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半畳の青春、矢を番える

第1話 第1話

第1話

第1話

給水塔の塗装が、掌の下で薄く粉になって剥がれた。

四月末の鉄板はまだ朝の冷えを残していて、コンクリートに座り込んだ俺の腿に、その冷たさがじわりと染み込んでくる。給水塔の影に背中を預けると、錆の匂いが鼻先をかすめた。鉄と、たぶん去年の鳥の糞と、それから誰のものかも分からない夕立の名残。

弁当箱の蓋を開けて、母さんが詰めてくれた冷凍食品の唐揚げを箸でつつく。湯気はもう立っていない。給食の時間が始まって十五分、教室を抜け出してここに辿り着くまでに大体それくらい経つ。

五階の教室から屋上まで、誰にも気づかれずに上がる手順は、新学期から二週間でほぼ完成していた。階段の踊り場の鏡には目を合わせない。三階の自販機の前は早足で抜ける。屋上の鉄扉は本来施錠されているはずだけれど、去年の文化祭のとき美術部が出入りしてからずっと鍵が壊れていて、教師たちは見て見ぬふりをしているらしい。

らしい、というのは俺が誰かに聞いたわけじゃないからだ。俺には、誰かにそういうことを聞ける相手がいない。

二年A組、出席番号二十三番。窓側から二列目、後ろから二番目の席。先週の席替えで担任がくじを引かせたとき、俺はわざと一番後ろの隅っこの紙を引き直した。新しいクラスの誰の顔も、まだ覚えきれていない。覚えるつもりも、たぶんない。

唐揚げを噛む。冷えた衣が口の中でぱきりと割れて、油の塊と冷凍食品特有の甘ったるい醤油味が舌に広がった。咀嚼するたび、奥歯が衣の硬さを確かめるように鳴る。誰にも聞かせない、自分一人のための咀嚼音。それすら、ここでなければ立てる気にならない。

中学三年の冬、最後のクラスマッチでドッジボールをやった日のことを、俺は今でもよく覚えている。

ボールは一度も俺のところに来なかった。誰も俺をパスの選択肢に入れなかったというだけじゃない。敵チームも、わざわざ俺を狙わなかった。狙う価値がないと判断されていたんだと思う。体育館の冷たい床から這い上がってくる冷気と、頭上の蛍光灯の白い光と、味方の歓声と敵チームの掛け声と、それらすべてが俺一人の周りだけ届かない仕様になっていた。腕は反射的にボールを受ける構えを取りかけて、けれど誰の視線も自分には向いていないことに気づくたび、力が抜けて指先が垂れた。体育館の端で立ち尽くしている俺の周りだけ、空気が真空みたいに薄くなっていた。試合終わりのホイッスルが鳴ったとき、誰かが「あいつ、いたっけ」と笑った声が、はっきり聞こえた。

その声を、俺はまだ消せていない。

教室の壁時計の秒針の音や、誰かのスニーカーが床を擦る音や、俺の靴底のゴムが床に貼りつくような感覚と一緒に、あの一秒の中に詰まっていた全部を、俺はまだ手放せていない。家に帰って布団を被っても、夜中にトイレに立った帰り道の廊下でも、ふいに耳の奥で「あいつ、いたっけ」が再生される。再生されるたびに、俺は自分の存在の輪郭が、ほんの少しずつ薄く削れていくのを感じる。たぶん、もう半分くらいは削れている。

高校に上がって、関わりのある人間がいない場所を選んだはずだった。中学のときの連中はほとんどが地元の公立に進んで、俺だけが二駅離れたこの高校に来た。新しい場所、新しい制服、新しい上履き。なのに、入学初日の朝、俺は自分の足が勝手に隅っこの席を探して動いているのに気づいた。

身体は覚えている。立ち位置を、距離の取り方を、声を出すべきでない瞬間を。

弁当箱の隅に詰められたほうれん草のおひたしに箸を伸ばす。鰹節が湿気って、ほんの少しだけ生臭い味がした。母さんに「美味しかった」と嘘をつけるくらいの距離感が、俺と家族の間にもある。父さんは俺がいじめられていたことを知らない。母さんは知っているけれど、その話は俺たちの間で禁句になっている。

中学の担任から電話があった夜の、台所の蛍光灯の下で母さんが受話器を握っていた背中を、俺はまだ覚えている。電話が切れた後、母さんは振り向かなかった。父さんの帰りを待つふりをして、シンクの水栓を意味もなく開け閉めしていた。蛇口から落ちる水の音だけが、廊下に立ち尽くす俺の耳に届いていた。そのまま、俺たちはあの夜の話を一度もしていない。

給水塔の鉄板に背を預けたまま、俺は空を見上げた。

四月の終わりの空はただ青くて、雲がまばらに浮かんでいて、フェンスの向こうの桜は花が散りきった後の若葉が風に揺れている。眩しすぎて目を細めた。

ここがいい、と思う。

昼休み、四十分。給水塔の影の中、半畳ほどのコンクリートの窪み。鉄扉が開く音が遠くから聞こえれば気配で分かる。誰かが屋上に上がってきても、給水塔の反対側を回らない限り俺の姿は見えない。回ってくるような物好きはこの二週間で一度もいなかった。

教室で過ごす昼休みは無理だった。集団に入れない奴がいるという事実を、誰かに気づかれるのが怖い。気づかれて、また「あいつ、いたっけ」と笑われるのが怖い。だから屋上に逃げる。逃げているという自覚はある。逃げ続けて十五歳までの自分を作ってきた。逃げ続ければ、たぶん十八までも、二十二までも、その先も作れるんだろう。

予鈴まで、あと十分。

唐揚げの最後の一個を口に放り込んで、俺は弁当箱の蓋を閉めた。プラスチックの留め具がぱちりと鳴る。その音が、給水塔の鉄板に小さく跳ね返って、すぐに消えた。

ふと、フェンスの向こうの桜の若葉が、ひときわ強い風で煽られた。新緑の匂いが、屋上のコンクリートの熱と混じって、鼻の奥に届く。深く息を吸い込む。

――ここでしか、こんなふうに呼吸できない。

気づいた瞬間、肋骨の奥で何かが軋んだ。

喉の奥が干上がって、息を吸ったはずなのに肺の底まで届かない感覚が遅れてやってくる。鉄板に預けた背中の、汗ばんだ制服の布地が、ひやりと冷たく裏返る。掌に握り直した弁当箱の蓋が、力の入れ方を間違えたらしく、わずかに軋む音を立てた。

ここでしか、というのは、別に詩的な比喩じゃない。教室では呼吸が浅くなる。家でも、肺の半分しか使えていない気がする。電車の中も、コンビニのレジの前も、駅のホームの人混みも、全部呼吸が浅い。だから屋上に逃げる。逃げて、初めて深く息ができる。

それは、つまり――俺の世界は、半畳のコンクリートの窪みと給水塔の影でできている、ということだ。

弁当箱を握る指に、力が入った。プラスチックの蓋が、わずかにたわむ。

半畳。畳一枚の半分。トイレの個室より少し広いくらいの、その広さ。中学のとき体育の授業で測った身長は百七十二センチで、寝そべれば対角線にぎりぎり収まるくらいの面積。俺の高校生活が許容している、唯一の領域の広さ。

半畳。高校生活の昼休み四十分、俺が呼吸していられる場所の広さが、半畳。

こんなものが、青春なのか?

分かっている。こんなのが青春なわけがない。分かっているのに、俺は明日も明後日もここに来るだろう。来週も、再来週も、たぶん卒業まで。給水塔の塗装はもっと剥げて、空はもっと夏の色になって、それでも俺は同じ位置に座り続けるのだろう。

そのとき、フェンスの向こう、下のグラウンドの方角から、女子の笑い声が風に乗って一瞬だけ届いた。

誰の声かは分からない。耳を澄ましても、もう聞こえない。給水塔の影から身を乗り出して下を覗き込むような勇気は、俺にはない。

予鈴が鳴った。

立ち上がろうとして、コンクリートに擦れた制服のズボンが、わずかに白く粉を吹いていることに気づいた。膝のあたり。教室で誰かに見られたら、何か言われるかもしれない――何か言われるかもしれない、と思ってしまう自分が、たぶん、いちばん嫌いだ。

ズボンの粉を払いながら、俺はもう一度、フェンスの向こうの桜の若葉を見た。風が、もう一度、若葉を揺らした。

六時間目、英語の教科書を開いたまま、俺は窓の外を見ていた。

斜め前の席の女子二人が、ノートの裏で何かを書いて小さく笑っている。その手元に、隣のクラスの誰かの名前が一瞬見えた気がした。「白瀬」――確か、そう書いてあった。

校内一の有名人らしい、と四月の最初の朝礼で誰かが噂しているのを聞いた覚えがある。何かの大会で結果を出して、入学早々学校中の話題になった女子。今は二年で、俺の隣のクラスにいるらしい。

らしい、ばっかりだな、俺の人生は。

放課後のチャイムが鳴ったとき、俺はもう、明日の昼休みに屋上に上がる手順を頭の中で組み立て直していた。階段の踊り場の鏡には目を合わせない。三階の自販機の前は早足で抜ける。鉄扉の取っ手に、いつもどおり手をかける。

その扉の向こうに、半畳の窪みがあって、俺はそこで唐揚げを噛んで、桜の若葉を見上げる。

明日も。明後日も。

鞄を肩に掛けて立ち上がりながら、教室の窓ガラスにぼんやり映る自分の顔を、俺は今日も見ないようにした。

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