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三度目の春、隣の席から

第2話 第2話

第2話

第2話

イヤホンのコードを、左耳から右耳へ、首の後ろに回す。朝のホームルームが始まるまでの五分間を、ノイズキャンセリングに沈めておくのが、三校目で覚えた俺の護身術だった。音楽は流さなくていい。ただ、世界の音量を半分にしておくだけで、視線も、笑い声も、誰かの名前を呼ぶ声も、全部が水槽の向こう側に隔離される。

机の天板に、昨日の蛍光ペンの点が一滴、黄緑色のまま残っていた。三嶋紗季がノートを返しに来たときに、はずみで落としたやつだ。消しゴムで擦っても、落ちそうで落ちない。指の腹でなぞると、乾いた粒が微かにひっかかる。彼女は「ごめん」とひとこと言って、それから「ありがとう」と、また別のひとことを置いていった。二つの言葉のあいだに、半秒の沈黙があった。その半秒を、俺は今も、耳の奥で再生できてしまう。

観察していれば傷つかない――その呪文を、今朝も舌の上で転がしてみる。けれど昨日よりも、少しだけ味が薄かった。砂糖が雨に濡れたみたいな、頼りない甘さだった。

「おはよ。結城くん」

左隣で、文庫本のページがめくれる音と一緒に、短い挨拶が置かれた。三嶋は顔を上げない。俺も、目を合わせなかった。ただ、「うん」と喉の奥で短く返す。それだけの応答が、昨日までの俺の机には、なかったものだった。

昼休み、俺はイヤホンを外さずに弁当を食べる。風呂敷の藍色を解くと、今日は卵焼きの縁が、少しだけ焦げていた。母が夕べ、新しいガスコンロの火加減を気にしていたのを思い出す。越してきたばかりの台所は、火が強い、と母は小さくこぼしていた。火加減が変われば、味も変わる。そのくらいの差で、日々は組み替えられていく。

教室の真ん中で、山田が誰かの背中を叩いて笑っている。笑い声は、イヤホン越しに、ぼんやりと低く届く。音量を半分にしただけで、笑いは他人のものになる。他人のものなら、仲間はずれという言葉も生まれない。俺はもう、四時間目の英語で三嶋が書きそこねた単語を、頭の端で反芻していた。三人称単数現在のsを、彼女は二度、落としていた。別に、教えるつもりはない。ただ、覚えてしまっただけだ。

(覚えてしまう、ということを、俺は少しずつ許し始めている)

放課後の帰り道、俺はバス停を二つ分、歩いて通り過ぎる。まだこの街の地理を、足の裏で覚えきれていない。商店街のシャッターに書かれた落書きの位置、交差点の信号の変わる周期、角の古本屋の店先に出ている均一棚の値札――そういう細部を、網膜に一枚ずつ貼っていく。貼っていけば、いつかこの街も、俺の知っている景色になる。知っている景色になっても、半年後にはまた剥がされるかもしれない、と思いながら。

土曜日、俺は制服を脱いで、街を歩いた。行き先は決めていなかった。駅の東口の商店街を南に下って、川沿いの遊歩道に出る。土手の草はもう青く、風が水の匂いを運んでくる。ベンチに腰を下ろすと、木のささくれがジーンズ越しに太ももを押した。鯉が一匹、ゆっくりと浮いて、また沈む。その三十分のあいだ、誰も俺に声をかけなかった。誰にも見られていない時間の居心地の良さを、俺は三校目で完成させたつもりでいた。なのに、ふと、三嶋紗季が金曜日に閉じた文庫本の表紙を、思い出した。図書館のラベルの番号まで、覚えていた。自分の記憶の執着に、俺は小さく舌打ちする。

日曜の夜、父が帰ってきた。正確には、単身赴任先から、月に一度の顔を出しに来ただけだ。リビングのテーブルに、父が買ってきた焼売の箱が置かれていて、湯気のにおいが部屋中を低く満たしていた。

「蒼真、学校はどうだ」

「普通」

「友達はできたか」

「ぼちぼち」

父の質問は、毎回、ほとんど同じだった。俺の返事も、ほとんど同じだった。父は「そうか」と頷いて、缶ビールのプルタブを開ける。乾いた音が、台所の換気扇の音と重なった。母は焼売を皿に移しながら、父の方を見ずに、皿に落とすように言った。

「今度は、長く住めるといいね」

その一文は、誰にも向けられていなかった。父でもなく、俺でもなく、皿の上で湯気を立てる焼売に、呟かれた言葉だった。父は返事をしなかった。箸の先で、焼売のひだを軽くつつく。俺も、返事をしなかった。風呂敷の染みと同じだ、と俺は思った。何度繰り返されても、同じ位置に、同じ形で置かれる言葉。「長く住めるといい」という祈りの重さが、逆に、俺たちがこれまで長く住めなかった年月の輪郭を、白く縁取る。

窓の外で、風が一度、鳴った。母の声は、それきり、食卓に溶けた。

翌週の月曜、四月は終わりに近づいていた。教室の窓はもう半分開け放たれていて、遠くでブラスバンドの音合わせが、不揃いに上がってくる。五時間目の数学、黒板には二次関数のグラフが四つ並んでいた。俺はシャープペンの芯を、三度折った。折るたびに、左隣の机の天板が、ほんの少しだけ揺れる。

消しゴムが、机の端から落ちた。

小さな白いかたまりが、弧を描いて、三嶋紗季の席の足元へと転がっていく。体育館で拾った小石みたいに、軽い音が床に着いた。俺は身を屈めようとして――屈めきれなかった。彼女の制服の裾が、先に動いたからだ。白い指が、消しゴムを迷わずに摘み上げる。指は、金曜日にノートを返したときよりも、はっきりと細く、関節の骨が小さく浮いていた。

三嶋は、何も言わなかった。

消しゴムを、俺の机の上に、かつん、と置いた。音は、短かった。置かれた消しゴムの角が、ひとつだけ新しくへこんでいた。落ちたときのものか、彼女の指が押した跡なのか、わからない。俺はそのへこみを、二秒ほど見つめた。見つめてから、ようやく顔を上げた。

彼女は、文庫本に戻っていた――のではなかった。こちらを、見ていた。

黒い瞳の焦点が、俺の目の奥で、短く結ばれる。金曜日の、ノートを渡したときの視線とは違った。あのときは、頼み事をする者の視線だった。今は、違う。値踏みでも、詮索でもない。ただ、俺という人間がそこに確かに存在していることを、静かに確認するような目だった。唇は動かない。眉も動かない。けれど、瞳の芯だけが、一瞬、ふっとやわらかく撓んだ。笑うのとは違う。頷くのとも違う。あえて言葉にすれば、「見ているよ」と言われたのだと思う。

観察していれば傷つかない。

その呪文を、俺はもう、舌の上で転がせなかった。見ているのは俺のはずだった。教室の端から、誰にも干渉されない角度で、値踏みされて流される自分を、流されるままに眺めているのが、俺の役割だったはずだ。なのに今、俺は、見られている。左隣の、半径四十センチの距離から、まっすぐに。

目を逸らしたのは、俺の方が先だった。視線を黒板のグラフへ戻すのに、たぶん0.5秒くらいかかった。その0.5秒のあいだに、頬の内側の温度が、半度ぶん上がったのを感じた。観察者の壁に、ひびが入る音を聞いた気がした。音は、鳴らなかった。鳴らなかったからこそ、くっきりと残った。

消しゴムを、指で摘んで、筆箱の中へ戻す。角の新しいへこみを、親指の腹で、そっと確かめた。

チャイムが鳴った。

放課後のざわめきが、一斉に教室へ流れ込む。担任が教卓に戻ってきて、出席簿の端で、机を二度叩いた。「連休明け、席替えな。あと八日」と笑って指を立てる。教室のあちこちで、小さな歓声と、冷やかしの口笛が起きた。誰かの隣になるかならないかで、一か月の勢力図が書き換わる。俺は、机の端に視線を落としたまま、小さく息を吸った。

吸って、止めた。

隣の席を、見なかった。見られなかった、と言った方が、正確かもしれない。

帰り道、俺はイヤホンを、今日はつけなかった。耳の外で、信号の音が、やけにはっきりと鳴っている。ポケットの中で、消しゴムの角のへこみを、指先で何度も確かめた。へこみは、あと八日で俺の手から離れていくかもしれない席の、最後の形だった。

「長く住めるといいね」

母の声が、信号の向こうで、一度だけ耳の奥で鳴って、消えた。

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