第1話
第1話
制服の左肩に、桜の花弁が一枚、濡れて貼りついていた。指で払うと、弁の縁が爪の腹に潰れて、青くさい匂いが立ち上る。三度目だ、と思う。三度目の転校、三度目の四月、三度目の知らない校門。
校舎の二階、一年三組。引き戸を押し開けた瞬間、チョークの粉の匂いと、微かに漂う給食棟からの味噌汁のにおいが、鼻の奥で混ざった。どこの学校でも、始業前の教室はこのにおいだった。
「結城蒼真くん、前で自己紹介お願い」
担任の声に合わせて、三十人分の視線がこちらへ振られる。振られて、そして――ほぐれる。俺という人間の輪郭を、誰も必死に捉えようとはしない。前の学校でも、その前の学校でもそうだった。視線は掴もうとしない。ただ、値踏みして、流れていく。
「結城蒼真です。父の転勤で、先週こっちに越してきました。前は……まあ、いろいろです。よろしくお願いします」
声が、思ったより平坦に出る。拍手がまばらに起こって、すぐに止む。窓際の一番後ろ、と指されて、俺は教室の端まで歩いた。廊下側の男子が二人、何事かを囁いて笑う。こちらを見てはいない。俺を肴に笑っているのかも、判然としない。それでいい。
観察していれば傷つかない。
椅子を引く。軋みが短く響く。左隣の女子は、机の上に広げた文庫本から顔も上げない。斜め後ろの男子は、気だるげにスマホをいじっている。机の木目は前の学校より新しくて、まだ誰のカッターの傷もついていない、平らな天板だった。
(ちょうどいい、と思う。傷のない机は、俺に似合う)
四時間目のあいだ、俺は黒板を半分だけ眺めていた。もう半分は、窓の外だ。グラウンドの隅で、体操服の集団が走っている。誰かが何かを言って、列の後ろが笑う。その笑い声は、二階の窓ガラスに届くまでに、半分くらい空気に溶けて消える。
そのくらいが、ちょうどいい。
昼休み、俺は弁当の包みを机の上に置いた。母が今朝、越してきたばかりの慣れない台所で握ったおにぎりだ。海苔がまだ湿気を吸いきっていなくて、指先で持ち上げると、かすかに乾いた音がした。包みの藍色の風呂敷は、前の家でも、そのまた前の家でも、同じ布だった。結び目のちょうど真ん中に、うっすらと醤油の染みが残っている。何度洗っても落ちない染みを、俺は指の腹でそっと撫でた。転校のたびに、景色も、同級生も、教室の匂いも、全部がリセットされる。けれど、この風呂敷の染みだけは、ずっと同じ位置で、ずっと同じ形をしていた。これだけが、俺の三度の春を通して、変わらないでいるものだった。まわりで、椅子が寄せ合わされ、机がくっつけられ、小さな島がいくつも生まれていく。うるさいくらいの笑い声が、教室の真ん中で渦を巻き始める。窓際には運動部らしき男子の島、廊下側にはおとなしい女子の島、後ろの方にはすでに髪を明るくした派手なグループの島。たった三日で、見えない国境線はもう引き終わっている。新入りの俺が通れる道は、どの島のあいだにも用意されていない。
俺の机には、誰も寄ってこない。
それも、予想通りだった。
左隣の女子が、ふと顔を上げた。黒い髪が肩で揺れる。何か言われるのかと反射的に身構えたけれど、彼女はただ机の下から別の文庫本を取り出して、ページを開き、俺のことなど視界にも入れず、また沈み込んでいった。俺は小さく息を吐いた。ほんとうに、誰の視界にも入っていない。
「結城ー、弁当食う相手いないなら、こっち来れば?」
斜め前の、明るい声が降ってきた。短髪の男子が、こちらを振り返って、口の端で笑っている。クラス全体を把握している人間の、軽い気遣いだった。山田、と黒板の日直欄に書いてあった名前を、思い出す。悪気はひとつもない。むしろ、気遣いが行き届きすぎて、俺の居場所をつくってやろうという善意が、まっすぐに透けている。だからこそ、ここで頷いてしまえば、明日からの俺は「山田に拾われた転校生」というラベルで、この教室に登録される。そうなってしまえば、もう観察の側には戻れない。
「ああ、ありがとう。でも、いい。悪いから」
「そ? じゃあまた今度な」
それで、終わりだった。彼はあっさり俺の背中から興味をほどいた。俺もまた、彼の善意に深入りしない術を身につけている。三校目になれば、誰でもこれくらいはできるようになる。
おにぎりを齧る。米が、前の学校で食べていたのとは違う銘柄の味がした。塩の効きがわずかに強い。左手の甲に、小さな米粒がひとつ貼りつく。
(……まあ、こんなもんか)
孤独という言葉は、もう俺のなかで過剰な熱を失っていた。それはただの、室温のようなものだ。二十三度くらいの、誰にも気づかれないぬるさ。観察していれば、そこに傷は生まれない。
五時間目の終わり、チャイムが鳴る直前に、担任が教卓を指で二度叩いた。
「あ、言い忘れてた。来月――ゴールデンウィーク明け、席替えします」
一拍遅れて、教室がざわめいた。「マジ?」「また?」「誰の隣になるかなあ」。後ろの方で、誰かが「俺あいつの隣だけはやだわ」と低く笑った。別のだれかが机を指で弾いて、「くじ? それとも先生指定?」と訊く。担任は笑って答えをはぐらかした。この教室にとって、席替えは大きな事件だった。誰が誰の隣に来るかで、連休明けのひと月の勢力図が書き換わる。左隣の女子が、文庫本のページの端を、指で小さく折り込むのが見えた。無表情のまま、それでも、指だけが返事をしていた。
俺は、動かなかった。
席替え。そう呟いて、音を口の中で転がしてみる。あたらしい隣の席。あたらしい誰か。べつに、どうでもいい話だった。どうでもいい話の、はずだった。
なのに、なぜだろう。胸のどこかが、ひそかに躓いた。
(せっかく、この席に慣れてきたのに)
自分の内側から湧いてきたその一行に、俺は自分で驚いていた。慣れてきた? 慣れる、なんて。まだ三日だ。まだ、誰とも目を合わせないこの席の温度を、たった三日で覚えてしまったとでも言うのか。たった三日で覚えたものを手放すことが、どうしてこんなに小さく痛むのか。痛み、と呼んでいいのかさえ、俺にはもうわからない。
俺は窓の外に視線を逃がした。窓枠の金属が、午後の光を受けてぬるく温まっている。そこに手を置くと、生きて息をしているような鈍い温度が、手のひらに伝わってきた。この教室の温度を、俺は、いつのまにか体で覚え始めている。気づかないふりで、覚え始めている。グラウンドの向こうで、桜の木がほとんど葉桜になりかけていた。花弁は、もうほとんど散ってしまって、ときどき思い出したように、風に乗って、一枚、二枚と、あさっての方角へ流れていく。
「結城くん、ノート見せてくれない?」
唐突に、左隣から声がかかった。視線を戻すと、彼女が文庫本を閉じて、こちらをまっすぐ見ていた。文庫本のカバーに、図書館の分類ラベルが貼られているのが見えた。読み古されて、表紙の角が柔らかく丸まっている。黒い瞳の、奥までちゃんと焦点が合っている。俺のことを、初めて、目で捉えようとしていた。
「五時間目、途中から板書追いつかなくてさ。わたし、三嶋。三嶋紗季」
三嶋、と口の中で復唱する。三嶋紗季。名前という輪郭が、生まれて初めて、俺の隣の席に結像した。
俺は黙って、ノートを彼女の机に滑らせた。指先が、わずかに触れた。触れてから、彼女がはっと手を引いたのか、それとも俺が引いたのか、どちらが先だったかは、自分でもわからなかった。触れた箇所だけ、皮膚の温度が一段、遅れて感じられた。他人の熱に驚くような反応を、俺の身体がまだ残していたことに、俺はこっそり動揺する。観察者でいるつもりだった。値踏みされて、流されるだけで済むはずだった。なのに、指の先の、ほんの一点のふれあいが、俺の三日分の距離を、音もなく縮めていた。
「ありがと。すぐ返すから」
「……ゆっくりで、いい」
声が、思ったよりやわらかく出てしまった。自分のくせに、自分の声に、俺は少しだけたじろいだ。
放課後の昇降口で、風に煽られた桜の花弁が、一枚、俺の靴の甲に落ちた。朝に肩で払ったのとは、別の一枚だ。
観察していれば、傷つかない。
俺は心のなかで、もう一度その呪文を唱えてみる。唱えてみて、わずかに、舌先で何かが溶けるような違和感があった。まるで砂糖のように。まるで、そこにあってはいけない、甘さのように。
来月、席替え。
あの三嶋紗季という女子の隣ではなくなるのか、それともなるのか、それすらも、今はわからない。わからないということが、どうしてか、少しだけ、苦い。
俺は花弁を払わずに、そのまま校門をくぐった。