第2話
第2話
土曜日の朝、旧体育館の鍵穴に油が新しく落ちる音は、平日のそれより低く聞こえた。
人のいない校舎の上を、風が一度だけぬるく撫でていく。窓ガラスの向こうで、誰かの忘れていった上履きが下駄箱の縁に引っかかったままだ。靴下の白さが、五月の早い光に灼かれて少しだけ黄ばんでいる。それを横目に見ながら、俺は鞄から黒い仮面を取り出し、後頭部にゴムをかけた。革の縁が前髪の生え際を擦る、その小さな痛みでようやく、俺の右半分は呼吸を整え始める。
携帯の画面には、昨夜送れずにいた文面が下書きのまま残っている。 『買い出し、ごめん、土曜は無理だ』 詩織のアイコンの口の端が、画面の下からこちらを覗き上げていた。送信ボタンを押す指が、ほんの一瞬だけ止まる。湊が向こうのコートで「キャプテン、五分」と短く呼んだのを聞いて、俺は画面を伏せたまま、下書きを破棄した。理由を捻り出すより、また「ある」と一言だけ送る方が、たぶん俺たちは長持ちする。
体育館の扉が開く。
「あ、ども。本日はよろしくっす」 都内のチームの三年が、軽い会釈で一列ずつ入ってきた。袖のロゴを見るまでもなく、どこの強豪かは湊から聞いている。先週、関東選抜のセレクションに二人通したばかりの、表の側のチームだ。俺たちみたいな名前のないクラブと、なぜわざわざ非公式に試合を組みたがるのか、それを訊くのは仮面の役目じゃない。
「『K』さん、今日は一本ずつ、よろしくっす」 先頭の三年が、俺の仮面を見て、ほんの半秒だけ視線をずらした。表情を読まれない人間と話すときの、慣れた距離の取り方だ。
「こちらこそ。一本ずつ、いきましょう」 俺は、教室で出すよりニ段低い声で頷いた。仮面の下では、唇が少しだけ笑っていた気がする。
笛の音が、空気を一つに揃えた。
ティップオフ。湊が一年生の頭越しにボールを叩き落とし、佐倉がその先で受ける。三歩目には、俺の指示が飛んでいた。 「右、ハイポストに入れろ。湊、ピックは一回だけ」 「了解!」 佐倉のパスが鋭く曲がる。湊のスクリーンが、相手の三年の右肩に綺麗に引っかかった。俺はゴール下を一度走って、戻る。アシストはしない。点を取るのは仮面の仕事じゃない。九人の足の裏が床を擦る音だけを、勘定係みたいに数えていく。
「いいよ、その間合い。詰めるな、誘え」 「ボトム、もう半歩。そう、そこ」 「打たせろ。打たせて、リバウンドは外側」
第一クォーター、十五対五。 相手のキャプテンが、ベンチに戻ってタオルを首にかけた。眉間のしわが深くなっている。彼の目が、コートの中央じゃなく俺の仮面に止まっている時間が、少しずつ伸びていく。それでも、俺は表情を返さなかった。仮面の役目は、笑わないことと、勝ちすぎないことだ。
第二クォーター。 向こうがディフェンスの形を変えてきた。マンツーマンから、二三のゾーンへ。湊が一瞬、目で俺を探す。 「湊、コーナーから抜くな。中で剥がせ」 「中で剥がす、了解」 湊の腰が、半歩沈む。相手のセンターのリーチを読んで、彼は左肩から入ってからの右切り返しでフリーを作った。佐倉の三本目のスリーが、ネットを垂直に落ちる音がする。 「ナイスっす、ナイスっす!」 一年生が両手を叩いて笑った。彼の声に、まだ少し震えが残っている。それでも、その震えは緊張じゃなく、勝っていることへの戸惑いに近かった。
ハーフタイムのベンチで、湊が水筒の蓋を開けながら、俺の方は見ずに言った。 「向こうの三年、一人だけずっとあんたの仮面を見てる」 「気にするな」 「気にしないと、後半でフェイスガードに手を伸ばしてくるかもな」 「そしたら、ずらすだけだ」 湊が短く笑った。俺は仮面の縁を一度だけ親指で押し直す。革の内側に、汗が薄く溜まり始めていた。教室では一日中乾いている肌が、ここでは三十分でこんなに濡れる。それが俺の体温の本当の数字だった。
第三、第四クォーターは、もう試合と呼ぶより、確認作業に近かった。 相手は本気を残していたし、俺たちのオフェンスは、本気を一段だけ抑えていた。湊が時々、俺の指示の半歩前に動き出す。佐倉が三本目のスリーから、わざと外す選択を一度入れる。一年生が初めて、自分の判断でカットインを切った。俺は仮面の下で、唇の端が三度上がるのを噛み殺した。
最終スコア、五十八対三十二。 ブザーが鳴ったあと、相手の三年がコート中央で握手を求めて手を伸ばしてきた。 「『K』さん、強いっすね」 「お互いに」 俺はその手を、左手で短く握り返した。仮面の縁に触れさせないための、左手だ。
体育館の隅、給水ボトルを並べ直していると、佐倉が湊に肩を寄せて何か囁いているのが、視界の端に映った。
「氷雨、来てたって」 「マジで?」 「うん。あの黒のスタジャン、二階の手すりんとこ。三年だってさ。多分、スカウトじゃなくて、自分の目で確かめたいって来た口」 「『K』さんに?」 「……だと思う」
俺は、二階の手すりに視線を上げなかった。 氷雨学園。冬の選抜常連、関東四強、毎年二人ずつインターハイ代表を出している、表のチームの中の表。仮面のクラブに、その名前が落ちてくるのは、そろそろあり得ない話じゃなかった。佐倉と湊の声を、聞いていない振りで、俺は体育館の扉まで歩く。
「キャプテン」 湊が追ってきた。 「氷雨の話、聞いた?」 「聞かなかった」 「……そう」 湊はそれ以上は言わなかった。俺の癖を彼は知っている。耳に入れたまま反応しないこと、それ自体を反応として読むのが、副キャプテンの仕事だ。
部員を先に帰した。一年生が「お疲れ様でしたっ」と扉の前で深く頭を下げて、それでもまだ勝った実感が薄いみたいに、両手の拳を二度握り直してから出ていった。
仮面のゴムを外す。後頭部の細い線が、いつもより一段強く、内側に食い込んだまま戻らない。これを今日の体に持って帰るのは、たぶん良くない。指の腹で擦って、その跡をできるだけ早く消す。眼鏡をかけ直すと、視界がまた、誰の目にも刺さらないぼんやりした輪郭に戻った。
鞄に仮面をしまう。革の紐の端が、鞄のジッパーに少しだけ噛んだままだったのを、俺は気づかなかった。たぶん、気づくべきだった。
体育館の鍵を閉める。校舎裏の桜は、もう花が散って、葉だけが太く重そうに垂れていた。土曜の校舎は静かで、誰の足音も俺の歩幅についてこない。それが心地よくて、俺は耳のうしろで風を聞きながら、校門の方へ歩き出した。
途中、自販機の前で財布を出そうと鞄を肩から下ろしたとき、ジッパーの隙間から、革の紐が一本、舗装の継ぎ目に静かに落ちた。
落ちた音は、俺の耳には届かなかった。俺は二本目のお茶を選び、ボタンを押し、ペットボトルを取り出して鞄を担ぎ直した。仮面の本体は鞄の底にちゃんと残っている。紐の片側が抜けていることを、俺は校門を出るまで知らない。
俺の足音が遠ざかった、その三十秒後。
自販機の影から、誰かが校舎裏に戻ってきた。 スニーカーが、舗装の継ぎ目で一度止まる。 落ちた革の紐を、白く短い指がゆっくりと拾い上げた。爪は短く切ってある。中学の合唱コンクールで伴奏を弾いていた、あの指だ。
詩織の指は、紐の端を確かめるように二回こすった。革の硬さと、ゴムの伸び方と、内側に残った汗の跡。それを一通り指の腹で読み取ったあと、彼女は小さく息を吐いた。 教室で誰かに向ける、あの少し右上がりの口の端は、そこにはなかった。代わりに、唇は薄く一文字に閉じられていて、目の温度が、放課後の蛍光灯の下では見ることのない種類に下がっていた。
「……桐谷くん」
呟きは、誰にも届かない高さで切り取られて、夕方の風に持っていかれる。 詩織は紐をハンカチに包み、制服のポケットの底に、まるで前から決めていた場所みたいに、落ち着いて押し込んだ。 そして、何でもない顔をして、もう一度、表通りの方へ歩き出した。 明日の教室で、彼女が俺の隣の席に座る時間は、もう決まっている。 そのことを、俺はまだ何も知らずに、駅前の信号で、青を待っていた。