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仮面のキャプテンと幼馴染の春

第3話 第3話

第3話

第3話

月曜の朝、教室の引き戸を開けたとき、空気の温度がいつもと半度だけ違った。

蛍光灯の白さに、五月の終わりの黴っぽい湿りが混じっている。誰かが昨日の昼に飲み残した牛乳パックの匂いと、新品の文化祭実行委員のしおりの紙の匂い。新しいプリントが配られる前の、教室の鼻先のあの匂いだ。

俺は前髪の下で目を細めて、自分の席まで五歩で歩いた。鞄を椅子の脇に下ろす時、ジッパーの内側で革と樹脂の塊が寄せ合う、いつもの音がした。仮面はちゃんとそこにある。土曜の試合のあと、家で二度確かめた。紐の片側が、寝かせる向きをいつもと反対に整えたままだった気がして、もう一度指で押し直したのは、家を出る前の最後の三秒だ。

「おはよう」

隣の席から、平らな声がした。

詩織は、自分のシャープペンを机の真ん中に置き、ノートを開きかけたまま、こっちを見もせずに挨拶した。いつもと同じ、土曜の朝じゃなく月曜の声。リボンの結び目は左に三ミリだけ斜めで、前髪は耳のうしろに同じように流してある。

「……ん」

俺は、教室で出すいちばん短い返事をした。彼女の口の端は、五月のいつもの右上がりに笑っていた。だから、何もないんだろう、と俺は思う。少なくとも、思いたいんだろう、と思う。

朝のホームルームで、担任が文化祭実行委員のしおりを生徒会から預かってきたと告げた。

「うちのクラスは、装飾と買い出し担当な。準備係、まだ決まってないとこから決めてけ」

窓側の女子が、隣の男子と「やる?」「やんない」を交互にやっている。俺は文庫本の表紙を、机の縁に半分だけ隠した。

「はい」

詩織の手が、まっすぐ上に伸びた。

「私、買い出し係やります。補佐は――桐谷くんに、お願いしようかな」

教室の三十八人分の目が、波打つようにこっちへ寄った。

「俺?」

声を作り損ねた。喉の輪郭が一段だけ後ろにずれて、平らな返事のはずが、ほんの少しだけ上ずった。

「桐谷、お前で大丈夫か」

担任が、出席簿の角で頭を一度掻く。

「大丈夫っす、絶対大丈夫っすよ。桐谷くん、荷物持ち得意なんで」

詩織は、誰に向けたのかわからない営業スマイルを担任に向けて、それから俺の方には目を合わせないまま、空いた左手で机の縁を二度叩いた。中学の合唱コンクールで伴奏を弾いていた、短く切られた爪の指だ。

「……まあ、二人で組めるなら、頼むわ」

担任のチョークが、俺の名前の横にチェックを入れた。

ガラガラと机の音が立って、みんなが向き直る。世界が半度だけ詩織の側に傾いて、また元に戻った気がした。俺は文庫本のページに、いつのまにか折り目を作っていた指を、ゆっくり開いた。

昼休み。

詩織が、購買のメロンパンの袋をぱりぱり鳴らしながら、俺の机の角に肘を置いた。

「ねえ、桐谷くん」

「……何」

「桐谷くんって、何が好きなの?」

教室の誰かが廊下で笑った声が、開いた窓から細く差し込んでくる。五月の風はまだ、首筋に湿った重さを残していて、だけど詩織のその一文だけは、なぜか乾いた紙の音に聞こえた。

買い出しの話なんだろう、と最初は思おうとした。何の店に行くか。どこのクッキーを買うか。装飾の色は赤か青か。

でも、彼女はそういう聞き方をしない人だ。

「……お菓子とか、色とか、手芸用品とか?」

念のため、俺は教室用の声で訊き返した。前髪の中で、心臓だけが急いで返事を作っている。

「それも、聞きたいけど」

詩織は、メロンパンの皮を一枚ちぎって、爪の先で半分に割った。

「何でもいい。桐谷くんが好きって思うやつ、ひとつだけ教えてよ」

俺は、文庫本の背に親指を当てて、ページの端を一度だけしならせた。

仮面の下で湊や佐倉や一年生に出してきた声は、ちゃんと知っている。半歩戻れ、その距離なら打たずに切れ、もう一呼吸入れろ。あれを今ここで出せたら、たぶん俺は詩織の右上がりの口の端に、ちゃんと届く言葉を返せるはずだった。

でも、ここでは出せない。ここで出したら、ぜんぶ繋がってしまう。

「……たぶん、本」

「文庫本の?」

「うん」

「どんな話の?」

「……長いの」

詩織は、半秒だけ目を細めた。それから、メロンパンの皮を口の中に入れて、よく分からないけれどとりあえず噛んでいる、というふうに頷いてみせた。

「了解です、桐谷補佐殿」

冗談めかした敬礼は、ep1で投げてきた「桐谷部長殿」より、役職がひとつだけ落ちていた。彼女なりの加減なのか、別の何かの目印なのか、俺の前髪の隙間からは、ちゃんとは見えなかった。

俺は、笑った。教室用に少しだけ口の端を上げて、何でもないみたいに笑った。曖昧な笑顔ほど、嘘の手間を省けるものは、世界にそう多くない。

詩織は、それ以上は何も訊かなかった。メロンパンの最後のひとかけを、爪先で割らずにそのまま噛んだ。

その「訊かなかった」が、訊けなかったのか、訊かなかっただけなのか、俺には判別がつかなかった。

放課後、文化祭実行委員会のあと、詩織が俺の机の角に小さなメモ用紙を一枚置いて帰っていった。

紙はノートの端を真四角に千切ったもので、彼女の几帳面な丸い字で、

『買い出し、明日の放課後。校舎裏で待ち合わせていい? 静かな方がいいでしょ』

と書いてあった。下の方には、駅前の雑貨屋の名前と、そこまでの所要時間が分単位で添えられている。十二分。彼女は移動の見積もりを、いつも数字で書く。

校舎裏。

旧体育館のすぐそばを指す言葉だ。三日続けて、俺の前にその四文字が落ちてきている。土曜のLINE、日曜の頭の中、そして今日のメモ。偶然、と頭の中で打ち消すたびに、打ち消す指の力だけが少しずつ強くなっていく。

夕方、いつも通り旧体育館の鍵を開けた。

仮面のゴムを後頭部にかけて、革の縁が前髪の生え際を擦る、その小さな痛みでようやく俺の右半分が呼吸を整え始める――はずだった。

今日は、整わない。

「キャプテン、メニュー、いつもので?」

湊の声が、ステージの陰から短く飛んでくる。佐倉が床のラインテープの剥がれを指で押している。一年生が壁際でランジを始めている。コートの白いラインも、天井の三本だけ点いた蛍光灯も、ぜんぶ昨日と同じ位置にあるのに、俺の声だけが、半歩遅れて出てくる。

「……いつもので」

湊が、半秒だけ動きを止めた。それから何も言わずにボールを抱え直して、コートの中央に戻っていった。彼の癖だ。耳に入れたまま反応しないこと、それ自体を反応として読む。今日は、読まれた側が、俺だった。

「右、ハイポストに入れろ。佐倉、その距離なら、打たずに切れ」

声は、いつもの太さで体育館の梁に届いた。届いたけれど、自分の鼓膜の内側に、今朝のメモの「校舎裏」の四文字が、まだ薄く貼りついたまま剥がれない。

「キャプテン、もう一回、出だし」

湊が、わざと俺の指示を一度戻させた。動きの組み立て直しじゃなく、たぶん、俺の声の組み立て直しの方を、彼は気にしていた。

「悪い。出だし、もう一回」

俺は、メニューシートを手のひらで一度だけ叩いた。指の腹に、ポケットの中の小さなメモの形が、まだ残っている。

紙ってこんなに、光るものだったか、と思う。

蛍光灯の下でも、夕方の校庭の下でも、紙そのものは光らない。光っているのは、丸い字で書かれた「明日の放課後」の七文字の方だ。詩織のシャーペンの先が一瞬だけ止まって、その数字をひと息に書き切った、その重みだけが、俺の手のひらの中で、小さな電球みたいに点いたり消えたりしている。

練習を切り上げて、最後に体育館の鍵を回したとき、後頭部の細い線がまた皮膚の下を走った。

仮面を鞄の底に戻す。今日は、紐の片側を、必ず指で奥まで押し込んだ。革と布の縫い目に紐の端が留まっているのを、人差し指の腹で三度確かめる。確かめながら、指先が紐の端を必要以上に何度も探していることに、俺は気づいていた。

校舎裏のアスファルトに、自販機の青い光が落ちている。

ポケットからメモを取り出す。詩織の丸い字を、夕方の薄暗さで読み返した。

『校舎裏で待ち合わせていい?』

俺は、その一行の上に親指を置いた。

明日。明日の放課後、彼女は、ここに来る。俺がいつもこの場所で、何を脱いで何を着けているのかを、知らないままで――いや、本当に、知らないままだろうか。

夜風が、校舎の角を一度だけ撫でて、俺の前髪を半歩ぶん持ち上げた。メモの上の親指が、まだ温度を持ったまま、止まっていた。

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