第3話
第3話
三年二組の教室は、朝のあいだ、いつもより僕を静かに素通りさせた。
廊下の掲示板で目にした三人の名前は、教室の空気にうまく馴染まなかった。久瀬蓮、氷川詩織、瀬戸柊。罫線の上に並んだ縦書きの活字は、朝の蛍光灯の下でどこか頼りなく、マジックの見出しだけがやけに黒く、指先でなぞれば紙の裏まで墨が透けていそうなほどだった。昨日の、あの「聞かなかったことにして」が、いまも耳の裏側で乾ききっていない。そのうえに三人一組の名簿が重ねられて、掌の内側の粘りと一緒に、いま、僕は席に座っている。
窓際、後ろから三番目。鞄の紐をまだ肩から下ろせずにいた。一限目のチャイムが鳴るまで、教室の黒板の上の時計の針を、ただ眺めていた。教卓の隅で、今日の日付を書いた学級委員のチョークの字が、端のほうで少しだけかすれている。そのかすれを、僕はノートに写し取らなかった。いつもなら、迷わず鉛筆を握る手が、今朝は、鞄の持ち手を掴んだまま動かない。
朝のホームルームの途中、担任が手にしたクリップボードから、一枚、プリントを抜き取った。
「久瀬。悪いが、放課後、視聴覚室」
「……はい」
「文化祭な。ステージ企画班。夕方の顔合わせ、忘れるなよ」
返事の声が、喉の奥で軽くかすれた。担任はすぐ別の生徒の名前を呼び始めて、プリントを受け取った僕の返事など、もう聞こえていない。周りの誰も、こちらを見なかった。実行委員そのものは珍しくない。ただ、僕が呼ばれたという事実だけが、奇妙な粒のように、机の上に置かれていた。
放課後までの五時間、僕はほとんど何も覚えていない。ただ、六限目の終わりに、窓の外の空が、水を含んだ色に変わっていたことだけ、不自然なほど鮮明だった。
視聴覚室は、本校舎の二階、階段を上がってすぐの場所にあった。ドアを押したとき、中にはもう二十人近い顔があった。クラス代表。文化祭実行委員長の三年七組の男子が、黒板の前に立ってプリントの束を叩いている。部活動ごと、クラスごとに固まった輪の端に、僕は一人で椅子を引いた。金属の脚が床を擦って、妙に大きな音を立てた。
「ステージ企画班、三人、揃った?」
委員長の声がした。僕は立ち上がりかけて、やめた。
「氷川、瀬戸、久瀬」
呼ばれた順に視線が動いた。斜め向かいの椅子から、黒い髪を肩の上で切り揃えた女子が、ゆっくり顔を上げた。薄い水色のカーディガンの袖の、左の肘の内側が、指の腹で擦れてほつれかけているのが見えた。昨日、音楽室の扉から出てきたときに抱えていた楽譜袋は、いまは膝の上で二つに折られている。氷川詩織の視線は、僕の顔の手前で一度止まり、そのまま、机のへり一枚分、下へずれていった。
もう一人は、後方の窓際に立っていた。制服のボタンを首元までしっかり留めた長身の男子で、左手に細長い木の棒を抱えている。よく見ると、それは丸めて紐で結わえたキャンバスだった。美術室の制作に使う、白く張った布の芯だ。瀬戸柊、と委員長が指さしたとき、彼は小さく頷いただけで、目線は床のタイルの継ぎ目から一度も動かなかった。
「ステージ企画は三人一組。文化祭二日目の午後、体育館のステージ、持ち時間は七分。演目は、今日の会議で決めなくていい。来週までに企画書一枚、書いてきて」
七分。
その短さは、僕にとってはどこか現実味のない数字だった。吹奏楽の「きらきら星」の、あの繰り返されていた一小節を、何回並べれば七分になるのだろう。机の縁を、指の腹でなぞる。ささくれは、視聴覚室の机にはなかった。つるりとした合板の縁は、昨日の空き教室より冷たい。
「ステージ企画、美術部と音楽関係から一人ずつ入れて、それを繋ぐ係、ひとり」
繋ぐ係。
委員長の視線が、三人のあいだを、一度、通過した。そして、名簿の並びの通り、最後に僕のところで、ほんの半拍だけ止まった。繋ぐ係、という言葉の意味を、体のどこかが先に理解して、胃の裏側が冷たくなった。氷川の指と、瀬戸の抱えたキャンバスを、繋ぐ。差し出せる楽譜も絵も持たない僕が、二人のあいだに立って、何を。
会議そのものは二十分で終わった。日程と、来週までの宿題と、備品リストの確認だけ。氷川詩織は、最後まで、一言も発しなかった。瀬戸柊も、名前を呼ばれた瞬間の頷き以外、声を出さなかった。
解散の直前、委員長が僕に歩み寄って、一枚のメモを押し付けた。
「久瀬。悪いんだけど、先に美術準備室、寄ってほしいんだわ。去年の背景幕の寸法表、瀬戸が取りに行くはずなんだけど、あいつ、一人じゃ準備室の鍵開けに行きたがらないから。鍵、お前のぶんも頼んどいたから、一緒に」
——頼まれ事、だった。
本校舎から美術室のある別棟まで、渡り廊下を歩く。瀬戸柊はずっと、僕の二歩先を歩いていた。背中の学ランの、肩の縫い目が、歩くたびに微かに揺れる。彼は振り返らない。キャンバスを抱え直す指の節が、白く浮いていた。渡り廊下の窓から見える中庭の楓の新緑が、午後四時半の光を、葉の縁で細く切って床に落としていた。
美術準備室は、美術室の奥、廊下の突き当たりだった。瀬戸が鍵束から一本を抜き、扉に差し込む。カチリ、と錠の下りる音がして、それから引き戸が薄く開いた。油絵具と、テレピン油と、乾いた画用紙の匂いが、僕の鼻の奥までひと息に届いた。
「……入って」
瀬戸の声は、思っていたより低かった。その三文字以上の続きはなかった。僕は、一歩、部屋に入った。
準備室の、いちばん奥の壁際に、イーゼルが一台だけ立っていた。そのイーゼルの上に、布をかぶせた大判のキャンバスがあった。白い布の下から、何色か、にじんだ絵具の跡が滲み出して、布そのものに重たい影を作っていた。瀬戸は、僕が入るなり、そのイーゼルのほうへ大股で歩み寄った。抱えていたキャンバスを床に立てかけ、白い布の端を、一段、きつく引き直す。そのあいだ、彼はほとんど呼吸をしていなかった。
見てはいけない。
そう思った。思って、視線だけ、棚のほうへ逸らした。棚の三段目に、色あせた模造紙の筒が並んでいる。去年の、そのまた前の、文化祭背景幕の寸法表。たぶん、この中のどれかだ。僕は、ほんの一歩、棚に近づいた。
「勝手に、見ないで」
瀬戸の声が、背中に当たった。
短かった。怒気は、薄かった。けれど、その薄さが、昨日の氷川の「聞かなかったことにして」と、声の温度としては、ほとんど同じだった。僕は息を詰めた。見るつもりはなかった、と言おうとして、その一言が、この部屋の空気には余計に思えた。ごめん、でもなく、別に、でもなく、僕は、何も言わなかった。唇のあいだで、言葉は、また息に戻った。
イーゼルの前で、瀬戸は、白い布の上から、指先でもう一度、キャンバスの四つの角を押さえていた。押さえる、というより、隠す、という動作だった。布の端を壁のフックに掛け直した彼の肩が、ふ、と一度、静かに落ちた。それは、誰にも見られずに済んだ、という安堵の落とし方だった。
僕は、棚から寸法表の筒を一本、抜いた。紙の縁が、指にかさついて、ほんの少し、粉を落とした。
瀬戸は、振り返らないまま、扉のほうへ歩き出した。
「——行く」
「……うん」
それだけが、僕とこの男との、最初の会話だった。扉の外へ出るまでのあいだ、僕は、イーゼルの白い布を、一度も、振り返らなかった。
廊下に出て、瀬戸が鍵を掛ける音を背中で聞いた。カチリ、という、さっきとは逆向きの金属音。その音の短さの中に、あの布のかかったキャンバスごと、瀬戸柊という男の何かが、もう一度、固く閉じ込められたのが、分かった。
渡り廊下の、中庭側の窓から、夕方の風が入り込んできた。制服の襟の内側で、その風は、さっき視聴覚室の椅子を引いた金属の音の冷たさと、同じ温度をしていた。瀬戸が、先に階段を下りていく。僕は、寸法表の筒を、小脇に抱え直した。筒の中で、去年の誰かが書き込んだ鉛筆の数字が、微かに擦れて粉になる音がした。
——来週までに、企画書一枚。
委員長の声を、胸の中で繰り返してみる。繋ぐ、という言葉の重さが、いまになって、掌にじわりと戻ってきた。氷川詩織は、楽譜袋の中身を、たぶん、まだ誰にも渡すつもりがない。瀬戸柊は、自分の絵を、白い布の下に縛り直したばかりだった。そして僕は、差し出せるものを、まだ、ひとつも持っていない。
階段を下りながら、明日の放課後、また四階に上がるだろうか、と考えた。上がっても、もう、空き教室は、僕ひとりの逃げ場ではなくなる気がした。鞄の中で、寸法表の筒の先が、鉛筆ケースの金具に、こつ、と一度、当たった。