第3話
第3話
茶色い封筒を、すぐには開けなかった。
留守電の赤いランプが、十秒に一度、規則正しく点滅している。振袖を元の畳紙に戻し、真田紐を結び直す手が、最初の一結び目で滑った。いつもより指先が乾いている。湯を沸かして茶を淹れ直す、それくらいの間をおいた。
裁ち板の端に置いた封筒を、ようやく手に取る。ハサミで封を切った。中には、白い紙が一枚、二つ折りで入っていた。開く。
「ほどほどにしておくのがよい」
手書き。一行だけ。ボールペンで、筆圧が強い。「ほどほど」の「ど」の濁点のあたりで、紙にわずかに穴が空いている。署名はない。封筒の裏にも、表にも、何一つ書かれていない。文字は右下がりで、少なくとも女ではないだろうと、なぜかそう思った。
机に置くと、紙がかすかに反る。
胸の奥で、心臓が一拍、遅れて戻る。何に対しての警告なのか、まだ分からない。分からないまま、畳紙のほうへ視線を戻した。畳紙は何も言わない。ただ、紐の結び目が、さっき私が結んだ形で、静かに重ねて置かれている。
留守電の再生ボタンを押した。ピッと電子音がして、送信日時が流れる。今朝の七時過ぎ。
「……先日の件、まだでしょうか」
同じ声だった。三日前の男と、同じ低さ、同じ訛りの薄さ。前回より、わずかに急いでいるようにも聞こえる。「お忙しいとは思いますが」と、型通りの言葉が続き、それで切れた。名前は、やはり名乗らない。
受話器を戻す手の甲に、自分の吐いた息がかかる。冷たかった。
振袖を、もう一度畳紙から出した。
今度は、畳の上にゆっくりと広げる。畳半畳では足りない。背縫いの線を基準に身頃を伸ばし、袖を左右に広げ、裾を手前に引く。椿の白が、蛍光灯の下で目の奥を刺す。昨日と同じ色なのに、同じようには見えない。
落款、と祖母が呼んでいたものを、探していた。
この仕事は祖母のものではない、と、背紋に触れた瞬間、昨日、指先で察した。だとすれば、どこか別の場所に、仕立てた人、あるいは描いた人の印が入っているはずだった。職人の落款は、普通、表には出ない。胴裏の端、袖の振りの裏、八掛の衿先──目立たない場所に、朱か墨で、小さく入れる。
袖から始める。左の袖の振り口を返し、内側の縫い代を指で押さえ、裏を明るみに引き出す。布の端を折り返しながら、爪の先で糸の目を一つずつ追っていく。
なかった。
右の袖。同じ手順。縫い代に沿って、指の腹を滑らせる。
指先が、わずかな凹凸を拾った。
袖付けの縫い代の、さらに奥、裏地と表地の重なるほんの一センチに満たない余りの布地に、墨でごく小さく、二文字。草書で、判読できない。崩し方が古い。かろうじて、上の字は「氏」か「比」か、下の字は「堂」か「童」か、どちらとも読めた。印ではなく、筆書き。祖母の字ではない。祖母の先代でもない。もっと前の手だ。
スマホを取り出した。裁ち板の蛍光灯の真下へ袖を運び、落款の部分を指で押さえて、文字が浮かぶ角度を探る。画面の中で、二文字はかすかに滲みながらも、黒く映った。何枚か撮り直す。接写、引き、斜光。
カメラを閉じ、祖母の古い住所録を、注文帳と同じ引き出しから引き出した。
祖母は携帯を持たなかった人だ。連絡先はすべて、藍色の表紙のこの住所録にある。関東一円の和装関連、反物問屋、染屋、呉服商、紋章上絵師、裏地専門店。五十音順ではなく、祖母の独自の並び順で、時に屋号だけ、時に名字だけで書かれている。
「室屋」の文字を、指で探した。
仁平さん、と祖母が呼んでいた人だった。日本橋の古い呉服屋の、若い頃からの取引先。最後に電話で話した声は、たしか、十年近く前だ。母の弟の結婚の話をしているとき、祖母が電話の向こうで、ふ、と短く笑っていた。
番号は変わっていないだろうかと、桁を目で確かめながら、自分の端末に写す。
写真を添付し、本文を打った。長くは書かなかった。
「祖母・紋子の孫です。祖母の納戸に古い振袖があり、落款らしき筆跡が出てまいりました。もしご存じでしたら、お手すきの折にご判別いただけませんでしょうか」
送信の指が、少しだけ遅れた。送ってしまえば、もう引き返せない、と、なぜそう思ったのか、自分でもよく分からなかった。
送ったあと、端末を裁ち板に伏せた。板の木目のあたたかさが、掌に伝わる。祖母の字で「令和」と表紙に書かれた注文帳の、あの最後の一行──「黒羽二重羽織 一領 急ぎ」、客名空白が、黒羽織の袖の針先と、藍の振袖の落款と、三つ、頭の中で一本の線に繋ぎ直される気がした。繋がっている、と、指より先に、どこかが言った。
湯呑を手に取る。茶はすっかり冷えていた。一口含む。渋い。飲み下して、もう一口。
返信は、思ったよりも早く来た。
一時間ほど経ったころか、袖を畳み直す手を止めさせたのは、端末の短い振動だった。画面を起こす。見覚えのない番号からの、メールではなくショートメッセージだった。
「御祖母様の紋子様には、生前ひとかたならぬご恩を頂戴しておりました。孫様、改めてお悔やみ申し上げます。お送りいただいた筆跡、少し震えながら拝見しております。失礼を承知で、まずご確認ください。この振袖、共衿の裏に、白糸のしつけが一針、斜めに残っていないでしょうか」
読み下すより先に、指が動いた。畳紙を再び開き、衿先を繰る。共衿の裏──あった。生成りの白糸が一針、斜めに、わざと抜かないままにされている。しつけ糸の残し方としては、奇妙な位置だった。
もう一通、続けて入る。
「残っていましたら、この振袖、ほぼ間違いなく、私どもが二十年前、ご依頼人様にお納めすべく、御祖母様にお仕立てをお願いしておりました訪問着の、片割れにございます。ご依頼人様は、同じ反物から訪問着一領と振袖一領の二領を、お誂えになりました。お嬢様のお仕度として」
さらに、三通目。
「訪問着のほうは、当時、先様のご自宅へお納めいたしました。振袖は、御祖母様のお手元で、最後の仕上げを残したまま、ご依頼人様のご事情によりお引き取りを頂戴できず、月日が経ちました。私どもも以降、出入りを止めましたゆえ、その先のことは、存じ上げません」
文字が、画面の上で滲む。滲んで見えたのは、私の目のほうだったと、少し遅れて気がついた。
「失礼を承知で、もうひとつお伺いいたします。御祖母様のご友人で、旧姓を──桐原、と申し上げる方、お聞き覚えはございませんでしょうか」
桐原。
指が、止まった。
覚えていた。はっきり覚えていた。旧姓。元夫の母の、旧姓だった。結婚の挨拶で初めて訪ねた日、仏間の鴨居の下に、元夫の祖父母の写真と並べて、「桐原家之墓」と書かれた古い位牌の写真立てが、ぽつんと置かれていた。元夫の母は、それを見ていた私に気付くと、「ああ、それね、私の実家の方」と、ごく短く言って、話題を変えた。十年の結婚生活で、桐原、という家の話を、あの家の食卓で聞いた記憶は、ほとんどない。
振袖が、畳の上で、白い椿をこちらに向けている。
息を、一度、長く吐いた。吐いたあと、吸う気配が、自分の肋骨のあたりで遅れた。
椿の白を、指の腹でそっと撫でた。昨日、同じようにして撫でたときとは、手触りが違う気がした。糸は同じはずだった。違うのは、たぶん、私の指のほうだ。
端末を手に取り、連絡先を開く。「元義母」と書き直して残しておいた番号を、画面に呼び出した。結婚した十年のあいだに、一度も変わっていない番号。
掛ける前に、祖母の手紙を、もう一度読んだ。
「あの人に返しなさい。わたしの手では、間に合わなかった」
「あの人」が誰を指すのか、畳紙の下の紙切れは、今日までずっと黙っていた。その黙りが、いま、薄く崩れた音を立てた気がする。
振袖を畳紙に戻した。真田紐を、祖母の癖の結び目で結ぶ。手が、ほとんど震えなかった。
番号の上に指を乗せる。押さず、しばらく置いたままにした。工房の時計が、ちっ、ちっ、と進んでいる。
裁ち板の端で、先ほどの警告の紙切れが、蛍光灯の下でかすかに反り返っていた。