第2話
第2話
朝のホームルーム前、教室の一番後ろ、窓際から二番目の俺の席。机に伏せた左手の人差し指に、昨日の絆創膏がまだ巻かれていた。爪のすぐ下、肉に食い込んだ皮膚の縁が、シャーペンを握り直すたびにちりりと痛む。
通学路のコンビニで買ったホットコーヒーは、もう冷めていた。プラ蓋を開けると、苦い湯気が鼻先で短く立ち消える。教室の蛍光灯が眩しすぎて、目の奥に薄い膜が張ったみたいに感じる。寝つけなかったせいだ。三年ぶりに押し入れから引きずり出した黒いハードケース。その留め金を二度開け閉めしただけで、結局明け方までベッドの上で天井の木目を数えていた。木目の節が、いくつか人の顔に見えた。そのうちのひとつは、たしかに三宅の顔をしていた。
クラスメイトの女子が三人、教卓の前で何かを囁き合っている。視界の端で、そのうちの一人が、ちらりとこちらを見たような気がした。気のせいだろう。気のせい、と思い込むのが俺の三年間の生活技術だった。教室の隅で空気みたいに薄くなる訓練を、俺は中二の冬から欠かさず続けてきた。
廊下の足音が、いつもと違う角度で近づいてくる。
——え。
ドアを大きく開けて、桐谷灯が入ってきた。彼女の席は窓際の前から二番目。俺の席までは、教室の対角線を引いて十二歩。彼女はその十二歩を、よそ見もせず迷いもせず、まっすぐに歩いてきた。スカートの裾が、歩くたびに、半拍遅れて揺れる。床のリノリウムが、彼女のローファーの音を、こつ、こつ、と低く返した。
教室の囁きが、潮が引くように消えた。
「湊くん、おはよ」
「……おはよ」
声が裏返らなかったのが奇跡だった。灯は俺の机の横に立って、片手で自分のスカートの裾を整える。その仕草ひとつで、俺の机の周りだけ空気の濃度が変わったような錯覚があった。微かなシャンプーの甘い匂いが、教室の埃と混じる。彼女のシャツの襟元が、開いた窓からの風に小さく持ち上がって、細い鎖骨の影をひとすじだけ作った。
「昨日のこと、覚えてる?」
「……覚えてる、けど」
「ここで言わないで、って顔してる」
「……してる」
灯はくすりと笑って、肩から鞄を下ろし、俺の机の横の椅子をくるりと回した。後ろの方で、誰かが「えっ」と小さく声を漏らしたのが聞こえた。椅子の脚がリノリウムを擦る音が、やけに大きく耳に残った。
「……桐谷さん」
「灯」
「桐谷、さん」
「灯」
低い声で念を押されるたび、逃げ道が一本ずつ塞がれていく感覚がした。俺はうつむいて、絆創膏の端を爪で引っかいた。剥がれかけた繊維が、ささくれの皮膚にひっかかって、また鈍く痛む。
「あのさ。昨日の話、本気だから」
「……本気って」
「軽音部に来てほしい、って話」
教卓の前の女子三人組が、はっきりとこちらを向いた。視線の重さが、こめかみのあたりに寄ってくる。教室の四十一人のうち、何人がこの会話を聞いているか、俺は数えるのをやめた。冷めたコーヒーの表面に、蛍光灯の白い円が、輪郭の崩れた満月のように浮かんでいた。
「他のギター、当たってみたんだ。一年は誰もエレキ弾けないし、二年もみんな別バンド組んでて、外からは引っ張れない。文化祭の出演エントリー、来週の月曜が締切なの」
「……月曜」
「あと六日」
数字で詰められると、頭の中で勝手にスケジュールが組み上がろうとする。それを慌てて崩した。俺はもう、誰かのスケジュール表に名前を書かれる側の人間じゃない。崩しても崩しても、六日、という数字だけが、机の木目の上に転がって消えなかった。
「ブランクが、三年ある」
「うん。聞いた」
「自分のピックもない」
「あたしのを貸す」
「家、遠いし」
「自転車で十二分。地図で測った」
詰将棋を、二手先まで読まれている気分だった。彼女は俺が口にしそうな逃げ道を、たぶん昨夜のうちに、全部潰してからこの机の前に立っている。一手指すたびに、王手の声が、彼女の口の代わりに俺の中で鳴った。
「……なんで、そこまで」
「昨日の音、忘れられないから」
短く言って、灯は鞄から小さなノートを取り出した。表紙にサインペンで「軽音部」と書かれている。文字の角が丸い、彼女の字だった。ノートの背は何度も開かれた跡で白く折れ、表紙の隅に親指の油じみがうっすら残っている。
「あたし、ここで頭、下げる」
「……は」
「みんなの前で下げる。湊くんが断りにくい空気、あたしが作る。だから、見学だけでいいから、来て」
教室がざわついた。灯は椅子から立ち上がって、両手を太腿の脇に揃え、俺の机に向かって深く頭を下げた。指先まで、定規を当てたみたいに揃っていた。
朝のチャイムが鳴ったのは、その直後だった。
下げられたつむじが、教室の蛍光灯をはじいて、染めた髪の根元の黒い部分まで克明に見えた。担任の足音が廊下から近づいてくる。灯は頭を下げたまま、動かなかった。彼女のうなじに、ごく薄い汗が一粒、光って滑った。
「……顔、上げて」
俺の声が掠れた。
「上げない。湊くんが、うん、って言うまで」
「行く、から、上げて」
「ほんと?」
「ほんと」
灯は顔を上げる前に、もう一度小さく頭を下げ直した。それから、椅子を音もなくもとに戻し、自分の席へ歩いていった。教室の視線が、彼女の背中と、俺の机の上の冷めたコーヒーを、交互に往復していた。机の縁を握った俺の指は、いつのまにか白くなるほど力を入れていた。
——三宅央介。
頭の中で、その名前が反響した。
中学二年の冬、文化祭の体育館。アンプの裏で、三宅がスティックを床に叩きつけた音。乾いた、薄い木が割れる音。あの日、俺は何も言わずにステージから降りて、それきりギターケースを押し入れの奥に押し込んだ。スティックの先がフローリングに薄く凹みを残していたのを、今でも覚えている。靴底が踏んだ、その凹みの感触まで。体育館のひんやりした床に、三宅の吐いた息の白さが、長く尾を引いていたことも。
一限目の現代文。教科書を開いても、活字が網膜の上を滑っていくだけだった。三宅の名前が、プリントの余白に勝手に書かれそうになる。シャーペンの先を止めて、深く息を吸った。鉄錆の味は、まだ舌の奥に残っていた。教科書のページの端を、知らないうちに親指で何度も折り返していて、そこだけ紙が柔らかくふやけていた。
休み時間、灯はいつも通り、女子たちに囲まれて笑っていた。教卓の前の三人組が、ちらちらと俺を見ている。「佐伯くんって、軽音だったの?」と、誰かが小声で別の子に聞くのが、ぎりぎり聞こえた。
——逃げ道は、たぶん、もう一本も残っていない。
昼休みの直前、灯がもう一度だけ俺の机の横を通った。何も言わずに、机の上に小さなメモを置いていく。指先がほんの一瞬、メモの角を押さえて、机に音を立てないように離れた。
『十六時、新棟三階、スタジオB。三宅も柊先輩もいる。絶対に』
三宅、と書かれた三文字を、指の腹でゆっくりなぞった。絆創膏の下の傷が、また熱を持つ。鼓動が、こめかみの裏で重くなった。「絶対に」の文字だけ、ペン圧が他より強く、紙の裏まで青い線が透けていた。
封印、という言葉を、俺はずっと使ってきた。三年間、誰にも触れさせなかった押し入れの黒いケース。あれを、俺は今朝、自分の手で引っ張り出した。灯の頼みを聞く前に、もう体が動いていた。
封印の鍵は、たぶん、自分で開けていた。
放課後、北校舎の昇降口で靴を履き替える。
肩には、家から担いできた黒いハードケース。三年ぶりの重みが、両肩の骨に久しぶりに食い込む感覚を呼び戻していた。ケースの底に、剥がれかけたバンドのステッカーが一枚、まだ残っている。中学のとき、三宅がふざけて貼ったやつだ。指で押さえつけると、糊の古い匂いが微かに立った。誰かに踏まれた靴跡みたいに、ステッカーの端は黒ずんで反り返っていた。
新棟への渡り廊下を歩く。四月の終わりの風が、開いた窓から斜めに吹き抜け、頬を冷たくなでた。校庭の方からは、野球部のノックの音が、規則正しく、乾いて聞こえてくる。スタジオBは、新棟三階の一番奥。防音扉のガラス窓から、ベースの低い音が、ぼん、ぼん、と漏れていた。階段を一段上がるたび、ケースの中で、緩んだ弦が金属質にかすかに鳴いた。
扉の前で、俺は一度だけ立ち止まる。
ガラス越しに、ドラムセットの向こうで、見覚えのあるシルエットが、スティックを指の中で軽く回していた。回し方の癖まで、三年前と、何ひとつ変わっていなかった。回転の終わりに、必ず一度、人差し指で軽くスティックの腹を叩く。あの癖だ。
俺の左手が、勝手に弦の形を思い出して、動いた。