第2話
第2話
翌朝の教室は、昨日よりほんの少しだけ、空気が湿っていた。
窓の外、桜の花びらはもう散り切って、代わりに若葉の匂いが、開けたガラスの縁から滑り込んでくる。私は机の中のスケッチブックの背表紙を、指の腹でそっと確認した。押し込んだままの形で、昨日と変わらず静かに息をしている。それを確かめて、ようやく肩の力を抜いた。
一時間目は、世界史。
白髪混じりの男の先生が、地図の前でひとり、教鞭を振っている。チョークが黒板を擦る音の粒子が、私の耳の奥で、ざらざらと積もっていく。授業の声は入ってこないのに、チョークの音だけが、やけに鮮明に聞こえた。
「——じゃあ、次は四人一組で、この出来事の背景について意見交換してもらいます」
先生が、一段声を張った。
机の脚が、一斉に床を擦って動き始める。
私はその音を、皮膚で受け止めた。耳ではなく、背中で。椅子を動かす摩擦音が四方から近づいてきて、私の机の上を通り抜けていく。前の席の女子たちが、振り返らずに後ろの誰かと組み始めた。右隣の男子は、前の列の仲間に声をかけて、椅子を斜めに引きずっていく。
——あ。
気づけば、私の周囲には、四辺のうち三辺、誰もいなかった。
教室の中央では、もう意見交換が始まっている。誰かが笑い、誰かが「それって違くない?」と甲高い声を上げた。私は机の縁を、指先で一度、きつく握る。爪の先が、木の小さなささくれに触れた。その痛みの方に、意識を逃がす。手首の内側、薄い皮膚の下で、脈がとくとくと速まっているのが、自分でも分かった。喉の奥が、糊でも塗られたみたいに、うまく動かない。視界の端では、隣の班の女子が、私の方をちらりと見て、すぐ目を逸らした。その目の動きは、ほんの一瞬だったけれど、私の身体の中に、小さな針のような形で、ちくりと残った。
先生が、教卓の前で気まずそうに立ち尽くしている列を見つけて、ああ、と頷いた。
「じゃあそこ、余った人同士、三人でやって」
私と、窓際の前から二番目の男子と、廊下側の一番後ろの女子。三人とも、誰とも目を合わせられないまま、机を動かす振りだけをした。私は椅子を十センチだけ前に出して、それでもう、意見交換の体裁は整ったことにした。
——中二の、あの日も。
ふいに、喉の奥に、湿った布の味が蘇った。
中学二年生の、五月。ちょうど、このくらいの季節だった。社会の授業で、同じような班分けがあった日。私はあの日、一度だけ、勇気を出して、隣の班の子に自分のノートを差し出した。班のテーマについて、夜、家のちゃぶ台の上で、付箋を貼って、図まで描いた、B5のノート。蛍光灯の下で、母がテレビを小さな音で点けながら、お茶を淹れてくれた。その湯気の匂いと、新しい付箋のインクの匂いが、混ざり合って、ノートの紙の上に染み込んでいた。明日、きっと喜んでもらえる——そう思っていた、あの夜の自分の指先の、あたたかさだけは、今でも覚えている。
「ねえ、これ、参考にしてもらえたら……」
消えそうな声で、そう言った。
その子は、一瞬、笑顔を浮かべた。浮かべた、ように見えた。けれど次の瞬間、それは笑顔ではなかった。ノートを受け取る手の指先が、ほんの半センチだけ、後ろに引かれた。半センチ。たった半センチの距離が、私と世界の間に、越えられない堀を引いた。
「——あ、ありがと、でも、うちの班、もう終わってるから」
違う班の、別の女子が振り向いた。
「何、あの子、また勝手にノート持ってきてんの?」
「ちょっと、静かにしなよ」
でも、その「静かにしなよ」は、私を庇う声じゃなかった。先生に聞こえないようにしてよ、という意味の方の、静かにしなよ。二人は顔を見合わせて、肩を震わせた。私のノートは、差し出したまま、空中に浮いていた。十秒か、二十秒か。私はその時間を、自分の呼吸のどこかで止めながら、受け止めていた。差し出した腕の筋肉が、じわじわと重くなっていくのを、他人事のように感じていた。引っ込める勇気も、そのまま固まり続ける勇気も、どちらも等しく足りなかった。
教室の湿度。蛍光灯の白さ。チョークの粉が、窓からの光の筋の中で、ゆっくりと降っていた。あの光景だけが、今も身体の奥で、しつこく再生される。
最終的に、ノートを受け取ってくれたのは、別の、人の良さそうな女子だった。けれどその子は、ページをめくる前に、まわりの空気を察した顔をして、そっと私にノートを返してきた。
「あとで、見るね」
「あとで」は、とうとう来なかった。
——あの日から、私は、二度と差し出さないと決めた。
ノートも、声も、好意も、なにも。
「高橋さーん、そっちの班、意見、ある?」
先生の声で、私は現実に引き戻された。
「あ、はい、えっと……」
私は口の中で、言葉をいくつか転がして、一番無難なものだけを選んで、差し出した。隣の男子が、ほっとしたように頷いた。廊下側の女子は、何も言わずに、頬杖の角度だけを変えた。先生は満足そうに、次の列に移っていった。
意見交換の時間が終わったとき、私の掌には、爪の形の赤い跡が、四つ、並んでいた。
午後の授業は、ほとんど記憶に残らなかった。
放課後のチャイムが鳴ったあとも、私はいつも通り、教室が空になるのを待った。誰もいなくなったことを、背中で確かめる。蛍光灯の、かすかにジリジリいう音だけが、天井から降ってきた。
私は、机の中に手を入れて、スケッチブックを引き出した。
表紙の角の、昨日の潰れ。親指の腹で、もう一度なぞる。元には戻らない。戻らないのに、なぞる。
鉛筆を握る前に、私は窓の外を見た。
グラウンドの向こう、部室棟のさらに奥に、古い煉瓦造りの校舎の屋根が、ほんの少しだけ見える。旧校舎。三年前から使われていない、立ち入り禁止の、北棟のさらに北。私の毎朝の通学路からは、角度的に、屋根の半分と、二階の一部の窓しか見えない場所だ。
去年の冬、あの校舎の三階、突き当たりの窓枠だけが、塗り直された。
私は知っている。誰も気づいていない。けれど、私だけが知っている。
スケッチブックを開いた。
北棟三階の絵の、隣のページ。昨日、長い肩のラインの、輪郭だけを描いた、あの人の絵。私はそのページを、指でそっと撫でて、素早くめくった。今日は、別のページ。
旧校舎の、二階の廊下。一度も足を踏み入れたことのない、けれど、外から見上げたときの、窓の並びだけは全部覚えている、あの廊下。私は鉛筆の先を、紙の真ん中に置く。
最初の一本目の線は、いつも、少しだけ震える。
けれど、二本目からは、震えなくなる。
窓枠の、格子の影。廊下の床の、古い板の継ぎ目。壁の、剥がれた漆喰のひび。そして——突き当たりの、閉ざされた扉。私はその扉を、今日、初めて描いた。正確には、描けると思って描いたわけではなかった。鉛筆の先が、勝手に、扉の輪郭をなぞっていた。
扉の上には、木製の古い札が掛かっていた——はずだ。
はず、と思っただけで、私はそんな札を、実際には見たことがなかった。見たことがないのに、描いている。その違和感が、指先に、じんわりと冷たい汗として滲んだ。
描き終えたとき、窓の外は、夕方の終わりの、いちばん濃い橙色に変わっていた。
机の上に、今朝の配布物が広げたままなのを、私はやっと思い出す。昨日の「希望調査」と、同じ紙。担任が今朝、念を押した。
——明日の朝、回収します。くじ引きは、午後のホームルームで。
くじ引き、という三文字が、紙の上で、まだ私を待っていた。
私はスケッチブックを閉じて、鉛筆を机の縁に置いた。閉じた表紙の上に、夕日の最後のひと筋が、斜めに落ちる。描いたばかりの扉の輪郭が、紙の厚みの向こうで、まだ、かすかに、こちらを見ているような気がした。
廊下の、ずっと遠くから、誰かの足音が近づいてきた。
体育館の方から来て、昇降口の方へ遠ざかっていく、少しだけ歩幅の長い、上履きの音。
私は、動けなかった。
スカートのひだを握った指の、掌の湿り気だけが、机の木の冷たさを、静かに返してきた。