第1話
第1話
階段を四階まで上ると、廊下の空気が一段ひんやりして、鼻の奥にだけ埃の匂いが届く。旧校舎の四階、三年二組の斜め向かいにある空き教室は、チャイムが鳴って十五分も経てば誰も来なくなる。僕——久瀬蓮は、引き戸の端を指の腹でそっと押す。ガタ、と低い音。蝶番が錆びている。開けきらないその隙間をすり抜けるのが、ここ一年、僕の放課後の入り口だった。
西日が、机の天板の傷をひとつ残らず拾い上げていた。油性マジックで塗り潰された名前。彫刻刀で掘られた相合い傘。誰のものだったのか、もう誰も覚えていない痕跡の上を、五月の橙がゆっくりと撫でていく。窓を少しだけ引くと、下のグラウンドから野球部の掛け声と、どこかの教室の笑い声がひと塊になって昇ってきた。中庭を挟んだ向こうでは、吹奏楽部の金管が「きらきら星」の最初の一小節だけを、さっきからずっと繰り返している。
僕はいちばん奥の席に鞄を置いた。埃がふわりと舞って、斜めに差し込んだ光の帯に溶けた。木の椅子の冷たさが、学ランの布を通してゆっくり膝の裏に届く。ここだけ、時間が他より一拍だけ遅れて進んでいる気がする。指先で机の縁のささくれをなぞると、乾いた木の繊維がほんの少しだけ爪に引っかかって、その感触が妙に安心する。誰かが残したものの上に、今日の僕の体温が薄く重なっていく。そういう重なり方なら、僕にも許されている気がした。
ノートを開く。表紙は何の変哲もない大学ノートで、教科の文字は書いていない。罫線の上を鉛筆の芯が走ると、三年生の朝からの景色が紙の上にぽろぽろと落ちてくる。鉛筆は2Bで、芯の柔らかさが指先にじんわり伝わってくる。ひと息分だけ力を抜いて線を引くと、紙が微かにざらりと鳴いた。
廊下で肩がぶつかった知らない下級生のシャツの皺。黒板の隅に書き忘れられた日付。給食当番の白衣がはだけて見えた、誰かの首筋の薄い痣。僕は人間より、そういう、誰も回収しないものばかりを描いている。今日描いているのは、四限目の古文の授業中に見た教卓の上の湯のみだった。古典の先生が、淹れたお茶をひと口も飲まずに板書していた、その取っ手の小さな欠けを——。湯気が立っていたのを覚えている。先生の白いチョークの粉が、その湯気にまぶされて、ほんの一瞬だけ金色に光った。それを誰も見ていなかったことが、どうしてか、胸の奥で少しだけ苦かった。
「久瀬。昼休み、どこ行ってたの」
朝、クラスメイトの一人がそう言ったのを思い出す。一年のときから同じクラスで、それなのに連絡先も知らない男子だった。別に、と僕は答えた。言ってから、その二文字の軽さが自分の舌の上で乾いていくのを感じた。相手も、そう、とだけ返して、もう何も訊かなかった。期待されていないことの楽さと、そのぶんだけ薄く切り取られていく自分の輪郭を、僕はたぶん、同じ場所に仕舞っている。
別に、と答えるのが、僕の得意技になっていた。三年二組の、窓から二列目、後ろから三番目。成績は中の上で、部活はなくて、友達はいないわけではないけれど、休みの日に遊ぶ約束を交わすほどの相手もいない。クラスの喧騒に馴染めないわけではないのだと、自分に言い聞かせている。馴染めないのではなく、馴染むことの意味が、どうしても一つ足りないだけだ。
たとえば、ギターを抱えて登校する奴の、朝の目の光。たとえば、模試の結果が返るたびに教室の端で唇を噛んで泣く女子の、震える肩。たとえば先週、文化祭実行委員に立候補した学級委員が、黒板の前で「最後だから」と言い切ったときの、声のまっすぐさ。
あの、背骨が内側から光っているみたいな本気。あれが、僕には、ない。だから僕は観測する側にまわる。傍らに立って、他人の熱の輪郭だけを紙に写し取って、誰にも渡さないまま、机の抽斗の奥に重ねていく。それで十分なのだと、自分に言い聞かせている。それで、たぶん、十分なのだ。
鉛筆の先で湯のみの取っ手を塗り潰す。欠けた部分だけ、白く残す。そこに橙が差し込むのを想像する。完璧だ、と思う。誰にも見せないから、完璧でいられる。
廊下のどこかで、椅子を引く音がした。上履きが床を擦る音も。僕は動かない。四階まで上がってくる生徒はほとんどいない。たまに掃除の先生が来ても、奥の席の僕に気づいて声をかけてきたことは、まだ一度もなかった。
窓の外で、吹奏楽の「きらきら星」が三回目の同じ小節を始めた。
その音は、最初、気のせいだと思った。
吹奏楽の金管のあいだに、もう一つ別の響きが混じっている。金属ではなくて、木でもなくて——もっと深い場所から底を叩かれたような、低い、たった一音。
ポーン、と階段の下のほうから昇ってくる。
僕は鉛筆を止めた。耳を、引き戸の隙間に向ける。旧校舎の四階は、上の階段のさらに先に音楽準備室がある。けれど、いま立ち寄っている空き教室の真下、三階の端にはグランドピアノの置かれた第一音楽室があるはずだった。二年のとき、授業で一度だけ使った、あの、鍵盤の艶に指紋を残すのを躊躇うほど磨かれた黒い楽器。
ポーン。
二音目。さっきよりも少し、指が迷ったような強さだった。弾いている誰かの体が、鍵の重みの奥を確かめようとしている。そう感じた瞬間、喉の奥で小さく唾を飲む音が自分のものなのか、階下の誰かのものなのか、一瞬だけ分からなくなった。
三音目は、すぐには来なかった。
代わりに、次の一音は、まるで誰かが呼吸を整えてから置いたように、すっと差し込まれた。僕はその瞬間、息を吸うのをやめていた。
音階ですらない。ただの、一音。それなのに、中庭の「きらきら星」も、グラウンドの掛け声も、全部、遠くに退いていく。教室の埃が、西日のなかで止まって見えた。机の天板に落ちた影の縁が、ほんの少しだけ震えた気がした。音の余韻が、光と一緒に、床の木目のあいだに吸い込まれていく。
一音、一音、一音。続きが始まらない。誰かが鍵盤の前で、弾くかどうかを迷っている。その迷いの気配が、下の階から、床の木目を通って、僕の上履きの裏に伝わってくる。指が鍵盤の表面を撫でて、でもまだ押し下げないでいる、その逡巡の熱まで、階段の手すりと壁のあいだを伝って上ってきているようだった。
立ち上がりそうになって、やめた。僕には関係のないことだ。音楽室は誰でも使える。顧問の先生がいないときでも、希望すれば鍵を借りられる——そういう、誰かの正当な放課後の音だ。
それでも、もう一度、と思った。もう一度だけ、あれを聴きたい。胸の奥で、これまで動いたことのない小さな歯車が、ほんの半周だけ回ったような気がした。自分でも驚くくらい、その一音は、僕の内側に静かに引っかかっていた。
ぽつり、と四音目が落ちてきた。それは、たぶんメロディの、入り口だった。
僕は鉛筆を握ったまま、息を止めていた。ノートの上、湯のみの欠けた取っ手の横に、どうしてか、鍵盤をひとつ、描き足していた。黒鍵と白鍵の、繋ぎ目の影まで。描きながら、自分が何を待っているのか、はっきりとは言葉にできなかった。ただ、次の音が来たら、たぶん僕はこの椅子から立ち上がってしまう——そんな予感だけが、胸のまんなかで、小さく疼いていた。
——やがて、音は止んだ。
誰かが椅子を引く音がして、それから、音楽室の扉が閉まる、遠い、小さな響き。扉の金具がかちゃりと鳴って、廊下の静けさがその金属音の輪郭をなぞるように広がっていった。
教室には、また埃と橙と、吹奏楽部の同じ小節だけが戻ってきた。
下校のチャイムが鳴って、僕は鞄を掴んだ。ノートを閉じる。表紙の端、今日の日付の横に、弱い鉛筆の線で、鍵盤を四つ、並べて描いた。
階段を降りながら、三階の音楽室の扉をちらりと見る。磨りガラスの向こうは、もう暗い。誰もいない。
明日、と僕は思った。
明日も、同じ時間に、四階に上がってみよう。別に、誰かを待つわけじゃない。ただ、今日のあの四音が、本当に偶然だったのかを確かめたいだけだ。
階段の踊り場で、誰かとすれ違った。隣のクラスの、名前をまだ知らない女子だった。楽譜袋のようなものを抱えて、俯いたまま、僕を見ずに上がっていく。髪の先から、微かに雨の前みたいな匂いがした。
振り返ることは、しなかった。
昇降口を出ると、五月の夕方の風が制服の襟の内側に入り込んだ。吹奏楽の「きらきら星」は、まだ、同じ小節を繰り返していた。