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灰色の春、四枚の桜

第2話 第2話

第2話

第2話

朝、アパートの台所のシンクに、昨日の定食屋の釣り銭が置きっぱなしになっていた。十円玉が二枚、五十円玉が一枚、百円玉が三枚。水滴が一粒、百円玉の縁で震えていた。俺はそれを拭かずに、鞄を肩にかけた。

玄関のローテーブルの上に、涼の母の名前が入った封筒が、開けられないままあった。昨日、階段を上がりきって、靴を脱ぐより先にそこへ置いたきり、一度も触っていない。封筒の上には、途中で紛れ込んだらしい桜の花びらが一枚、まだ乗ったままだった。薄い唇の色をしたそれが、黒いボールペンの字の真上で、呼吸するように僅かに揺れていた。

部屋に入る前から、そこに何かがあるのを、俺はずっと視界の端で知っていた。

靴を履くあいだ、俺は封筒のほうを見ないようにした。見たら、開ける。開けたら、今日はたぶん、会社に行けない。そんな気がした。

「いってきます」

誰もいない玄関に、小さく言った。十五年、独り暮らしをしていて、初めてそんな挨拶が喉から出たことに、自分で驚いた。壁の向こうでエアコンの室外機が鳴いていた。

鞄のストラップが肩に食い込んだ。薬の袋が鞄の底で、紙のこすれる音を立てた。ドアを閉めたとき、内側から封筒の気配だけが、くっきりと残っていた。

会社に着くまで、俺は普段どおりだった、はずだった。

電車の吊り革に指をかけた感触、改札でのカードの残高、社屋の自動ドアが開くタイミング、エレベーターの六階ボタンの擦り減り方。全部、昨日までと同じだった。何も変わっていないことが、かえってどこかおかしかった。十五年ぶりに通学路を歩いているみたいに、地面の反発が僅かに遅れて伝わってくる感覚が、踵の辺りにずっと残っていた。

校正課の島に着くと、机には昨日の続きの校正刷りが積まれていた。

「おはようございます」

隣の席の後藤さんが、ラテの紙カップを片手に振り向いた。俺より五つ下で、結婚式のパンフレットをよく一緒に組んでいる。

「おはよう」

「顔、白いですよ。ちゃんと寝てます?」

「寝てる」

「嘘くさいなあ」

後藤さんは笑って、モニターに向き直った。俺は赤ペンを取り、校正刷りの一枚目を手元に寄せた。結婚式のプロフィールブックだった。

新郎、三十六歳、地方銀行勤務。新婦、三十二歳、小児科看護師。なれそめ、大学時代のサークル、プロポーズの場所、両親への感謝の言葉。俺は一行ずつ、誤字を探した。「親愛なる」のあとに句読点がない、写真のキャプションで新婦のフルネームが一文字違う、年号が一年ずれている。ペン先で、小さな丸を打っていく。

指が勝手に動いていた。十三年、同じ作業をしている。一ページ見るのに何秒かかるか、どこに誤字が潜みやすいか、身体が勝手に知っている。誰かの人生のいちばん華やかな一日分の印刷物を、他人の俺が最後に確認している。そういう仕事だと、俺はもう何年も意識せずにいた。

二人に子どもが生まれたとき、この本を見返すのだろう。十年後、二十年後、喧嘩した夜、あるいは、どちらかが先に死んだあとに。そのとき、俺の打った小さな赤い丸のことは、誰も知らない。

それでいいと思った。それで、いいはずだった。

昼、社食でカレーを食べた。辛さも、甘さも、分からなかった。スプーンを咥えながら、俺は窓の外の桜を見ていた。散りはじめていた。風が吹くたびに、ガラスの向こうで、薄桃色の粉が宙を泳いだ。

後藤さんが向かいの席に座って、「花見、土曜どうするんですか」と言った。課で毎年やっている花見のことを、俺はすっかり忘れていた。

「出る」

「了解です。出欠とっときますね」

来週の土曜の自分を、俺はうまく思い浮かべられなかった。カレンダーの升目は白いままで、その白が、ひどく眩しかった。

午後、部長に呼ばれて、秋の大口案件の担当を打診された。入社以来、いちばん大きな仕事になる、と部長は言った。俺は、ありがとうございますと頭を下げた。下げた瞬間、鼻の奥で、昨日の薄い鉄の味がした。

アパートに帰ると、ローテーブルの封筒が、朝と同じ角度で置かれていた。桜の花びらは、ドアを閉める風圧で落ちたのだろう、床の隅に一枚、乾いたまま沈んでいた。

鞄を下ろしたとき、スマートフォンが鳴った。

画面に「母」と表示されていた。

俺は、画面を見ていた。一度目のコールが鳴り終わり、二度目が鳴り、三度目が途中で切れて、留守電のマークが下の帯に小さく点った。

すぐに、また鳴った。今度は「父」だった。

父は、俺がいまの会社に入ってから、一度しか電話をかけてこなかったことがある。二十五のとき、祖母が死んだ日だった。今日は何の日でもないはずだった。ただ、たぶん、昨日、涼の母から、実家へも何か連絡があったのだ。封筒の差出人のことを、両親は俺より先に知っていたのかもしれない。

俺は、鳴り続ける画面を、畳の上に裏返した。

画面の光が畳に吸われ、着信音だけが、天井に貼りついた蛍光灯の輪の下で、小さく、続いた。留守電のマークが二つ並んだのを確認してから、俺は流し台のほうへ背中を向けた。

親の声を、今日は、聞けない。聞いてしまったら、喉の奥の鉄の味が、言葉になる。

冷蔵庫を開けた。昨日買ったはずの卵と、賞味期限の過ぎかけた豆腐と、封を切っただけで飲んでいない牛乳があった。俺は何も取り出さずにドアを閉めた。

かわりに、鞄から薬の袋を取り出した。

薬の説明書は、折り畳まれた状態で、A4の四分の一くらいの大きさだった。

ダイニングテーブルの上で広げると、ちょうど一人分のランチョンマットくらいになった。俺は椅子に腰を下ろし、両手で皺を伸ばしながら、最初の行から読んでいった。

「この薬は、膵臓のがん細胞の増殖を抑える働きがあります」

端的な一行だった。昨日、診察室で医師の口から流れていったはずの言葉のいくつかが、印刷された活字として、改めてそこに並んでいた。

服用方法。食後三十分以内。飲み忘れた場合は次の服用時間まで四時間以上あるなら服用、そうでなければスキップ。副作用。吐き気、下痢、倦怠感、手足のしびれ、口内炎、味覚異常。

味覚異常。

そこで、俺は指を止めた。

昨日、生姜焼きの味がしなかったのは、薬の副作用ではなかった。昨日はまだ、薬を一錠も飲んでいなかった。診断を受けただけで、舌は、先に応えていた。体が、薬より早く、何かを察していた。

もう一度、頭から読み返した。同じ行で止まった。また頭から読み返した。三度、四度。活字のフォントの癖、「膵」の字の跳ね、句読点の位置、副作用の列挙の順序。ほとんど暗唱できるところまで読んで、それでも、何も頭に入ってこなかった。

気がつけば、窓の外が暗くなっていた。

電気もつけずに、俺はずっと座っていたらしい。紙の白さだけが、まだ机の上で薄く光っていた。

立ち上がったのは、トイレに行こうとしたからだった。

廊下の途中で、洗面所の電気をつけた。鏡に、俺が映った。

一瞬、誰かと思った。

頬がこけて見えたわけではない。目の下に隈があったわけでもない。昨日の朝とほとんど同じ顔が、そこにあった。ただ、その顔が、俺のものだと、なかなか結びつかなかった。

笑ってみよう、と思った。

理由は、分からなかった。たぶん、笑っている顔なら、自分だと認められる気がしたのだろう。

口角に、指先を添えた。ひとさし指と、中指。

持ち上げようとした。

持ち上がらなかった。

皮膚は、動いた。唇の端が、たしかに数ミリ、斜めに引き上げられた。けれど、それは笑顔ではなかった。笑顔の形に、皮膚を折っただけだった。頬の奥の筋肉が、指の力を真似することを、拒んだ。

——ああ。

声には、しなかった。

俺はもう、笑い方を、どこかに置いてきたらしい。

いつからだろう、と考えて、すぐにやめた。たぶん、昨日でも、今日でもない。もっとずっと前から、少しずつ、忘れてきたのだ。

洗面所を出た。

畳に伏せたスマートフォンを、俺は拾い上げた。留守電は二件、入ったままだった。再生はしなかった。代わりに、連絡先の画面を開いた。指が勝手に、「り」の段まで滑った。

涼。

リストの、どこにもその名前はなかった。十五年前、電話が来なかったあとすぐに、俺は自分でその名前を消した。消したはずだった。なのに、画面を見下ろしている俺の目には、流れていく名前の群れのちょうど中ほどに、その二文字が、一瞬、たしかに、浮かび上がって見えた。

幻視、というほど大袈裟なものではない。ただ、見えた、と言うしかなかった。次の瞬間には、画面には「鈴木」と「関口」と「千葉」しかなかった。

俺は画面を伏せた。

ダイニングテーブルの上で、薬の説明書が、まだ広がっていた。

その向こうの玄関のローテーブルに、開けられないままの封筒が置かれていた。朝、俺が出るときと、一ミリも角度が変わっていない気がした。

電気を消さずに、俺は封筒のほうへ、一歩、歩み寄った。床板が、少しだけ鳴った。踵の裏で、昨日から貼りついていたあの遅れた反発が、ようやく追いついた音だった。

手を伸ばす。

指先が、紙の縁に、触れる寸前で、止まった。

まだだ、と体のどこかが言った。

だが、止めたままの指の腹に、封筒の冷たさだけが、すでに、伝わってきていた。

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