。

「知ってる」

「中学のとき、運動部、入ってない」

「知ってる」

「身体能力、たぶん、人並み以下」

「だろうね」

白瀬は、即答した。否定じゃないのに、なぜか嫌な気はしなかった。彼女は、俺が予防線として並べる単語を、一つずつ受け取って、横にどけていた。

「だから、別にいいの」

「……いい?」

「矢を、射ってくれるだけでいい」

風が、給水塔の鉄板の上を、一度なめた。

「中ろうが外そうが、関係ない。三人目が、いるかいないかの話。射場に三人立たないと、団体戦は失格になる」

「失格、って」

「うちの男子、今年、出られない」

それだけ言って、白瀬は自分の足首のあたりを軽く撫でた。絆創膏の縁を、指先で押さえ直すような仕草だった。

給水塔の影で、俺は、フェンスの向こうの桜の若葉を見ていた。葉ずれの音が、彼女の声の最後の「出られない」を、ゆっくりと打ち消していった。

逃げ道を、探していた。

母さんが体調を崩している、父さんに反対されている、塾がある――どれも嘘で、どれも見透かされる気がした。白瀬の絆創膏の薄い影を見たあとで、その手の言い訳を組み立てる自分のことを、俺はもう少しで殴りたくなった。

「……俺で、いいの?」

口から出た声が、自分でも知らない震え方をしていた。

「あんたが、いい」

「俺じゃなくても、誰か――」

「いない」

短かった。

「四月のうちに、男子で声かけられそうな子、全部当たった。野球、サッカー、テスト、塾、バイト。理由はそれぞれだったけど、要するに、放課後を毎日、知らない部活に渡す気がない」

白瀬は、そこで初めて、俺の方を真っ直ぐに見た。

「あんたは、放課後、毎日空いてる」

否定できなかった。給水塔の影で唐揚げを噛んでいる男子高校生の放課後の空白を、白瀬は、最初から計算に入れていた。

利用されている、と思った。

そう思いながら、なぜか、嫌じゃなかった。

「……矢を、射るだけ?」

「うん」

「中らなくても、いい?」

「うん」

「五月の十七日まで?」

「うん」

俺は、給水塔の鉄板に、後頭部を預けた。

四月末の空が、フェンスの向こうで、四角く切り取られていた。雲がひとつ、ゆっくり東に流れている。給水塔の影の中で、俺の半畳の窪みは、いつもより少しだけ狭く感じられた。隣に、白瀬の膝があったからだ。彼女の膝の絆創膏が、目の端で、薄く揺れていた。

唾を、飲み込んだ。

頷いた。

頷いた、と言うには弱すぎる、頷きの真似事みたいな動きだった。顎が、二センチくらい下がって、すぐに戻った。それでも、白瀬は見逃さなかった。

「じゃ、放課後、第二体育館の裏」

「……」

「先に行ってる」

立ち上がる音がした。ローファーをコンクリートの段差に揃え直す音、爪先を入れる音、白瀬が踵で土台を一度叩く音。彼女が鉄扉のほうへ歩き始めたとき、俺はまだ、自分が頷いたことの意味を、頭の中で組み立て直そうとしていた。

組み立てる前に、彼女の足音は、鉄扉の蝶番を一度鳴らして消えていた。

立ち上がった膝が、自分の体重を支えるのに二秒かかった。

階段を下りる。一階分ごとに、俺は心の中で「行かない」と、まだ繰り返していた。三階の自販機の前を、いつもの早足で抜けた。下駄箱で外靴に履き替えながら、左の靴の中に砂が入っているのに気づいた。砂を払い落とす指が、震えていた。

校門ではなく、第二体育館の方角に、足が動いた。

吹奏楽部の音出しが、第一体育館の窓から漏れていた。サッカー部の掛け声が、グラウンドの方角から重なって響いていた。男子の声、女子の声、笑い声、靴音。全部、俺がこれまで素通りしてきた音だった。素通りしてきた音の中を、今、自分の外靴の音で、歩いていた。

第二体育館の裏に回ると、低い瓦屋根の建物が現れた。

弓道場。

入り口の引き戸に、墨書きの「礼」の一文字が貼ってあった。半紙はもう日焼けしていて、四隅のテープが少し剥がれていた。中から、男子の――低い、短い掛け声が聞こえた。続いて、空気を裂く、ひゅっ、という音。何かが板に当たる、乾いた、軽い、けれど鋭い音。

知らない音だった。

知らない音の正面で、俺は、引き戸の手前で立ち止まった。

掌に、給水塔の塗装の粉が、まだ薄く残っていた。

それを払う前に、引き戸が、内側から、横に滑った。

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