第1話
第1話
弦を押さえる左手の指先が、硬いタコの下で小さく疼いた。薬指の第二関節に残った傷痕が、チョーキングで持ち上がるたびにじんわり熱を持つ。中学二年の冬、最後のライブで切ったままにしてあった、古い傷だ。
放課後の旧音楽室には、誰もいないはずだった。
五階の隅、階段をふたつ上がった先。新棟のスタジオが完成してから、軽音部ですら寄り付かなくなった部屋。南向きの窓から差し込む四月の陽が、床の埃を金色に粒立てている。フローリングのニスは所々剥げて、木の地肌が出ていた。
備品のアコースティックギターを膝に抱えて、俺——佐伯湊は息を詰めるように指を動かした。三年前に封印したはずの、よく知っているフレーズ。ボーイングをするみたいに左手が走ると、アンプを通さない生音が、ざらりと胸骨を揺らす。
鉄錆の味が、舌の奥に滲んだ。指の皮が薄くなっていて、三小節目のEマイナーで弦が肉に食い込んだのだ。
——もう一回だけ。
窓の外で桜の葉が揺れている。散ったあとの、青い葉桜。新学期が始まって一週間、俺は教室のどこにも自分の椅子を見つけられていなかった。クラス替えで知っている顔は二人だけ。休み時間の十分間がやたら長い。その十分を呑み下すための避難所が、この部屋だった。
サビ終わりの一音を、しゃん、と鳴らし切った。
ドアの磨りガラスに、人影が映った。
——え。
「うそ」
振り向いた先で、教室でいちばん目立つ女子が、目を丸くしていた。
明るく染めた長い髪。制服のリボンを少し緩めた胸元。手にしたスマホが、いまにも滑り落ちそうに傾いている。その画面の明かりが、薄暗い廊下の気配を彼女の頬に映し返していた。画面には誰かとのトーク画面が開いたままで、返信途中の文字列が途切れているのが、一瞬だけ視界をかすめた。
桐谷灯。俺のクラスの、陽の側の住人。
「今の、湊くんが弾いてたの?」
指先が、弦の上で凍りついた。心臓の鼓動が、急に耳の奥で大きくなる。喉仏の辺りがきゅっと縮んで、息の通り道が細くなったみたいに感じる。
返事の代わりに、俺は膝のギターをそっと床に下ろした。置き方ひとつでも震えがばれる気がして、首の後ろを冷たい汗が伝う。
「……人、いないと思って」
やっと絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
灯は後ろ手にドアを閉めて、つかつかと入ってくる。上履きの踵が木の床を踏む音が、やけに大きく響いた。一歩、二歩、三歩。距離が近づくたび、彼女のシャンプーの甘い匂いが、埃っぽい部屋の空気に混ざる。
「いないよ。ここ、みんなスタジオに移ったし」
「……じゃあ、なんで灯さんが」
「あたしは好きなの、この部屋」
彼女は壁際の古いアップライトピアノに、制服のスカートのまま腰かけた。片手でピアノの縁を撫でて、もう片方の手で、俺を真っ直ぐ指差す。その人差し指の爪には、薄い桜色のマニキュアが塗られていた。
「ねえ、今の、なんていう曲?」
「……オリジナル」
「嘘」
「ほんとに」
「誰の」
「……俺が、昔、書いた」
灯の肩が、ひゅっと持ち上がった。口元を手で押さえる仕草が映画のワンシーンみたいに絵になって、俺の喉を余計に塞ぐ。ほんのわずかに開いた指の隙間から、息を呑む音が漏れたのが分かった。
教室での桐谷灯は、いつも三、四人の女子に囲まれて笑っている。昼休みの廊下を歩く角度ひとつで、その一角の空気を変えられるタイプの人間だ。俺の世界とは、電車で二時間離れた沿線を走っている。話したことは、席替えの日の「よろしく」だけ。
それが、どうして。
「湊くん、中学どこ?」
「隣の市の」
「部活は」
「……軽音」
口から出てから、しまった、と思った。舌を噛み切りたくなるくらい、余計な一言だった。
彼女の目が、ピアノの鍵盤の白より明るく光った。
「やっぱり」
「やっぱりって」
「だって、今の、ピック持たないで弾いてたでしょ。指の動きが、軽音の子のそれ」
言われて初めて、膝の上のギターを思い出した。アコースティック用の弦の硬さが、掌にじんじん残っている。薬指の傷から、にじんだ血が一滴、弦を朱色に染めていた。
灯はピアノから立ち上がって、しゃがみこんだ。スカートの裾が床の埃に触れるのも構わず、彼女は俺の指を覗き込んで、唇を噛む。口紅の薄い桃色が、白い歯にほんの少しだけ滲んだ。
「……指、切れてるじゃん」
「慣れてる」
「慣れてるって」
「三年、触ってなかっただけ」
三年、という数字に、彼女は一度だけ瞬きをした。何かを察したような、しかし深追いはしない瞬きだった。長い睫毛が、影をひとつ落として、また持ち上がる。
代わりに、灯はスカートのポケットから絆創膏を取り出した。こういう日に限って鞄じゃなくポケットに入っているのが、陽の側の人間の準備の良さなんだろうか。
「はい」
差し出された絆創膏は、指先が触れそうで触れなくて、俺はそれを自分で受け取った。小さな四角のパッケージが、やけに重たかった。フィルムを剥がす指が、わずかに震えたのを、彼女は見なかったふりをしてくれた。
絆創膏を巻きながら、灯はピアノにもう一度腰かけた。今度は鍵盤に向き合って、右手でCのコードだけを鳴らす。音が、部屋の天井の埃をぱらぱら揺らす。
「……湊くん、お願いがあるんだけど」
来るな、と思った。予感は、だいたい当たる側に倒れる。
「軽音部、今ギター一人足りないんだ」
「……そう」
「三年の先輩が、受験で先月から抜けた。文化祭までに補充しないと、ステージ枠、取れない」
「他にいるだろ、一年にも二年にも」
「いない」
灯の指が、鍵盤の上で止まる。Cが減衰して、部屋は五月みたいに静かになる。
「うちの軽音、今、あたしと三宅と、柊先輩の三人しかいないの」
三宅、という名前に、心臓の奥が小さく跳ねた。小学校の通学路で、毎朝うしろをついてきた幼馴染。中学で一度だけ同じバンドを組んで、そして——やめた。あの日の、スティックを床に叩きつける乾いた音が、今さらのように耳の底で甦る。胃のあたりが重たくなって、唾を飲むのに妙な力がいる。
「ドラムが、三宅央介?」
「知ってる?」
「……昔、ちょっと」
灯は、今度はこちらの事情に踏み込まなかった。代わりに、鍵盤から手を離して、背筋を伸ばし、膝の上で手を揃える。ぺこりと頭を下げた。
「お願い。一回だけでいいから、見学に来て。明日の放課後。新棟のスタジオ。ほんとの、一回だけ」
下げられた頭のつむじに、西日が斜めに差していた。染めた髪の根元が、少しだけ黒い。等身大の、十七歳の彼女の頭。頭を下げたまま動かない背中が、教室で見せる姿よりずっと小さく、薄く見えた。
「……一回だけ」
「うん、一回だけ」
断る言葉を、俺は何度も頭の中で組み立てた。家に用事がある。塾がある。体調が悪い。そういう、三年間ずっと俺を助けてくれた便利な嘘たち。
でも、口が動かなかった。
弦の上で、さっきの一音が、まだ尾を引いていたせいだ。
「……わかった。一回だけ」
灯が顔を上げる。目の縁が、ほんのり赤い。疲れだろうか、光のせいだろうか。その理由を訊けるほど、俺は彼女との距離を掴めていなかった。
「ありがとう、湊くん」
立ち上がった灯は、俺の膝のギターに向けて、小指だけをそっと伸ばした。指の先が、六弦に触れる寸前で止まる。
「明日、このギター、持ってきてもいい?」
「……これ、備品だから」
「ならあたしが借りとく」
「……ずるい」
「ずるい子、嫌い?」
言い返せなかった。
扉を開けて廊下に出ていく背中を、俺は座ったまま見送った。上履きの音が遠ざかると、急に、部屋の空気が前よりひんやり感じた。
カーテンの端を掴んで、窓を少しだけ開ける。
四月の風が、葉桜の匂いを連れて入ってきた。鼻の奥が、弦を押さえた指先と同じくらい、じんと痛む。
スマホが短く震えた。知らない番号からのメッセージ。
『桐谷です。明日の十六時、新棟三階、スタジオB。絶対に来て。絶対に、ね』
絶対に、が二回。
俺は画面を閉じて、立ち上がった。三年ぶりに、備品ではなく自分のものを触りたくなっている。押し入れの奥で、黒いハードケースが埃をかぶっているはずだった。
明日、俺はそれを担いで家を出る。
逃げる準備ではなく、一度だけ、前に進むための準備を。
陰キャの俺に、明日はもう、避難所がない。