第1話
第1話
通勤電車の窓に映った自分の顔が、灰色だった。
蛍光灯のせいではない、と思う。隣に座る女子高生の頬は、血の通ったピンクに見える。向かいの老人の額も、健康な皮脂でてかっている。俺の顔だけが、写真の色調補正を間違えたみたいに、くすんでいた。
右の脇腹に、鈍い圧迫感がある。半年前からずっとそこにいる。最初は飲みすぎだと思った。次に疲れだと思った。それから、考えるのをやめた。考えるのをやめる癖は、高校を出たあたりから身についたもので、気がついたら三十八になっていた。
「次は、四ツ谷——」
アナウンスの声が、水の中で聞いているみたいに遠い。俺は降りそびれて、一つ先の駅まで運ばれた。
改札を抜けると、構内のポスターが春の桜を貼りつけていた。四月。毎年見ているはずなのに、桜がこんなに白に近いピンクだったと、なぜか初めて気づいた。
三十八歳、独身、都内の印刷会社勤務。独身生活は十五年目、会社に入ってからは十三年目。染料の匂いとインクのにおいに慣れすぎて、自分の体のにおいを久しく嗅いでいない。
紹介状を抱えて病院に行ったのは、上司に半休を頼み込んだその日の午後だった。待合室で、俺は三時間待った。
呼ばれて入った診察室は、妙に片付いていた。机の上のペンが、等間隔に並びすぎていた。医師は五十がらみの男で、一度だけ俺の目を見て、そのあと俺の目を見るのをやめた。
「膵臓に、腫瘍があります」
ボールペンのノックが、カチッと鳴った。
「ステージⅣ。余命は——一年、見ていただきたい」
ああ、と俺は言った。いや、言ったつもりだった。実際に声が出たかは、分からない。喉の奥で、薄い鉄の味がしていた。
医師は俺の反応を待たなかった。治療方針、紹介先、家族への連絡、保険の手続き。他人の話を読み上げるような声で、淀みなく続きが並べられていった。俺は聞いていた。聞いていたのに、一つも頭に残らなかった。
ただ、机の上のペンが、ずっと等間隔に並んでいた。
それからのことは、あまり覚えていない。
覚えているのは、受付で会計を待つ間、前の老婦人が三千四百円の支払いを小銭で出そうとして、百円玉が一枚、床に落ちたことだ。俺はそれを拾って、老婦人の皺だらけの手のひらに置いた。その手のひらが、俺の指先よりずっと温かかったことを、妙にはっきり覚えている。
病院を出ると、外は午後の陽射しだった。
ポケットに突っ込んだ会計の領収書が、歩くたびに音を立てる。信号を一つ渡って、二つ渡って、気がつけば駅前のいつもの定食屋の暖簾をくぐっていた。仕事終わりに週二回は通う店だ。カウンターの端、左から三番目の席に、いつものように座った。
「あら、今日は早いのね」
おかみさんがおしぼりを渡してくる。この人の名前を、俺は知らない。十年以上通っているのに、ずっと「おかみさん」と呼んできた。次はない日が、どこかにある。そう思ったら、おしぼりの冷たさが、不自然なほど手のひらに残った。布の繊維の一本一本が、まるで自分の指紋を読み取ろうとしてくるみたいに、やけに鋭く触れた。
「生姜焼き定食、ご飯大盛りで」
「はいよ」
油の跳ねる音。換気扇の唸り。タイマーの電子音。カウンターの向こうで皿の重なる音、常連の咳払い、壁掛けのテレビが遠くで夕方の天気予報を流している。十年以上通い続けた、耳の奥に住みついた音の群れだった。厨房から流れてくる生姜とにんにくの匂いが、いつもなら俺の胃の底を鳴らす。今日は、鳴らなかった。
出てきた定食を、俺はしばらく、ただ見つめた。
脂の照り、キャベツの断面、味噌汁の表面に浮かぶ油の輪。全部、いつもと同じはずだった。箸を割る。肉を一切れ、口に運ぶ。
噛む。
味が、しない。
箸を置きかけて、もう一度持ち直した。舌の付け根が、何かを思い出そうとしているみたいに、小さく痙攣していた。舌が壊れたのかと思った。もう一切れ。生姜の繊維が奥歯に挟まる感触はある。肉の筋が頬の内側に触れる。ご飯粒の熱さも、分かる。ただ、味だけが、どこかで迷子になっていた。
ご飯もそうだった。味噌汁もそうだった。しじみの身を吸い出す感触だけが舌に残って、出汁の味が追いつかない。俺は定食一人前を、黙って食べきった。茶碗の底に、米粒を一つも残さずに。食べきったことで、何かが取り返せるような気がしたからかもしれない。
「毎度あり」
おかみさんが千円札を受け取って、釣りの小銭を俺の手のひらに乗せる。硬貨の冷たさだけが、妙にはっきりと伝わってきた。十円玉が二枚、五十円玉が一枚、百円玉が三枚。重さも、温度も、手のひらに落とされた順番まで、指先が勝手に読み取っていた。
「また来てね」
「——はい」
暖簾をくぐって振り返ると、藍色が揺れて、俺と店を切り離した。
店を出ると、信号の向こうに、ぼやけた桜が立っていた。
歩道橋の下、電柱の脇、ビルの隙間。あちこちに桜が咲いていた。気がついていなかっただけで、この街はずっと、桜でいっぱいだったのだ。
花びらが一枚、肩に落ちた。
俺は立ち止まって、その一枚を指先でつまんだ。爪の白い部分よりも薄い、ほとんど透明に近いピンク。縁が少しだけ茶色く、指紋のひだに引っかかって、すぐに風で持っていかれた。
何度、この季節を「当たり前」として通り過ぎてきたのだろう。
高校を出た春。就職した春。はじめて昇進した春。独身の春、ずっと独身のままの春。桜は毎年咲いて、毎年散った。俺はそれを、写真の背景みたいに扱ってきた。誰かの結婚式で背景になる桜。テレビの天気予報で映る桜。会社のエントランスの鉢植えの桜。
一度も、花びらを指でつまんだことはなかったと思う。
咲いた、散った、また来年。そう呟くだけで、毎年の春を帳簿の一行みたいに処理してきた。肩に落ちた一枚の重さを、自分が今日まで一度も量ってこなかったという事実だけが、やけに重たく首筋に残った。
通勤バッグの中で、処方された薬の袋が、紙のこすれる音を立てた。医師の声を思い出す。「一年、見ていただきたい」——その言い回しが、いまになって耳に戻ってきた。「見る」。「生きる」ではなく、「見る」。医師は俺に、残り一年を何を「見る」かと問うていたのかもしれない。そう考えてはじめて、その問いが、とても重たい形をしていることに気がついた。
スマートフォンを取り出した。
着信履歴の下のほう、もう十五年以上前の日付で止まっている名前がある。涼。あの日、俺が出なかった最後の電話。俺は画面をスクロールして、その名前まで落として、またスクロールして上に戻して、もう一度下へ落とす。指が震えて、止まらなくなった。
俺は、涼の桜を、一度でも、指でつまんだことがあっただろうか。
結婚式の背景にしたのでもなく、天気予報にしたのでもなく、ただ、涼という一枚を、ちゃんと、指の腹で、触ったことがあっただろうか。
桜の幹に、手を突いた。
樹皮のざらつきが、手のひらに食い込んだ。深く刻まれた皺の奥に、昨日の雨の跡なのか、湿った土のにおいがかすかに残っていた。痛くはなかった。ただ、生きている木の、硬い、血の通わない、しかし確かな感触があった。
花びらは、俺の肩と足元に、まだ降り続けていた。
アパートに帰り着いたのは、陽が落ちてからだった。
集合ポストの前で鍵を回す。中には、電気料金の請求書、スーパーの広告、それから一通、見覚えのない古封筒が差し込まれていた。
差出人の欄を読んで、俺は階段の手すりを掴んだ。
涼の、母の名前だった。
十五年、一度も連絡を取らなかった人の名前が、黒いボールペンで、こちらを向いている。旧い字体で書かれた一文字一文字が、俺の名前の真上で静かに滲んでいた。十五年分の沈黙が、一通の紙の重さに圧縮されて、指先から肘へ、肘から胸へと、ゆっくり這い上がってくる。封筒の紙が、指の熱でわずかに湿るのが分かった。桜の花びらが一枚、どこから入り込んだのか、封筒の上に乗っていた。
俺は、それを払い落とさないまま、階段を一段、上った。
踏板が、妙に遠かった。