第2話
第2話
給水塔の鉄板に背を預けた瞬間、コンクリートの冷たさが昨日より少しだけ柔らかく腿に伝わった。
四月の最終週。屋上の空気は、午前の授業中に校庭から吹き上げてきた砂埃の名残と、新緑の匂いと、給水塔の鉄錆を細切れに混ぜたような味がする。弁当箱の蓋を開ける指先に、昨夜から続いている爪のささくれが引っかかった。母さんが詰めてくれた卵焼きは今日も冷めていて、けれど砂糖の甘さだけは舌の奥でちゃんと立った。
階段の踊り場の鏡には目を合わせなかった。三階の自販機の前は早足で抜けた。鉄扉の取っ手に手をかけたとき、誰の気配もないことを確認してから押した。手順は完璧だった。完璧でしか屋上に辿り着けない自分のことは、考えないようにしている。
唐揚げに箸を伸ばす。今日は冷凍食品ではなくて、母さんが朝から揚げてくれたらしい衣が、まだ少しだけ湿気を残していた。ひと口噛むと、生姜と醤油の香りが昨日より強い。
――ここでしか、こんなふうに呼吸できない。
昨日の昼休み、自分の中で軋んだその一文が、今日もまた肋骨の奥で位置を確かめている。半畳の窪み。給水塔の影。俺の高校生活が許容している、唯一の領域。
風が、フェンスの向こうの桜の若葉を撫でた。葉ずれの音が、給水塔の鉄板を伝って耳の後ろに届く。卵焼きを口に運ぼうとしたとき、その葉ずれの音に混じって、
――どんっ、と。
鉄扉が蹴り開けられる音がした。
俺は箸を止めた。
蝶番が悲鳴を上げて、鉄扉が壁に当たる鈍い反響音が、屋上のコンクリートを波立てる。誰かが、走ってきた。ローファーのゴム底が踊り場のタイルを蹴った音は、たぶん階段の途中から続いていたのだろう。気配を察知し損ねた自分の鈍さを、俺は数秒遅れて呪った。
足音は、給水塔の前で止まらない。
「――やっぱりここだ」
声は、給水塔の反対側を回り込む直前、はっきりと俺の耳に届いた。
息を弾ませた、女子の声。空気が一拍だけ止まる。給水塔の影に張り付いた俺の背中が、自分でも驚くほど強く鉄板を押し返した。卵焼きを挟んだ箸の先が、わずかに震えていた。喉の奥で唾を飲み込もうとしたら、その音が自分の鼓膜にだけ妙に大きく響いた。
姿が、視界の端に飛び込んできた。
肩までの黒髪。ブレザーの胸ポケットに、見慣れない金色の刺繍。背筋がまっすぐで、息は弾んでいるのに姿勢の軸が一切ぶれていない。スカートの裾から伸びた脚が、コンクリートにふっと止まった。
白瀬。
俺は彼女の顔を、教室の女子のノートの裏で一瞬見ただけだった。それでも、目が合った瞬間に名前のほうが先に頭に飛んできた。校内一の有名人。隣のクラス。何かの大会で結果を出した――その「何か」が、何だったのかは、俺はまだ知らない。
彼女が、こちらをまっすぐ見ていた。
「あんた」
声は、思っていたよりずっと低かった。怒っているのでも、警戒しているのでもない。観察している、という感じの声だった。剣道部の先輩が竹刀を構える前の、一拍だけ訪れる静けさに似ていた。
「毎日ここで何してるの」
箸が、止まったまま動かなかった。
唐揚げの匂いが、急に自分の弁当箱の中から立ち上って、どこにも逃げ場がない。喉の奥に、昼食の唾が一度詰まる。返事を組み立てようとした口の中で、舌だけが間抜けに動いた。耳の裏が、自分でも分かるほど熱くなっていた。
「……べつに」
辛うじて出た声は、給水塔の影に吸い込まれて、自分の耳にすら届かなかった。
白瀬は、少しだけ眉を寄せた。それから、屈んだ。給水塔のコンクリートの段差に、俺と同じ高さで、彼女がしゃがみ込んだのだ。膝が、俺のローファーから三十センチも離れていない場所にあった。香水ではない、もっと素っ気ない――洗いたてのタオルみたいな匂いが、風の隙間に一瞬だけ混ざった。
「弁当、ここで?」
「……うん」
「ひとりで?」
「……うん」
「毎日?」
「……まあ」
質問の間隔が、短かった。逃げる隙を与えない刻み方だった。中学三年の冬、ドッジボールの体育館で「あいつ、いたっけ」と笑われたとき、俺の周りで真空みたいに薄くなっていた空気が、今、彼女の膝先三十センチのところで、急に息苦しいくらい濃くなっていた。指先が冷えているのに、首筋だけが熱を持っている。そのちぐはぐさが、自分の身体のどこにも逃げ場をつくってくれなかった。
「私さ」
白瀬が、フェンスの向こうの桜の若葉に目を向けた。
「ここの鉄扉、壊れてるの知ってる側の人間。なのにあんた、毎日タイミング外して入ってる。鉢合わせたの、今日が初めて」
確かめるような口ぶりだった。
「気づかれないように、上がってきてるんだよね」
返事をしなかった。返事の仕方を、俺は持っていなかった。図星を突かれたとき、人間の喉はこんなふうに塞がるのだと、俺はそのとき初めて知った気がした。
白瀬は、立ち上がりかけて、もう一度しゃがみ直した。
そうやって座り直す動作の途中で、彼女のスカートの裾の内側、たぶん部活用の何かの跡なのか、薄く白い粉が膝に付着しているのが見えた。チョークのような、けれどチョークじゃない、もう少し粒の細かい粉。指先でそれを払う仕草が、妙に手慣れていた。指の関節のところに、薄く赤い擦り跡のようなものが筋になっていて、それが何の跡なのかを、俺はそのときまだ知らなかった。
「あのさ」
風が一度、俺と彼女の間を通り抜けた。
「あんた、二年A組の――」
苗字を、彼女は正しく口にした。出席番号二十三番、窓側から二列目、後ろから二番目。教室で名前を呼ばれることがほとんどない俺の苗字を、白瀬が、当たり前のように口にした。
心臓が、肋骨の内側で一度だけ、強く鳴った。
「なんで、知って」
「同じ中学の子から聞いた」
短い答えだった。同じ中学。誰だ、と思った瞬間に、頭の奥で「あいつ、いたっけ」の声が一瞬だけ再生されかけた。けれど白瀬は、その先を続けなかった。聞かれた以上のことは言わない、というふうに、唇を一度、軽く結んだ。その結び方に、なぜか妙な信頼感のようなものが宿っていて、俺は自分の警戒心が一段だけ緩んだことに気づいて、すぐにそれを恥じた。
「噂、いろいろ聞いた」
「……そう」
「でも、噂で人を判断するの、私はやらない」
白瀬の目線が、俺の弁当箱に落ちた。
唐揚げが二個、卵焼きが三切れ、ほうれん草のおひたしが少し。中学のとき、給食の時間に俺の弁当の中身を覗き込んで笑った連中の顔が、なぜか今、白瀬の横顔と一瞬だけ重なって、すぐに消えた。
彼女は、笑わなかった。
代わりに、何かを企む顔で口角を上げた。
それは、笑顔と呼ぶには鋭すぎて、悪戯と呼ぶには真剣すぎる、奇妙な顔だった。瞳の奥が、フェンスの向こうの桜の若葉よりずっと鮮やかな色をしていた。給水塔の影の中で、その色だけが、なぜか光の側に属していた。
「ねえ」
声の質が、変わった。
「あんた、放課後、暇?」
「……は?」
「暇かどうか、聞いてる」
俺は、答えに詰まった。暇に決まっていた。放課後の予定なんて、入学から二週間、一度も組まれたことがなかった。けれど「暇」と言葉にするのが、なぜか怖かった。「暇」と認めた瞬間、何かが始まってしまう気配を、彼女の口角の角度から、俺は嗅ぎ取っていた。胸の奥で、鈍く重たい何かが、ゆっくりと位置を変えるのが分かった。
「べ……別に、用は」
「ない、ってこと?」
「……ない」
白瀬は、頷いた。
それから、給水塔の鉄板に手を突いて、ゆっくりと立ち上がった。膝の白い粉を、もう一度、丁寧に払った。
「じゃあ、今日の放課後、第二体育館の裏に来て」
「は――?」
「弓道場。説明はそこで」
「いや、なんで」
「人が足りないの」
「いやだから、なんで俺」
白瀬は、振り返った。
そのとき、初めて彼女がはっきりと笑った。
口元だけじゃなく、目の奥まで動いた笑顔だった。
「給水塔の影で四十分も呼吸してる奴は、たぶん、矢の真ん中をまっすぐ見られる。私の勘」
返事をする間もなく、白瀬は鉄扉のほうへ歩き出していた。
ローファーのゴム底が、コンクリートを軽く蹴る。スカートの裾が、風にひと揺れする。蝶番が、来たときよりもずっと優しい音で、鉄扉を閉めた。
予鈴が、鳴った。
俺は、箸を握ったまま、動けなかった。
弁当箱の中の唐揚げは、まだ二個残っていて、卵焼きはひと切れ齧った歯型のまま放置されている。給水塔の鉄板に預けた制服の背中は、汗でじっとりと湿っていた。
第二体育館の裏。弓道場。人が足りない。
頭の中で、その三つの単語が順番を入れ替えながら回転している。階段の踊り場の鏡には目を合わせない、三階の自販機の前は早足で抜ける、そういう手順の組み立て方とはまったく違う種類の指示が、俺の今日の放課後を待っている。
行くわけがない、と思った。
行くわけがないと思ったのに、弁当箱を握り直した指先は、もう蓋を閉める準備を始めていた。
フェンスの向こうの桜の若葉が、もう一度、強い風で煽られた。