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甘夏の匙、十二年目の手紙

第3話 第3話

第3話

第3話

本文のみを出力します。

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片付けは三日目の朝を迎えていた。

天井の蜘蛛の巣を、柄の長いはたきで落としていた。埃が、光の帯の中をゆっくり斜めに横切って落ちていく。東に面した台所の窓が、ちょうどいちばん明るくなる時刻だった。ラジオをつけようかと迷って、結局つけなかった。沈黙のほうが、この家には合っている気がした。

祖母の古いエプロンを、勝手に借りて腰に巻いていた。胸当ての布地に、醤油のはねた染みが三つ、年の離れた三兄弟のようにきれいに並んでいた。染みを指の腹で辿る。祖母が立っていた高さを、自分の腰で測るようにしていた。身長は、祖母とほとんど同じだった。母より、少し高い。父より、ずっと低い。家族の身長の目盛りが、このエプロンの紐の長さに、全部刻まれているような気がしてくる。

台所のテーブルの上に、昨日の封筒と、差出人のない葉書が、並べて置かれたままだった。朝起きて、どちらにも手を触れていない。触れるのを、今日に持ち越している。持ち越しても、指の冷たさは変わらない、ということを、もう、私は知っていた。

門の向こうで、郵便配達のバイクの音がした。正午前の、いつもの便だ。二日前に一度だけ、電気の検針票が入った。昨日はなかった。バイクの音が家の前で一度、妙に長く止まった気がした。エンジンの音が、門柱の陰で、呼吸を整えるように、ぐうっと低くなる。それから、また通り過ぎていった。

私は、はたきを流しの横に立てかけた。エプロンの裾で、空いていない手の汗を、形だけ拭った。玄関に、歩いていった。

【展開のところから】

廊下の床板は、昨日より一段、素直に鳴った。三日目の家は、少しずつ私の重さに慣れはじめている。

玄関の土間に、郵便受けの口から、白いものが覗いていた。今度は、はっきりと白かった。封筒の角が、鉄の投函口からはみ出して、たたきのほうへ、一度だけ、ぱさ、と落ちた音を、私は廊下の途中で聞いた。聞いてから、歩幅を、ひとつぶん遅くした。急いで行って、指が震えたら、封筒の紙にしわがつく。しわをつけたくない、と思ってしまっている自分が、もう、その差出人に何かを返してしまっている気がした。

拾い上げた封筒は、昨日より、ほんの少し、厚みがあった。

宛名は、また「佐倉美咲様」。十二年前の、東京の住所ではなく、この祖母の家の住所が、番地まで正確に書かれていた。誰かが、私がここにいることを、昨日の段階で、もう知っている。

裏を返した。差出人の欄は、また空白だった。けれど、空白の上の、紙の表面に、ごく薄い、鉛筆の跡のようなものが残っていた。書きかけて、消されている。指を近づけると、消しゴムの擦れた繊維が、まだ少し立っていた。書こうとして、書くのをやめた誰かの、ためらいが、紙の繊維の上に、うぶ毛みたいに残っていた。

台所のテーブルに戻って、椅子に座らず、立ったまま、封筒の口に指を入れた。封はされていない。昨日の封筒と、同じだった。便箋は、昨日のように一枚ではなく、二枚、折り畳まれて入っていた。うち一枚は、便箋の紙が、明らかに、古い。黄ばみというよりも、糊の気配が抜け切った、乾いた薄茶色。角が、わずかに反り返っている。紙の手触りだけで、十年は越している、と指が先に答えを出した。

もう一枚は、白に近い便箋だった。こちらは、新しい。

古いほうを、先に開いた。

冒頭に、「洋一へ」と書かれていた。

兄の名前だった。

二行目に、日付があった。平成二十年、十月。つまり、十八年前。私が、二十歳になる直前の年だ。母は、その年の冬に、病を告げられ、翌々年の春に死んだ。この手紙は、母が、病を知るより前の秋に、兄に宛てて書いたものだった。

文字は、間違いなく、母の字だった。「げ」の下が、右に流れる。「お」の結びが、最後だけ少し跳ねる。台所の壁に、毎週ピンで留め直されていた献立メモの、あの筆跡。

兄宛ての手紙が、なぜ、十八年を越えて、私の元に届いているのか。

紙を持つ手が、指先から、順番に冷えていった。手首のほうへ、冷たさがゆっくり登ってきて、肘の内側で、一度、止まった。

便箋を、テーブルの木目の上に、そっと広げた。折り目が四つあった。四つとも、深い。何度も開かれ、何度も閉じられた便箋の折り目だった。

【転機のところから】

息を、意識して整えた。整えないと、最初の一行が、文字として入ってこない気がした。

——洋一へ。 ——謝らなければならないことがあります。

そこで、指先の冷たさが、手首を越えて、肘の内側から、胸のほうまで、一息に上がってきた。

私は、椅子の背を掴んで、座った。膝の力が、音もなく抜けた。抜けたのがわかるくらい、ゆっくりと抜けた。冷たさが胸の内側まで届いたのに、肺のあたりだけは、なぜか、少し熱かった。熱のかたまりが、冷気のあいだで、小さく、丸くなって、揺れていた。

続きを、目だけで追った。声にも、口の中にも、出さなかった。

——この手紙は、あなたが二十歳になったら、渡してもらおうと思って、書いています。それまでは、預かってくれる人に、預けておきます。もし、私が間違えて、先に逝ってしまっても、あなたの二十歳の誕生日に、必ず渡るように、お願いしてあります。

兄の二十歳。十八年前の、あの秋。母が書いた時点で、兄はまだ、十九になったばかりだったはずだ。母は、兄の二十歳のために、前倒しで、謝罪を、紙に用意していた。

——あなたに、黙っていたことが、ひとつ、あります。美咲のことで、です。

美咲のことで、と。

私は、便箋の、そこから先を、読まなかった。読まなかった、というより、目が、その一行の上で、止まってしまった。動かすと、何かが壊れる気がして、止まったまま、視線だけを、そろそろと、便箋の端へ、滑らせた。便箋の余白は、白かった。白さに、一度、逃げた。

もう一枚の、新しいほうの便箋を、震える指で、広げた。

こちらは、二行しか、書かれていなかった。同じ、母の字だった。

——洋一には、渡せませんでした。 ——だから、今、あなたに渡します。

「今」という一文字の、「ん」の結びが、ほんの少しだけ、かすれていた。かすれは、インクの古さではなかった。書いた手が、途中で、止まったような、そんなかすれ方だった。

母は、五年前に、死んだ。

死んだ人が、「今」と書けるはずが、なかった。

それでも、私は、この二行を、母が書いたものとして、読んでいた。筆跡の一点一画を、母以外の誰が書けるのか、私は知らなかった。兄の字ではない。父の字でもない。祖母の字でもない。

椅子の上で、私は、両手の甲を、自分の膝の上に伏せた。そのまま、額を、便箋の手前、テーブルの木目に、そっと、預けた。テーブルの木は、ひやりと、額の熱を吸った。木の導管が、こめかみのあたりで、ほんの微かに、木の呼吸のようなものを、返してきた気がした。気のせいだと、もう、思わなかった。気のせいではない何かが、この家には、確かに来ている。

誰が、この二通を、郵便受けに入れたのか。 誰が、十八年前の封筒を、この家に持っていたのか。 兄は、なぜ、これを受け取れなかったのか。 母は、兄に、私の、何を、黙っていたのか。

問いが、四つ、テーブルの木目の上に、等間隔で、並んだ気がした。どれも、私が、ひとりで、答えられるものでは、なかった。

顔を上げた。頬に、木目の浅い跡が、二本、残っていた。

【引き】

エプロンの裾で、頬の跡を、一度、拭った。拭いても、跡は、しばらく、消えなかった。

便箋を、二枚とも、古いほうに合わせて、丁寧に、四つ折りに戻した。封筒に収めて、昨日の封筒と、葉書の横に、三つ目として、並べた。白い紙が、三枚。差出人のない家族の、席のようにも見えた。

立ち上がって、エプロンを、ゆっくり、外した。

坂の上の、錆びたクレーンのことを、私は思い浮かべていた。兄の営む、小さな造船所。兄の、二十歳の秋に、届かなかった手紙。「美咲のことで、謝らなければならない」と書いた、母の字。

スマートフォンの機内モードを、指の腹で、解いた。画面の右上で、電波のマークが、しばらく探すように揺れて、やがて、静かに、一本、立った。連絡先の、古い番号の並びを、一度、下まで、滑らせた。兄の名前の上で、指が止まった。押す、まえに、私は、もう一度、テーブルの上の、三枚の白を、振り返った。

柿の枝が、今日は、揺れていなかった。 風は、たぶん、家の中に、入ってきてしまっている。

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