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放課後、四階の空き教室で

第2話 第2話

第2話

第2話

翌日の四階は、昨日より空気が一度だけ湿っていた。引き戸を押すと、蝶番が昨日と同じ音で低く鳴いて、僕——久瀬蓮は、その音ごと体を差し込むように教室へ入った。五月十日、水曜日。西日はまだ届いていない。窓際の机の列が、曇天の薄い光に、全部ほんの少しずつ青ざめて見える。鼻の奥にだけ、雨の手前の、鉄くさい匂いが混じっていた。

いちばん奥の席に鞄を置く。木の椅子の冷たさを膝の裏に受けて、息を一つ、浅く吐いた。ノートを取り出すけれど、鉛筆には指を掛けなかった。昨日の最後のページには、鍵盤が四つだけ並んでいる。白鍵三つと、黒鍵ひとつ。描き足したときには気づかなかった配置が、今朝見直すと、耳の奥でかすかに音を鳴らした気がした。

ポーン、と。

僕は椅子の背に体を預けた。上履きのかかとで床を一度だけ軽く蹴って、やめた。今日、また同じ音が聞こえるとは限らない。確かめるために上がってきたはずなのに、確かめないまま放課後が終わってしまえば、それはそれで安心できる気もしていた。期待しないほうが、僕にはまだ馴染む。

昨日、階段の踊り場ですれ違った女子の横顔が、ノートの余白に勝手に紛れ込みそうになって、僕は鉛筆の先をひと呼吸分だけ机に押し付けた。芯の粉が木目の奥に落ちていく。その粉を指の腹でなぞりながら、何も思い出さないようにする、という行為の難しさを、初めて知った。思い出さないように、と念じるほど、横顔の輪郭は、かえって鮮明に裏側へ滲んでいく。前髪の隙間から覗いた目の伏せ方。楽譜袋を抱え直すときの、肘のわずかな角度。思い出したくないものほど、指先まで覚えてしまっていることを、僕は少しだけ恨んだ。

吹奏楽の「きらきら星」は、今日は聞こえない。代わりに、グラウンドでは走り込みの掛け声が、波みたいに規則正しく昇ってくる。一、二、一、二。その数字の合間に、もう一つ、別の音が混じった。

三階の方向から。

昨日と同じ、底を叩くあの低音だった。

僕は立ち上がっていた。足の裏が、先に床を離れていた。

階段を、一段ずつ下りる。三階の踊り場で、息が止まっていた。止めたつもりもなく、止まっていた。第一音楽室の磨りガラスの扉から、蛍光灯の白い光が、下の隙間を細い帯にして漏れている。その帯の上を、音が直接、上履きの裏まで這い上がってきた。

弾いている。

昨日の、迷いながら置かれた単音ではない。今日は、指が迷う前に走り出している。右手と左手が別々の生き物みたいに、それでいて同じ呼吸で。僕は扉の真横の壁に背中を預けて、そのまま、耳だけで聴いた。二年の授業で一度だけ触れた、あの、指紋を残すのを躊躇うほど磨かれた黒いグランドピアノが、いま、誰かの指の下で鳴いている。

曲名は分からない。ただ、その音の連なりは、途中で何度か同じ場所へ戻ってきた。戻るたびに、強さが少しずつ削られていった。うまく弾けない箇所があるのだ、と気づくのに、時間はかからなかった。四小節。たぶん四小節。冒頭の上昇から、ゆっくりと左手の低音が戻ってくる、そのちょうど繋ぎ目で、右手の人差し指がつっかえる。僕はピアノのことを何も知らないのに、その繋ぎ目の正体だけは分かる気がした。そこは、弾き手の呼吸と、指の覚悟が食い違う場所だった。息を吸って吐くまでの、ほんの半拍のあいだに、こうでありたい自分と、いまそこにいる自分の距離が、指の先にそのまま落ちてしまう場所。

止まって、数秒の沈黙。

それから、また頭から弾き直す。

三回目、四回目——数えるのをやめたあたりで、沈黙が、今までよりも長くなった。

磨りガラスの向こうに、人影が一つ、鍵盤の前で動かずにいるのが透けて見えた。肩が、小刻みに震えている。泣いているのか、呼吸を整えているのか、ここからでは区別がつかない。僕は壁に貼りつけた背中を、ほんの少しだけ扉のほうへ傾けた。傾けてから、自分の呼吸が壁越しに聞こえてしまうのではないかと怖くなって、慌てて鼻から息を吸った。鼻の奥を、古い楽譜の紙と、ワックスで磨かれた床板の、混ざり合った匂いが通り抜けていった。

そのとき、指が、乱暴に鍵盤を叩いた。

ガン、と。

音楽ではなく、拳か、掌の付け根の、硬い音だった。鍵盤の奥で何かが軋んで、それっきり、室内は完全に静かになった。廊下の蛍光灯がじりじりと鳴っているのだけが、はっきりと耳に残った。

僕は動けなくなった。立ち去るにしても、近づくにしても、足の裏が床に貼り付いていた。息を、できるだけ浅く、一度吸って、止めた。壁に当たった背中の、学ランの布の下で、汗がひと筋、じわりと肩甲骨のあいだを下りていく。

扉の向こうで、椅子を引く音がした。

——出てくる。

気づいたときには、僕の手は扉の横の掲示板の端を掴んでいた。指先に、古いガムテープの糊の乾いた粘りが触れた。その粘りを残したまま、一歩、半歩、壁に沿って後ずさる。その瞬間、磨りガラスの扉が、内側から横へ引かれた。

空気が、ひと塊、音楽室の中から漏れ出した。練習室特有の、封じられていた音が混ざった匂い——木と、布と、鍵盤のキーの奥に沈んだ、湿った金属。

出てきたのは、昨日、階段の踊り場ですれ違った女子だった。

楽譜袋を抱えたまま、彼女は振り向かずに扉の鍵を掛けた。鍵束の金属が、指の関節で一度だけ硬い音を立てた。その小さな音が、さっきまでのピアノの残響を、廊下の空気から完全に締め出したように聞こえた。

顔は、こちらを向いていない。

けれど、彼女の目の端が、ほんの一瞬、壁に貼り付いている僕をとらえた。とらえて、逸らされた。逸らすというより、視界の中から、僕の輪郭を削るように。

制服の襟の端が、少しだけ濡れていた。

それが汗なのか、涙の落ちたあとなのか、僕の立っている角度からは判別できなかった。頬は青白く、目の縁だけが、赤いのを通り越して、橙に近い色で腫れぼったくなっていた。睫毛の付け根に、一粒、まだ残っていた。楽譜袋を抱える腕の、肘の内側が、かすかに震えているのが分かった。その震えを隠すために、彼女は袋を胸のほうへ、もう一度、強く抱え直した。

「——聞かなかったことにして」

彼女の声は、言葉の輪郭ははっきりしているのに、息の量がほとんど乗っていなかった。低いのではなく、空気が足りていない。僕が何か答えるより先に、彼女は僕の視線の真ん中を一度だけ、まっすぐ射抜いた。

瞳の奥は、怒っていなかった。

怒っていないのが、怒られるよりずっと鋭かった。胸の、真ん中のすぐ裏側あたりを、細い針で一突きされた気がした。爪が、ノートを掴んでいた左手の掌に、気づかないうちに食い込んでいた。喉の奥で、何か言おうとした音の形が、声になる前にほどけて、ただの息に戻っていく。ごめん、でも、大丈夫、でもなく、そのどちらにも届かない場所で、言葉は死ねばいいと思った。

彼女は視線を外すと、僕に背を向けて、階段を下りていった。一段ごとに、楽譜袋の紙が擦れる音と、上履きのかかとがコンクリートを叩く音が、遠ざかっていく。

——分かりました、とも、ごめん、とも、何も言えなかった。

言わないことにしておく、とだけ、僕は胸の中で呟いた。彼女がそう望むのだから。それ以外、僕に何かを差し出す資格はない。

階段を下りる音が聞こえなくなっても、僕はしばらく、そこから動けなかった。音楽室の磨りガラスは、また元通り、白く曇っていた。蛍光灯の白い光が、その曇りの奥でほんの少し揺れて、また落ち着いた。さっきまで誰かが泣いていた気配は、もうどこにも残っていなかった。

翌朝、登校した僕を、三年二組のある北棟の廊下が、妙に静かに迎えた。一限目まで、まだ二十分ある。鞄を肩にかけ直して教室へ向かう途中、昇降口からいちばん近い掲示板の前に、下級生たちが小さく固まっていた。

通り過ぎようとして、目の端に、自分の名前があった。

『久瀬 蓮(3-2)』

——の、すぐ上に。

『氷川 詩織(3-5)』

——の、すぐ下に。

『瀬戸 柊(3-1)』

三人の名前が、罫線を跨いで縦に並んでいた。用紙の見出しは、マジックの太い字で、こう書かれていた。

——文化祭実行委員 ステージ企画班 担当者一覧。

氷川詩織。

昨日、音楽室の扉から出てきた、あの女子の名前だった。確信は、体のほうが先にしていた。掌に、まだ、掲示板のガムテープの粘りが残っている気がした。指の関節が、その粘りの記憶を、勝手に握ったり開いたりを繰り返している。

僕はその貼り紙の前で、ただ立ち尽くしていた。下級生の一人が、きょとんと僕の横顔を見上げた。貼り紙の下部には、第一回顔合わせの日時が、放課後、と印字されていた。今日の、この後の。

——聞かなかったことにして。

昨日の声が、まだ、耳の奥で乾いていなかった。

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