第3話
第3話
旅館の配膳の湯呑みが、盆の上で一度、小さく鳴った。
二日目の夕食、伏見の旅館、大広間。五組の男子は奥の壁際、女子は入口側。俺の膳は列のいちばん端で、壁の電気コードが肩の後ろに見える位置だった。湯豆腐の陶器の蓋を取ると、湯気が顔に当たって、豆腐の端の気泡まで粒で見えた。藤巻が向かいで「京都の豆腐ってもっと味するかと思った」と笑い、俺はその笑いに一拍遅れて頷いた。三秒遅れの頷きは、今日ももう何度目か分からない。
昼間、本堂裏の回廊を白瀬環と二十三分歩いた。二十三分の最後、高台寺の集合時刻の五分前に、彼女は「じゃあ、ここで」と言って、俺の班から回り込むように自分の班に戻っていった。どう合流したのかは見なかった。見ない方がいいと直感した。見てしまえば、俺が彼女の行動を計算している側の人間だと、自分に突きつけることになる。
膳の上の小皿に、京都の地名を書いた箸袋が乗っていた。文字が頭に入らない。隣の藤巻が俺の湯呑みに急須を傾けてくれて、俺は「ありがとう」を呑み込み、代わりに会釈した。
夕食後の自由時間は、風呂と土産物コーナーと部屋での会話に分かれる。俺は風呂を抜けて、先に部屋に戻った。八畳の和室、四人部屋に五人目として押し込まれた俺の布団は、床の間の横、襖に一番近い場所。班員たちはまだ風呂にいて、誰もいなかった。
浴衣の紐が、胸の下で少しゆるい。縛り直しても、何度か歩くと同じ緩み方に戻る。
壁の避難経路図を見る。非常階段は廊下の突き当たり、右。自販機のマークが二階の踊り場の横に小さく印刷されていた。
のどが、妙に乾いていた。
廊下の赤い絨毯は、足袋を履かない足裏に、毛の一本一本まで拾わせる。非常階段の扉を押した瞬間、旅館の湿った熱と、外の乾いた夜が、顔の上で一度ぶつかった。
踊り場は金属製で、外に面していて、屋根はあるが壁はない。伏見の街の夜が、三階分の手すりの向こうに広がっていた。遠くで信号の赤と青が交互に灯り、住宅地の路地をヘッドライトがゆっくり曲がっていく。東京の夜より、音が少なかった。少ない音の代わりに、冷たい匂いがした。川の匂いに近い。
自販機の白い光が、踊り場の隅を長方形に切り取っていた。
お茶のボタンを押そうとして、百円玉を入れる前に、背後で扉のドアクローザーが軋んだ。
振り返った先に、白瀬環が立っていた。
旅館の備品の浴衣、紺地に白い桔梗柄。帯は薄い朱色。足袋は履いていた。髪は、昼間の結わえ方から解かれていて、肩より少し下で止まっている。風が、非常階段の隙間から入ってきて、髪の先を一筋だけ揺らした。揺れた髪の先が、自販機の白い光を一瞬だけ拾って、すぐに暗がりに戻った。彼女の顔の輪郭も、光と影の境目で揺れていて、目のあたりだけが、やけにはっきり俺を捉えていた。
「……瀬尾くん」
扉を閉めないまま、彼女は俺の名字を呼んだ。扉の奥、廊下の暖かい空気が、白い湯気みたいに踊り場に漏れ出てくる。その湯気の中に彼女は立っていて、こちらにはまだ一歩も踏み出していない。湯気は彼女の肩のあたりで薄れていき、紺地の浴衣の色を、ほんの一瞬だけ、夜より深く見せた。
「お茶、買うの」
俺は、百円玉を握ったまま、頷いた。掌の中で硬貨が二枚、指の関節にぶつかった。握りすぎて、縁がてのひらの皮膚に食い込んでいるのに、それを緩める手順を、体が思い出せなかった。
白瀬環は扉から手を離した。扉はドアクローザーの油の音を立てて、ゆっくり閉まる。閉まりきった瞬間、踊り場は旅館のざわめきから切り離された。ざわめきの代わりに、自販機のコンプレッサーが、低く一定の音で唸り続けているのが、急に耳に入ってきた。彼女は、自販機の横、俺と一メートルの距離に立った。
俺はお茶のボタンを押した。ペットボトルが落ちる音が、踊り場の鉄板に反響して、想定の倍の大きさで響いた。しゃがんで取り出し口から一本を拾う。拾うあいだ、彼女の足袋の白が、視界の下の方で動かないのを、はっきり見ていた。足袋のこはぜが三つ、きちんと留まっていて、左足のつま先だけが、ほんの数ミリ、内側に向いていた。
「瀬尾くん」
しゃがんだ姿勢のまま、俺は顔を上げた。
彼女は、自分の浴衣の袖の、右の袖口を、左手で握っていた。握っている、というより、掴んで引き下ろしていた。布が皺になるほど、強く。親指の爪が、布の上で白くなっている。
声が、震えていた。
「ずっと、瀬尾くんのこと、見てた」
俺は、立ち上がるのを忘れた。
立ち上がったのは、三秒か四秒あとだった。立ち上がる途中で、ペットボトルの温かさが膝に当たった。指の体温より、一段、温かい。立ち上がりきったとき、膝の裏に、鉄板の冷たさが一瞬だけ貼りついて、すぐに離れた。
「ずっと、見てた」
二度目の「見てた」は、一度目より声が低かった。震えは袖を握る手からはじまって、肩に伝い、顎のあたりで留まっていた。表情まで上がらないように、彼女は下唇の右端を、一度、噛んだ。七ページ目に書いた、笑いを堪えるときの癖の、左手で隠す代わりに、今夜は、噛んだ。噛んだあとの唇が、ほんの少しだけ色を濃くして、自販機の光の下で、赤に近い桃色になった。
「二年のとき、同じクラスになって。瀬尾くん、席替えで一番後ろの窓際だったでしょ。窓の外のグラウンド、ずっと見てた」
彼女は、一度、息を吸った。吸った息が、肩の上下で分かるくらいに、大きかった。
「でも、ほんとは、見てなかったでしょ。窓に映った教室、見てたでしょ」
喉の途中で、息が引っかかった。引っかかった息の向こうで、二年の教室の窓ガラスに映っていた、斜め前の席の、彼女の後頭部の輪郭が、今になって像を結んだ。
「気づいてた」
白瀬環は、袖を握る力をすこしだけ弱めた。
「気づいてるの、たぶん、私だけ」
踊り場の金属の床が、靴下の裏から冷え始めていた。冷たさが膝まで這い上がってくる。体のどこかが、浴衣の帯の内側で汗ばんだ。自販機のファンの排気と、夜の川の匂いが、鼻の中で変な温度を作る。
「清水寺で声かけたの、今日が、初めてじゃ——なくて」
声が、一瞬止まった。
「ずっと、かけたかったんだけど。かけたら、瀬尾くん、見なくなる気がして」
俺は、何かを返さなければいけないと思った。思ったのに、口の中の筋肉がどこにあるのか、一瞬、見失った。彼女の言葉が、俺の観察ノートの、ずっと書いてこなかった余白を、外側から一ページ分めくった感触だった。めくられた先に、俺の書いていない文字が並んでいた。その文字を彼女がずっと書いてきたのだと、ようやく遅れて理解した。二年間、同じ教室の同じ空気を、俺とは逆側から記録していた人間が、いま一メートル先に立っている。その事実の重さが、ペットボトルの重さより、はるかに掌に残った。
見ていたのは、俺だけじゃなかった。見られていたのは、俺の方でもあった。
「……見て、たの」
俺の声は、ペットボトルが落ちた音より、小さかった。
「うん」
白瀬環は、頷いた。頷きの角度が、いつも教室で俺が横目で数えていた角度より、ほんの少しだけ深かった。
「瀬尾くんが、どこにいるか、いつも分かった」
分かっていた、と彼女は言い直さなかった。現在形のままだった。
返事が、出なかった。「俺も見てた」と返すのが正直なのか、「ごめん」が正しいのか、「ありがとう」が礼儀なのか——どれを選んでも、今夜この踊り場に落ちたものに、釣り合わない気がした。俺は、お茶の蓋を、開けも閉めもせずに、掌で握っていた。
風が、鉄の手すりに当たって、低い音で鳴った。
白瀬環は、袖から手を離した。皺が布の上に三本、残った。たぶん明日の朝まで取れない。
「返事、今じゃなくていい」
声の震えを畳み直すみたいに、彼女は息を一度吐いた。吐いた息が、夜の冷えた空気の中で、ほんのわずかに白く見えた。
「でも、言わなきゃって、思って」
扉のドアクローザーに、彼女の掌が当たった。押し開ける途中で一度、俺の方を振り返った。昼間、本堂の裏で先に歩いていた背中と、同じ角度だった。違うのは、今夜は、振り返っていることだ。
「お茶、冷めちゃうね」
扉が開いて、旅館の暖かい空気が、俺の顔にぶつかってきた。朱色の帯が、扉の向こうに吸い込まれていった。
俺は、動けなかった。
掌の中で、ペットボトルの温度が、夜の温度に引き戻されていく。
集合時刻まで、あと十一時間。