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仮面のキャプテンと幼馴染の春

第1話 第1話

第1話

第1話

「桐谷くんって、何が好きなの?」  五月の風が窓のレールを鳴らした瞬間、隣の席から飛んできた声が、俺の眼鏡のフレームに引っかかった。  文庫本のページに指を埋め直して、視線を逸らす。前髪の隙間から、白瀬詩織の白い指が机の縁を二度叩いているのが見えた。爪は短く切ってある。中学の合唱コンクールで伴奏を弾いていた指だ。 「……別に、何も」  喉から出した声は、自分でも他人みたいに平らだった。 「またそれ」  詩織が頬杖をつく。教室の蛍光灯と窓の光がぶつかって、彼女の制服のリボンが一瞬だけ二色に見えた。 「中学のときの桐谷くんは、もっとよく喋ったのに」  昼休みの教室は、五月の半端な気温で湿っている。誰かが開け放した窓から、グラウンドの土埃と若葉の匂いが入り込んできた。俺は文庫本のしおりを噛み直して、ただ頷く。喋らないこと。目を合わせないこと。前髪を切らないこと。眼鏡のレンズに反射を作ること。それだけで、教室の三十八人の中で俺は背景になれる。  中学までの俺じゃない。あれは捨てた。  詩織が何かを言いかけたところで、五限の予鈴が鳴った。彼女は「あとで」と笑って、椅子を引く。あとで、なんて来させない。それが俺の安全地帯だった。

 六限が終わるまで、俺は時計の針を三百十二回数えた。  古典教師のチョーク、前の席のあくび、廊下を駆けていく一年生の上履きの軋み――そういうものを耳に通しながら、俺の指は鞄の中で硬いものを撫でていた。革と樹脂で編んだ、目元だけを覆う黒い仮面。手のひらに馴染んだ重さが、俺の本当の体温に近い。  チャイム。  詩織が立ち上がる気配がする。 「桐谷くん、文化祭の準備、明日の放課後――」 「ごめん、用事ある」 「明後日は?」 「ある」 「来週は?」 「……たぶん、ある」  ノートを閉じる速さで彼女の声を切った。詩織の唇が、ほんの一瞬だけ一文字に結ばれたのが視界の端に見える。それでも彼女はすぐに笑顔に戻して、「了解です、桐谷部長殿」と敬礼の真似をしてみせた。冗談にしてくれる優しさが、いちばん刺さるのを、彼女は知らない。  廊下を歩く。窓際を選んで、誰とも肩がぶつからないように歩幅を半歩ずらす。下駄箱で上履きを履き替える時、隣のクラスの女子が「あの陰キャまだ生きてたんだ」と笑った。聞こえなかったふりをして、俺は校舎を出る。  五月の校庭は、新しい芝の青臭さで一杯だった。  旧体育館は、新校舎の影に隠れるように建っている。三年前に耐震基準を満たさなくなって、表向きは閉鎖されたことになっている。鍵は事務員のおばさんから借りた合鍵で、扉の蝶番には俺が二週間前に差した油の匂いがまだ残っていた。  中に入る。  床のニスは剥げて、フリースローラインの白塗りも消えかけている。天井の蛍光灯は六本に三本しか点かない。それでも、ここだけが俺の呼吸が深くなる場所だった。  鼻から吸う空気の匂いが、教室とはまるで違う。古い木材とラバーマット、それから誰かが昨日こぼした麦茶の甘さがほんの少しだけ混ざっている。窓の高いところから差し込む西日が、宙に舞う埃を金色の粒に変えていた。その粒は、誰の指図も受けずに、ただ自分の重さだけを頼りに落ちていく。俺はその落下を、何度でも目で追いたくなる。 「キャプテン、遅い」  ステージの陰から声が降ってくる。一個上の副キャプテン、湊だ。バッシュの紐を結びながら、彼は俺をちらりと見上げた。 「氷雨学園の三年が、先週うちの試合動画を観てたらしい。佐倉が掴んできた」 「ふうん」  湊は、それ以上は言わなかった。彼は俺の癖を知っている。情報だけ放り込んで、反応を待たずに自分の準備に戻る。俺がそれを欲しがっていることを、口に出させないでいてくれる。湊の指がバッシュのループを通すたび、紐の擦れる音が体育館の高い天井に小さく跳ねて、また落ちてきた。

 俺は鞄から黒い仮面を取り出した。  ゴムを後頭部にかけ、目元に革を当てる。前髪は仮面の縁に押し込んだ。眼鏡を外して胸ポケットにしまうと、世界が一段だけ、輪郭をくっきりとさせた。  視界の端から、余分な情報が削ぎ落とされていく。詩織の困惑した笑顔も、廊下の女子の囁きも、教室の蛍光灯のじりじりとした音も、いま俺の眼鏡と一緒に胸ポケットの中に畳まれて閉じ込められた。残ったのは、コートの白いラインと、まだ温まりきっていない自分の肩と、九つ分の足音だけだ。 「整列。メニュー二十分後に切り替え。佐倉、ストップウォッチ」  声が、教室で出していたものとは別の太さで体育館の梁まで届いた。部員九人が一斉にコートの中央へ集まる。誰も俺の素顔を知らない。仮面の下に何があるかなんて、ここでは誰も訊かない。それが「夜想会」の最初の規則だった。  ドリブルの音が、二、三、四と重なっていく。シューズの摩擦音、汗の塩の匂い、誰かが息を吐くたびに揺れるネット。俺は自分の心拍が体育館の音に飲まれて溶けるのを聞いた。  教室では、自分の心臓の音が、ずっとイヤホン越しに聞かされているみたいに大きく感じる。誰かに気づかれそうで、誰かに笑われそうで、心拍ひとつまで隠し方を考えなければならない。けれどここでは、その音が九人分のリズムの中に紛れて、誰のものでもなくなっていく。だから俺は、ここでだけは、息を吐ききることができる。 「湊、左サイド張り過ぎ。半歩戻れ」 「佐倉、その距離なら打たずに切れ」 「一年、シュート前にもう一呼吸入れろ」  言葉が、ためらいなく出てくる。教室で詩織に「別に」しか返せなかった舌と、同じ舌で。指示を出すたび、部員の動きが一秒前より滑らかになる。それだけが、俺がここに立っている唯一の理由だった。 「了解、半歩戻る」湊の声が短く返ってくる。 「切る、切る、切ります!」佐倉が走りながら笑う。 「もう一呼吸……っ、はい、入れます!」一年生が震える語尾で頷く。  誰も俺の指示を疑わない。仮面の下の顔を見たことがない九人が、仮面の声だけを信じてコートを動いていく。その事実が、肺の底を温めるみたいに、俺の体を内側から押し広げる。教室で「別に」と返したときに胸の真ん中で固まったままだったものが、ここではちゃんと、声と一緒にほどけていく。  六時を回った頃、湊がボールを抱えたまま近づいてきた。 「合同練習試合、エントリー名どうする」 「いつも通り、仮面のまま『K』で」 「……いつまで、それで行くつもりだ」  湊の声は責めているわけじゃなかった。ただ、知っている人間が知っていることを訊いただけだ。俺は答えなかった。仮面の縁を一度だけ指で押し直して、コートに戻る。

 練習が終わったのは七時半過ぎ。部員を先に帰し、俺は最後に体育館の鍵をかける。汗を拭い、仮面のゴムを外すと、後頭部に細い跡が残った。それが消える前に学校を出ないといけない。  その細い線を指で撫でると、皮膚の下を走っていた何かが、ゆっくりと体の奥へ引っ込んでいくのが分かる。仮面と一緒に脱げるのは、声の太さや、視線の高さや、明日の練習を見据えるための呼吸の深さだ。それらを全部、明日のために、この体育館の床にそっと置いていく。  眼鏡をかけ直す。世界がまた、ぼんやりした輪郭に戻る。  扉に鍵を回したとき、ポケットの中でスマホが一度だけ震えた。詩織からのLINEが一行光っている。 『明日の文化祭の買い出し、放課後ね。校舎裏のあたり、まだ静か?』  俺の指が止まる。  画面の光が、暗くなりかけた校舎裏のアスファルトに、不規則な四角を作った。詩織のアイコンは中学のときに本人が描いた自分の似顔絵のままで、笑った口の端が今も少しだけ右に上がっている。その口の端を見るたび、教室で「あとで」と笑った彼女の唇と同じ角度だ、と思ってしまう。  校舎裏。それは、旧体育館のすぐそばを指す言葉だった。  偶然だ、と俺は思った。たぶん、偶然だ。それでも、五月の夜風が首筋にやけに冷たくて、俺は鞄の中の文庫本のしおりが、いつのまにか曲がっていたことに、ようやく気づいた。  明日。  明日、放課後。  誰もいない校門に向かって歩き出す。前髪の下で、心臓だけが、まだ仮面のリズムで打っていた。

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