第2話
第2話
留守電を、もう一度巻き戻して聞いた。
三度目だった。「例のものは、出来ておりますでしょうか」という男の低い声が、布団の中で何度も耳の奥へ戻ってくる。朝の四時半、外はまだ濃い青で、工房の梁の木目と影の境目が、目を凝らしても分からない。襖越しに、裁ち板の上の黒羽織の気配だけが、常夜灯の鈍い光で薄く浮かんで見える。
布団を畳んだ。冷えた畳に足を下ろすと、踵の裏に小さな木屑がひとつ張り付いた。爪で剥がし、暗がりの中で指の腹に乗せ、ふっと息を吹きかける。祖母が毎朝五時に私を叩き起こしていた時間だ。体が覚えている、というのは、こういうことを言うのだろう。
湯を沸かす。茶葉は替えずに、昨日の湯呑にそそいだ。茶渋の三本の縦筋に、熱い湯気が白く滲んでいく。喉を通る茶は、渋くて、ひどく薄かった。
裁ち板の前に座ってみる。袖付けの途中で止まった針は、昨夜と同じ場所に刺さっている。引き継ぐ、と昨夜、声に出してはみた。けれど、すぐに針を取る勇気は、まだ私の指の中になかった。留守電の「お約束のもの」が、この羽織を指すのか、それとも別の何かなのか、分からない。分からないまま針を動かしたら、誰かの何かを、たぶん台無しにする。
三日、と自分に言い聞かせた。
工房の隅々まで掃除をし、祖母の道具と帳面を、一度すべて私の手で触り直す。どこに何があるのか、自分の指で覚え直すまで、針は取らない。仕事を引き継ぐというのは、たぶん、そういう順番だ。祖母は、手順を飛ばした仕事を、一番嫌った人だった。
初日は、表の作業場だけで終わった。
裁ち板の下の引き出しを、上から一段ずつ引く。小鋏、地べら、紋書きの筆、指貫、糸切り鋏。道具の一つ一つに、祖母の指の跡が、持ち手の漆の剥げ方として残っていた。右の親指と人差し指が当たる場所だけが、木地の白に近い色まで削れている。糸箱の仕切りを開けると、絹糸の束が色別に並び、端がわずかに解けた束が一つだけあった。黒のしつけ糸だ。指で摘むと、古いせいか、少し脆い気がした。
湯のし釜の水を抜き、鏝台の焼け焦げを磨く。床板と裁ち板の境目に溜まった糸屑を、竹箸の先で一本ずつ拾う。昼を抜いた。気がつけば外は藍色に落ち、手の指先がかじかんで、関節が固くなっていた。夕飯は、台所で立ったまま、炊いておいた米に梅干しを乗せて食べた。米を噛みながら、一度だけ、元夫の好きだった味噌汁の具の組み合わせが頭をよぎり、そのまま湯呑の縁で唇を濡らして、忘れることにした。
二日目の朝、奥の納戸に入る。
ここは祖母がかつて反物置きにしていた、三畳もない板の間だ。私が最後に中を見たのは、高校三年の冬だったと思う。襖の建て付けが歪んで、ひと息ではすんなり開かない。両手で少し持ち上げるようにして引くと、乾いた畳紙の匂いが、ぶつかるように顔にかかった。埃が舞い、蛍光灯の光の筋を横切る。小さく咳をして、顔の前を手で払う。
奥の壁際に、桐箪笥が立っていた。
祖母の嫁入り箪笥ではない。それよりひと回り古い、下段の金具が黒ずんで、引き手の穴の周りが、何十年分の手の脂でわずかに艶を帯びている箪笥だ。祖母の母の代から引き継いだものだと、いつか聞かされた。四段。上から順に、夏物、冬物、祖母自身の着物、そして一番下の段は「人様からお預かりしたもの」専用だと、これも昔、一度だけ、祖母が開けて見せてくれたことがある。
「ここはな、生きとる間に返せなんだもんを、しまっとく段よ」
祖母はそう言って、薄く笑った。笑ったのに、目だけが笑っていなかった気がする。あのときの祖母の声だけが、二十年越しに、妙にはっきりと耳の奥に残っていた。
上段から順に、畳紙を取り出した。
祖母の夏の紗の単衣。鼠色の糸で繕いの当てられた背縫い。冬の大島。裾に、一粒だけ白い糸がまぎれている。祖母の黒留袖は、母が一度だけ袖を通したはずのもので、比翼の裏地に、母の字でごく小さく日付が入っていた。父方の祖父の葬儀の日付だ。
一段ずつ、畳紙を開いては畳み直し、また元の段に戻す。指がだんだん乾き、ささくれのひとつに糸が引っかかる。血は出ない。ただ、糸だけが、爪の側面に絡んで残った。気がつけば、二日目の日も暮れていた。私は、最下段を、意識的にあとに残していた。
三日目の昼前、最下段の引き手に手をかけた。
金具が、ほかの段よりも重い。引くというより、梃子のように手前に倒すようにして、ゆっくり抜く。中には、大判の畳紙が一つだけ、縦に寝かせて収められていた。上にも下にも、緩衝の余り布が詰められている。祖母が、他のどの段よりも丁寧に扱っていたのが、配置を見れば分かった。
畳の上に畳紙を下ろす。縛り紐は、生成りの真田紐。結び目は、祖母の癖の形をしていた。解く手が、最初の一結び目で少し止まる。続きを、指に言い聞かせるようにしてほどいていく。
畳紙の蓋を開けた瞬間、藍の色が、目の奥を刺した。
藍地に、白い椿。
振袖だった。
裾から肩へかけて、椿が一輪、二輪、三輪と散らしてある。白は、染めの白ではなく、絞りと刺繍の両方を併せた白だ。花芯だけが、ごく薄い生成りで、近くで見ると、花弁の縁が幽かに青味を帯びている。藍は、濃い紺に沈む直前の、いちばん深い藍。未婚の娘の晴れ着にしては、色がやや暗い。それが、かえって椿の白を、息を呑むほどに立たせていた。
指が震えた。震えたのを、自分の手の甲を反対の手でつかんで止める。
袖の振りは、二尺三寸ほどか。中振袖の寸法だ。胸元には、比翼の白が覗いている。裏地を繰ると、胴裏は緋色ではなく、淡い珊瑚の色で、これも古い時代の仕立て方だった。三十年前か、四十年前か、もしかすると、もっと前。
畳紙の内側に、祖母の字で、和紙が一枚貼り付けてあった。
四つ折り。開くと、祖母の筆ペンの、あの癖のある角張った字で、ごく短く書かれていた。
「あの人に返しなさい。わたしの手では、間に合わなかった」
それだけだった。日付もない。宛名もない。「あの人」が誰を指すのか、手がかりは一つも書かれていない。
紙を畳の上に置き、もう一度、振袖の襟元に目を戻した。
背の縫い目、背紋の位置に、紋が一つ入っている。
視線を近づけた。黒糸ではなく、藍より一段だけ濃い色で染め抜いた、抜き紋だ。花弁のようにも、波のようにも見える、複雑な輪郭。祖母の家の紋ではない。母方の家の紋でもない。私が十年のあいだ背中に背負っていた、嫁いだ家の紋でもない。
どこにも、見覚えがなかった。
一度、目をつむる。頭の中で、知っている家紋を、端から順に当てはめてみた。違い鷹の羽、丸に橘、五三の桐、蔦、藤、梶。どれとも違う。図鑑の最後の頁まで繰っても、出てきそうにない。
指の腹で、紋の輪郭をなぞる。縫い取りの糸は、祖母の手ではない、というのが、触れた瞬間に分かった。祖母の紋縫いよりも、少しだけ目が細かく、糸の張りが強い。おそらく、祖母の先代か、その一つ前の職人の仕事だった。
祖母は、これを仕立てた人ではない。預かった人だ。
「わたしの手では、間に合わなかった」
祖母の筆の文字を、もう一度読み直す。間に合わなかった、の下に、ごく細く、墨の滲みが一つあった。涙ではない。こぼした水でも、たぶんない。筆の払いの最後が、少し震えている。それだけだ。
畳紙を閉じる前に、椿の一輪を、指先でそっと撫でた。白糸の絞りは、経年で少し黄ばんでいたが、芯の白はまだ生きていた。
勝手口の方で、郵便受けの金具が鳴った。いつもの配達の時間よりも、少し遅い。心臓の一拍が、急に大きくなる。
玄関まで出て、新聞と、光熱費の封筒と、――茶色い、差出人のない封筒を一通、抜き取った。厚みはほとんどない。裏返しても、表にも、何も書かれていない。
工房に戻り、裁ち板の端に、その封筒を置く。振袖の畳紙と、祖母の手紙と、名のない封筒。三つが、蛍光灯の光の下で、それぞれに違う角度の影を落としている。
留守電の赤いランプが、いつのまにか、また点滅していた。