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半径ゼロメートルの私と王子様

第1話 第1話

第1話

第1話

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シャープペンの芯が、机の木目に引っかかって折れた。

四月。新しいクラスの、窓際の一番後ろの席。私は折れた芯先を指の腹で拾って、制服のスカートのひだにそっと押し込んだ。ノートには何も書いていない。書く必要もない。担任の声は、教室の前から私の耳までたどり着く前に、クラスメイトの笑い声に呑まれて散っていく。

机の表面には、去年の三年生が残していった彫り傷がある。Aと、消しかけたハートと、誰かの誕生日らしい数字。私はその傷を、シャープペンの先で、何度も撫でる。芯は出していない。ただ、金属の先端を木目に滑らせる感触だけが、私の指を落ち着かせた。

「ねえねえ、聞いた? 三年の黒瀬先輩、今年も生徒会だって」

前の席の女子が、隣の席の女子に身を乗り出す。机の脚が床を擦って、小さな悲鳴みたいな音を立てた。

「うそ、ちょっと廊下、廊下」

椅子が一斉に引かれる。三人分のスカートが揺れて、シャンプーの甘ったるい匂いが鼻先をかすめた。私は息を止める。彼女たちが廊下に流れていく数秒のあいだ、私という存在をうっかり見つけてしまわないように。

ドアの向こうで、女子の歓声が一段高くなった。誰かが「うそ、近い近い」と笑い、誰かが「ちょっと、押さないでよ」と弾けた声を上げる。

——来たんだ。

私は窓の外に視線を逃がした。けれど、本当は窓ガラスに映る廊下の方を見ていた。

私の席からは、廊下の半分が見える。磨りガラス越しの影でも、黒瀬碧だけは分かる。背が高くて、肩のラインがまっすぐで、歩幅がほかの男子より少しだけ長い。今日は新入生を案内しているらしく、誰かに何か言うたびに、引率の女子の影が小さく頷いていた。

その影が窓の前を通り過ぎる一秒のあいだ、教室の空気の濃度が、ほんの少し変わった気がした。

私はノートをそっと閉じる。代わりに、膝の上に伏せていた古いスケッチブックを、机の縁の影で少しだけ開いた。

ページの真ん中に、鉛筆で描きかけの校舎がある。北棟の三階、突き当たりの窓。あそこは去年の冬、急に窓枠の塗装が塗り直された場所だ。誰も気づかなかった。私だけが、毎朝の通学路の途中から、毎日見ていた。塗料の白さだけが、ほかの窓枠より、ほんのひと目盛りだけ新しい。

——どうして、あそこだけ塗料の色が違うんだろう。

思いついた疑問を、そのまま絵にする。それが、中学のあの日からの、私の唯一の癖だった。

人と話せない。目を合わせられない。けれど、誰も見ていない場所のことは、なぜだか覚えていられる。窓枠の塗り直し。階段の踊り場の、剥がれたタイルの欠片。職員室の裏手にある、用途のわからない扉。誰かが消したいと思った跡だけを、私の鉛筆は勝手に拾い集めていた。

中学の二年生のあの日、私が一度だけ「関わろう」として失敗したとき、教室で笑われた声の質を、私はまだ覚えている。湿った布で口を塞がれたみたいな、息のしづらいあの空気。あれ以来、世界は半径ゼロメートルで足りる、と決めた。私の鉛筆だけが、私のかわりに、世界の隅っこを歩いてくれればいい。それだけで、私は息をしていられる。

「えー、じゃあ次、文化祭の実行委員、決めまーす」

担任の気の抜けた声が、私を現実に引き戻した。プリントの束が、机から机へと回ってくる。指先で受け取ったコピー用紙は、わずかに湿っていた。安い紙の、酸っぱいような匂い。私はその匂いが、嫌いじゃない。

黒板に、五月の日付と「装飾班・広報班・運営班」の文字が並ぶ。私はそのどれにも丸をつけないつもりだった。希望調査の欄に、シャープペンで小さく「特になし」と書いて、折って、机の中にしまう。誰も読まない返事。

「人数足りないとこは、こっちでくじ引きで決めるからねー」

担任が黒板の端で、同じ調子で続けた。くじ引き、という言葉が、教室の空気の上を、私の頭に触れずに通り過ぎていった——はずだった。前の席の女子の一人が振り向いて、同じ列の誰かに小さく舌を出している。私はその視線が、私には絶対に向いてこないことを、確信していた。

ホームルームが終わって、教室がほどけていく。

椅子を引く音、ファスナーの音、誰かの「カラオケ行こ」という弾んだ声。それらが私の頭の上を、雲みたいに流れていく。私はその雲が全部出ていくのを待ってから、最後に立ち上がった。

鞄を肩にかけて、机と机のあいだの細い影を縫うように、廊下に出た。窓の外、グラウンドの桜は、もうほとんど散りかけている。風が吹くたび、花びらが校舎の壁に張り付いて、すぐに地面へ落ちていった。

下駄箱までの廊下は、人で混んでいた。

新入生らしい一年生たちが、誰かを取り囲んで歩いている。先頭に、紺色の上履きの三年生。背が、頭ひとつ分、高い。

——あ。

身体が反応する前に、足が竦んだ。

道を譲ろうとして、半歩、横にずれた。けれどタイミングが悪かった。同じ方向に避けてきた誰かと、肩がぶつかった。鞄の角が、相手の腕にこつんと当たる。スケッチブックが、鞄の中で重く揺れた。

「ごめん、大丈夫?」

頭の上から声が降ってきた。

低い、けれど刺さる声じゃない。湯気みたいに、ふわっとほどけて消える声。私は反射的に俯いた。視界の端に、白い男子の上履きの爪先と、青いライン。三年生。校章の刺繍の糸が、ほつれずに整っている。

「あ、ご……ごめん、なさい」

唇の裏側に張り付いた声を、なんとか押し出した。心臓が、肋骨を内側から殴っている。舌の付け根に、薄い鉄の味が滲んだ。

ほんの一瞬、目線の高さの違う影が、私の顔を覗き込もうとした気がした。けれど私は俯いたまま動かない。動けない。スカートのひだを、指が痛いほど握りしめている。やがて影は、半歩、横へ流れた。

「気をつけてね」

その短い一言だけを残して、上履きは遠ざかっていった。

一、二、三。

四歩目で、その人の靴音は、廊下の女子たちのざわめきに溶けて消えた。

私は壁に手をついて、ようやく息を吸った。指先が冷たい。掌には、鞄の持ち手の縫い目の痕が、くっきり残っていた。

——たぶん、あの人だ。

たぶん、と思っただけで、確かめなかった自分が情けなかった。確かめなくていい、と決めている自分の方が、もっと情けなかった。

半径ゼロメートル。

中学のあの日から、私が自分に許した世界の広さ。誰にも踏み込まない。誰にも踏み込まれない。それでよかった。それでいいはずだった。

下駄箱で靴を履き替える。スケッチブックは、鞄の中で、いつもより少しだけ重い気がした。革の持ち手が、まだ熱を持っているように、掌に張り付いてくる。

校門を出て、いつもの帰り道を歩いた。

国道沿いの歩道。コンビニの前で、知らない学校の男子が二人、肩をぶつけ合いながら笑っている。私はその脇を、影みたいに通り抜けた。アスファルトの匂いと、まだ残った桜の甘さ。空はもう、夕方のいちばん早い段階の、薄い橙色になり始めていた。

歩きながら、さっきの「気をつけてね」の声を、頭の中で何度も再生してしまう自分に気づいて、私は爪を、掌の真ん中にぐっと食い込ませた。痛みが、声をかき消す。それでよかった。覚えてはいけない声だった。

家に帰って、自分の部屋の机の前に座る。

鞄からスケッチブックを取り出すとき、表紙の角がすこし潰れているのに気づいた。さっきの一瞬、肩がぶつかった衝撃の名残だ。私はその潰れを、親指の腹で何度かなぞった。元に戻るはずもないのに、なぞっていれば、戻る気がした。

北棟三階の絵の隣のページ、まっさらな紙の真ん中で、なぜか先に手が動いた。鉛筆の先が、紙の上で迷わずに線を引いていく。

長い肩のライン。少しだけ長い歩幅。磨りガラス越しの、輪郭だけの誰か。

描き終えて、私は手を止めた。

これは、誰だろう。

分かっている。分かっているけれど、その名前を、私は紙の隅に書くことができなかった。代わりに、絵の余白に、小さく、ひとこと書き足した。

——『関わらない』。

書いたあと、鉛筆の先で、自分でその文字を二重線で消したくなった。けれど消さなかった。消したら、それは「関わるかもしれない」と認めることになる。私はその余地を、自分に与えるつもりはなかった。

スケッチブックを閉じて、抽斗の一番奥に押し込む。木の抽斗が、固い音を立てて閉まった。

私の世界は今日も、半径ゼロメートルで完結している。

そのはず、だった。

机の上に、いつのまにか、さっき折ったプリントが一枚落ちていた。鞄から零れたらしい。私はそれを広げる。希望調査の欄に書いた「特になし」の文字が、開け放した窓からの夜風で、かすかに揺れていた。

——文化祭、実行委員はくじ引きで決めます。

くじ引き、という三文字だけが、やけに鮮明に、私の目に飛び込んできた。

外で、桜の最後の花びらが一枚、窓のサッシに張り付いて、ゆっくりと滑り落ちていく音が、聞こえた気がした。

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