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半径ゼロメートルの私と王子様

第3話 第3話

第3話

第3話

朝、目を覚ましたとき、まぶたの裏に、昨日の扉の輪郭が、まだ残っていた。

見たこともないはずの、旧校舎の突き当たりの扉。木の札の位置まで。私は布団の中で、指の関節を一度、ぐっと内側に折り込んだ。指先の節が、冷たい骨の音を立てる。夢と現のあいだで、鉛筆を握ったままの指先だけが、まだ起きていた。爪の際に、昨日の6Bの黒が、消しきれずに薄く残っている。親指の腹でこすると、粉のかすが、布団の白いシーツの上に、ほんの小さな灰色の点をひとつ、落とした。

制服のブラウスに袖を通す。袖口の洗剤の匂いは昨日より薄くて、代わりに、タンスの木の匂いが、かすかに混じっていた。鞄の底で、スケッチブックの角が、教科書の背に、こつんと当たる。私はその音だけで、今日一日が始まってしまうのだと分かった。

「行ってきます」

キッチンに向かって小さく言うと、母の「いってらっしゃい」が、味噌汁の湯気の向こうから返ってきた。湯気を正面から浴びないように、少し顔を逸らして、玄関へ向かう。靴べらの冷たさが、素足の踵に、いつもより深く染みた。

歩道橋の上で、私は一度、足を止めた。

国道の向こう、校舎の屋根の先に、旧校舎の煉瓦の壁が、ほんの一部だけ見える。昨日の夕方に描いた突き当たりの扉は、ちょうどあの屋根の下のどこかにあるはずだった。朝の光の中で、煉瓦の色は、雨あとみたいに少しだけ黒ずんで見えた。下を走るトラックの排気が、歩道橋の鉄の手すりを、ほんのかすかに震わせる。その振動が、手袋を外した掌に、じわ、と伝わった。

——今日、くじ引き。

教室に入る前から、その三文字が、胃の底で、ぬるい石のように沈んでいた。

一時間目が終わった休み時間、担任の鈴木先生が、透明なプラスチックのくじ引き箱を、教卓にどん、と置いた。

「はい、六時間目のホームルームで、文化祭実行委員、決めますからねー。希望調査の紙、まだの人、ちゃんと出してー」

教室の前方で、誰かが「えー」と笑いながら、くじ箱の中を覗き込む。

「うわ、これ、本気で全員分の紙入ってんじゃん」

「鈴木ちゃんってさあ、こういうとこだけ抜かりないよね」

男子たちの掛け合いに、女子が笑った。私は、机の中から「特になし」と書いた紙を、指先でほんの少しだけ引き出して、また奥へ戻した。紙の折り目が、昨日より一段、深くなっていた。折り目の筋に、鉛筆の芯が触れた跡だけが、黒く残っている。一度書いて、消して、もう一度「特になし」と書き直した、その往復の痕跡だった。

昼休み。

弁当箱の蓋を開ける音が、教室のあちこちで、ぽつ、ぽつ、と鳴る。私はいつも通り、机を廊下側の壁に半分向けて、弁当箱を開いた。卵焼きの端が、白いご飯のふちに、うっすら黄色いにじみを残している。箸の先で卵焼きを挟もうとしたら、指先が、ほんの少しだけ震えた。割り箸の先端が、卵焼きのやわらかい断面を、一度、つるりと滑る。二度目でようやく、繊維に食い込んだ。

くじ引き。装飾班。広報班。運営班。

三つのうち、どれでもいい。誰と組まされても、できるだけ黙って手を動かして、名簿の隅に「高橋」と書き込まれたまま、二ヶ月をやり過ごせばいい。私はそう決めて、卵焼きの切り口を、奥歯の内側でゆっくりと噛んだ。甘い。母はいつもより、砂糖を多めに入れていた。教室の中ほどでは、誰かが「文化祭、だるっ」と笑い、誰かが「でも打ち上げあるじゃん」と返している。その会話の隙間を縫うように、窓の外で、運動部のかけ声が、遠く、重なっては薄れていった。

——大丈夫、きっと、誰と組んでも、大丈夫。

自分にそう言い聞かせた瞬間、舌の上で、卵焼きの甘さが、やけに粘った。喉の奥へ押し込むと、甘さはすぐに消えて、代わりに、薄い鉄のような味が、ほんの一瞬、舌の付け根をかすめた。

六時間目。

「じゃ、希望で足りてる班は、そのまま。足りないとこ、くじ引きで埋めますー」

鈴木先生が、黒板の前で、眠そうに手を叩いた。黒板には、三つの班と、すでに名前の埋まっている欄と、空いている欄が、白いチョークで書き分けられている。装飾班の枠が、まだ五つ、空いていた。

「じゃ、装飾班、足りない五人、引きまーす」

くじ箱が、教卓の上で、かさ、と音を立てた。先生の手が、中に入る。紙を一枚、つまみ上げる。

「えー、一人目。——山田くん」

「うそ、マジで?」

前の席の男子が、椅子を後ろに倒しそうな勢いで立ち上がった。笑いが起きる。二人目、三人目、と名前が呼ばれるたびに、教室の中の空気の密度が、少しずつ下がっていった。私は、机の下で、スカートのひだを、指の腹でゆっくり潰していた。ひだの折り目が、指の熱で、少しずつ、ぬるく湿っていく。蛍光灯の白い光が、教卓のくじ箱のプラスチックの縁で、細く反射して、私の机の天板まで、斜めに届いていた。

「四人目、——井上さん」

「えっ、やだ、装飾苦手なんだけど」

女子が、隣の子の肩を叩いて、大げさに泣き真似をした。あと一枚。私は、息を止めた。止めたつもりはなかったのに、胸の奥が、勝手に固まっていた。先生の指が、くじ箱の中で、紙を一枚、ゆっくりとつまみ上げた。紙と紙がこすれる、ちいさな、かさ、という音が、やけにはっきりと耳に届く。

「五人目……高橋さん」

呼ばれた瞬間、指の先が、氷水に漬けたみたいに冷たくなった。

「はい」

自分の声が、自分の喉の奥で、よそよそしく響いた。顔を上げられない。うなずいただけで終わらせた。隣の席の誰かが、ちら、とこちらを見た気配があったけれど、すぐに逸らされた。それでいい、と思った。それでいいはずだった。

「じゃあ、装飾班の、実行委員の方もね、引きますよ」

先生が、別の箱を取り出した。赤いテープで「委員」と書いた、もうひとつのくじ。

「装飾班、実行委員は、二年生から一人、三年生から一人ね。三年生の分は、あっちのクラスで、もう決まってるんでー」

先生の指が、紙を、つまむ。

「二年生の委員は、えー、——高橋さん」

教室の空気が、半拍、止まった。

誰かの鉛筆が、机の上で、ころ、と転がる音がした。その音が、止まるまでに、やけに長い時間がかかった気がした。

「え、高橋さん?」

「どの高橋?」

「窓際の」

ささやき声が、幾つか、背中に刺さる。首のうしろのうぶ毛が、襟の内側で、ちりちりと逆立つ。私は、膝の上に置いた両手を、スカートの生地の上で、ぐっと重ねた。掌と掌のあいだに、じっとりと汗が溜まっていくのが、自分でも分かった。

「はーい、じゃあ、三年生の相棒も言っとこうかなー、もらってきたんでー」

先生が、教卓の書類から、一枚のプリントをつまみ上げた。私は、まだ、顔を上げられない。机の木目の傷を、目で追いかけることしか、できなかった。木目のいちばん深い傷のところで、誰かが昔、シャープペンの先で彫った小さなハートの痕が、まだ残っている。その線を、視線の先で、何度も往復した。

「三年生装飾班実行委員——えー、黒瀬碧くんだってー」

空気の、中身が、一瞬で抜けた。

誰かが、「え」と、短く漏らす。誰かが、「うそでしょ」と、笑いに変換しようとして失敗した声を出す。三年の、生徒会の、あの黒瀬碧。私は、黒板の、白いチョークで書かれていく「黒瀬」の二文字を、顔も上げずに、机の縁の反射の中で、見ていた。鈴木先生の手が、白い粉を散らしながら、「碧」の横棒を引く。チョークの先が、黒板の表面で、きゅ、と鳴った。その音が、耳の奥で、針のように細く残った。

「なにそれ、ちょっと、誰が組むって?」

「高橋さんと、黒瀬先輩?」

「うそ、なんで——」

肋骨の内側で、心臓が、一度だけ、大きくぶつかった。そのあとは、しばらく、動かなかった。舌の付け根に、また、あの薄い鉄の味が滲む。掌の中で、スカートのひだが、汗でじっとり重くなっていた。耳の奥が、プールの底から水面を見上げたときみたいに、くぐもって、誰の声も、少しだけ遠い場所から聞こえた。

顔を上げるな、と、自分に言い聞かせた。上げたら、きっと、窓ガラスに映る廊下のどこかから、あの人の影が、もう、こっちを見ている気がした。

「えー、じゃあ、今日の放課後、旧校舎の一階、段ボール置いてる部屋な。三年生と、打ち合わせ、よろしくー」

放課後。旧校舎。

昨日、私が鉛筆の先でなぞった、あの煉瓦の、あの廊下の、すぐ下。

鈴木先生の、眠そうな声が、私の半径ゼロメートルの、世界の端を、外側から、こんこん、と叩いていた。

机の中で、スケッチブックの角が、教科書の背に、もう一度、こつん、と当たった。昨日の夕方、私が描いた、見たこともない扉の輪郭が、紙の厚みの向こうで、かすかに、こちらに呼吸を合わせた気がした。

ホームルームの終わりを告げるチャイムは、まだ、鳴らない。

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