第2話
第2話
東寺の五重塔が、観光バスの窓の右端に見えたのが、京都駅から七分目のことだった。
バスのシートに背をつけたまま、俺は膝の上の班の行動予定表を握り直した。一時間目、清水寺。二時間目、高台寺。三時間目、八坂神社。一枚のプリントに三つの集合時刻がゴム印みたいに並んでいる。集合、集合、集合。行動はすべて班単位、集合はすべて十分前。しおりの指示通りに動けば、俺の一日はたぶん無難に終わる。
斜め前の席で、班長の藤巻が同じ班の女子と地図を見比べていた。俺はうなずくタイミングだけを頭の中で予習する。清水寺に着いたら、まず産寧坂、そのあと本堂、舞台、音羽の滝、帰りに参道で昼食。どの場面で俺はどこに立てば、誰の邪魔にもならずに一枚の写真に収まれるか。ノートの余白に描く菱形と同じだった。入る場所を決めておかないと、体が固まってしまう。
昨日の〇・五秒が、まだ指先にいる。
朝、新幹線を降りたあと、京都駅のコンコースで一度だけ、俺は白瀬環を遠くに見た。松井の肩越しに、彼女は駅員の道案内に聞き入っていて、こちらには振り返らなかった。たまたまだった、と俺は何度目かの整理をする。観察の対象がたまたまホームで後ろを向くことなんて、二年間のうちに一度や二度はあったはずだ。記憶を漁っても一度もない、と答えが返ってきたあたりで、俺はその検索をやめた。
バスが東山通りに入る。窓の外、銀杏の葉が秋の最後を絞り出すみたいに色を濃くしていた。
「五組、清水寺前で整列!」
担任の声が、観光バスを降りた直後の熱気を割って飛んできた。修学旅行の九月下旬。東京より数度分、空気が乾いていて、山に近い匂いがする。参道を上り始めたところで、藤巻が班員をまとめ直した。俺の班は四人+一人で、列が歪になる。必ず誰かが斜めに歩く。いつも斜めなのは、俺だ。
産寧坂の石段を上る間、班の女子二人は抹茶ソフトの店に目を奪われて、男子は八ツ橋の試食の話をしていた。俺は「どっちが美味いかな」の議論に三秒遅れて頷いた。三秒遅れれば、話の流れはすでに次に移っていて、俺の返事は誰にも届かない。届かなくていい。
本堂前、班ごとの集合写真。学校が雇ったプロのカメラマンが、ひな壇を組むみたいに生徒を並べる。
「背の低い子、前ー!」
俺は反射的に前に出かけて、それから自分が背の低い子じゃないことに気づいて、足を止めた。
「そこの男子、もっと端に寄ってくれる?」
カメラマンに言われたのは、たぶん俺のことだったと思う。藤巻が俺の肩をぽんと押して、俺は一歩、右にずれた。ずれた先には、もう柵があった。柵の支柱に肩が当たる。シャッターが三回切れた。三回目のシャッターの瞬間、俺は右足の爪先だけを少しだけ持ち上げて、写真の端から自分が切れる角度を探した。探し慣れていた。
「解散ー! 三十分後、ここに集合ね」
解散の合図で、班はあっさり解ける。藤巻たちは音羽の滝に向かって下りていった。俺はついていくつもりだった。つもりだった、というのが正確だ。
本堂の舞台に出ようとした俺の横を、他のクラスの大きな団体が横切った。先頭の子が、友達に手を振りながら半身でぶつかってきて、俺の肩がひとつ、人の流れに押された。押された先には、ちょうど参道へ戻る石段があった。石段は下りの勾配になっていて、俺の足は自然と一段、二段、下に引き込まれる。気がついたら、俺は班の背中を見失っていた。
見失った、というより、見失うのは知っていたけど、それを止めなかった。
三年坂の途中で、一度、藤巻の後頭部が見えた気がした。人波の先、ちょうど音羽の滝に向かう下りの角で、俺と同じクラスの男子が四人、固まって歩いている。追いつこうと思えば、たぶんまだ追いつく距離だった。追いつこう、と頭では思った。でも足は、追いつく方に動かなかった。追いついたら、なんて言って戻るんだろう。「ごめん、人に流された」と言えば、「マジか」と笑って受け入れてくれるのは分かっている。分かっているのに、俺の口は、その短い言葉を発声する練習を、二年間、一度もしてこなかった。
石畳の感触が、靴の裏で微妙に違った。東京のアスファルトは、どこを歩いても同じ硬さをしている。この石畳は、一歩ごとに、土を噛んでいるのか、石の平らな面に当たっているのか、足の裏で分かる。土の匂いが、石段の端の苔から、湿って立ち上っていた。風が一度、俺の耳の後ろを通って、うなじを冷やしていった。京都の秋は、東京より一段、紅葉の色が早いらしい。しおりの豆知識に書いてあった。
昨日、折った芯の粉が、まだ指紋の溝に残っている。それを石段の手すりに擦りつけるようにして、俺は下りていった。
音羽の滝の列に並ぶ気にはなれなかった。順番を待つ間、誰と話せばいいのか分からない。俺は本堂裏の、人のあまり来ない回廊の方へ逸れた。
そこで、白瀬環とすれ違った。
正確には、すれ違いかけた。
彼女は、本堂の脇に立って、回廊の柱にかけられた古い扁額を見上げていた。一人だった。白瀬環の一人が、俺にはすぐに分からなかった。いつも彼女の周りには三人か四人がいる。扁額を見上げる横顔は、教室で松井に笑いかけているときよりも一段、表情が薄い。観察ノートにない顔だ、と思った。思った瞬間、俺は足を止めてしまって、止めた時点で彼女は俺に気づいた。
「瀬尾くん」
俺の名字の発音が、白瀬環の声で聞こえたのは、二年間で初めてだった。
心臓が、バスを降りたときよりも一段、深いところで跳ねた。
「……白瀬、さん」
返事がうまく前に進まなかった。さん、を付けるか迷って、結局付けて、付けてから距離を取りすぎたかと心配になって、さらに言葉が詰まる。
「はぐれたの?」
彼女は、首を少しだけ傾けてそう言った。
はぐれたの、の言い方が、妙に正確だった。俺が班から流された瞬間を見ていた人間みたいに。迷子、とも、どうしたの、とも、違う。はぐれた、は、元いた場所から離れてしまった人間に使う言葉だ。俺が今、ちょうどそういう状態だと、彼女は言い当てていた。
「うん、まあ」
「私も」
と彼女は言った。
私も、の二文字で、彼女の班の女子三人の笑い声が、境内のどこかから風に乗って聞こえてきた。全然はぐれていない声だった。白瀬環は、その声の方を一度見て、それから俺に視線を戻した。
視線の合わせ方が、昨日のホームと同じだった。瞬きよりは長く、会釈よりは短い。ただ、今日のそれには、昨日になかった温度があった。温度、という言い方が正しいかは分からない。彼女の瞳の黒が、俺のいる位置に、迷わず合っていた。狙って見ている、と、今日は、思った。
「音羽の滝、並ぶ?」
「……並ばない、と思う」
「じゃあ、本堂の裏、行っていい?」
行っていい、の主語が曖昧だった。彼女が行っていいか、と俺に許可を取っているのか、俺が彼女と一緒に行っていいか、と提案しているのか。たぶん後者だった。たぶん、の段階で俺は頷いていた。
本堂の裏の回廊は、秋の午後の光が柱のあいだで縞になっていた。板張りが、靴の下でときどき軋む。白瀬環は俺の一歩前を歩いた。先に歩くのは珍しい。観察ノートの中の彼女は、いつも誰かの半歩後ろから話し始める。
「清水寺、何回目?」
俺は、沈黙を埋めるために聞いた。
「四回目。小学校の家族旅行と、中学の林間学校と、去年の夏と」
「去年の夏?」
「友達と」
彼女は、友達、の一音にすこしだけ色を残した。どの友達かは言わなかった。聞いていい話題なのか分からなくて、俺は頷くだけに留めた。
「瀬尾くんは?」
「初めて」
「そっか」
彼女は、短く笑った。笑ったときに、下唇の右端に、左手の人差し指と中指が、軽く当たった。観察ノートの七ページ目に書いた、あの癖だった。同じ癖が、俺の一メートル前で起きている。ノートの記述が、突然、生きた動きに上書きされた。
「瀬尾くん、写真、端だったね」
白瀬環が、三歩先で立ち止まって、振り返らずに言った。
俺は足を止める。
いつから見られていたのか、という質問を、喉の手前でつかまえた。さっきの集合写真なのか、班から流された瞬間なのか、新幹線のホームなのか、それよりずっと前なのか。どれでもあり得る。どれでもあり得てしまう。
彼女は、俺の返事を待たずに、また歩き出した。白いリボンが、後ろ髪の動きに合わせて軽く揺れる。
俺は、二年間の膜の内側から、彼女の背中を見ていた。
でも今、膜の外側から、彼女の背中を見ている自分がいた。
秋の風が、本堂の裏手を吹き抜けた。金木犀には、まだ早い。けれど、どこか、知らない花の匂いがした。
集合時刻まで、あと二十三分。
俺は、足を前に出した。