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祖母の針箱、最後の一針

第1話 第1話

第1話

第1話

鍵を回すと、錆びついた金具が指の腹に食い込んだ。三十八歳の冬、判子ひとつで妻でなくなった私の最初の仕事は、この重い引き戸を開けることだった。

段ボール三つを玄関の三和土に下ろす。頬の内側を噛んで、息を整える。半年前、祖母が逝った時からこの工房は閉じたままだ。扉の隙間から漏れ出す空気には、藍と糊と、冬の木の匂いが混ざっていた。祖母の匂いだ、と思う。ふと、目の奥が熱くなる。

電気を点ける。蛍光灯が二度瞬いてから、六畳の仕事場を白く照らした。裁ち板、湯のし釜、鏝台、大小の裁ち鋏。全てが半年前と同じ位置にある。掃除もしないでいたのに埃がほとんど積もっていないのは、母が月に一度通っていたからだろう。

裁ち板の上に、縫いかけの黒い羽織が一枚置かれていた。

指先で布をなぞる。正絹の、羽二重。祖母の手に幾度も撫でられたであろう表面は、絹特有の滑らかさの下にほんの少し、指紋の引っかかる感触があった。爪の先でそっと布を持ち上げると、黒は黒でも、光の角度で深い濃紺に転ぶ、上物の染めだった。こういう羽二重は、いまどき滅多に入ってこない。祖母が馴染みの問屋に頭を下げて取り寄せる類のものだ。袖付けの途中らしい。本返しの、祖母の癖の強い小さな針目が袖山から肩へ向かって走り、途中で糸を残して途切れている。糸切りばさみはすぐ横に、刃を開いたまま伏せてあった。

針が一本、布に刺さったままだ。

私はそれを抜かなかった。祖母の指がここで止まったのだと、そう思ってしまうと、動けなくなった。

そのままの姿勢で、どれくらい経ったか分からない。蛍光灯のジーという音だけが耳に残っていて、自分の呼吸の音が聞こえない。いつのまにか玄関先の段ボールの一つから、元夫の名字の入った宅配シールが私を見上げていた。剥がし忘れだ。爪の先で引っ掻くようにして剥ぎ取り、小さく丸めて土間に投げる。

「ただいま」

声に出してみたが、誰も応えない。分かっている。祖母は去年の五月、この裁ち板の前で意識を失って、二度と起き上がらなかった。八十四歳。「和裁の仕事は手の皮が薄うなるまでが花よ」と笑っていた人が、最後まで花のままで逝った。

離婚届を出したのは先週の木曜日だ。調停は一年近くかかった。十歳下のデザイナーと半同棲を続けた元夫は、最後の最後まで浮気を認めず、こちらが提示した証拠を「プライバシーの侵害だ」と言った。共有名義のマンションは諸々の計算の末に向こうに残った。慰謝料の金額を口にするのは、たぶん一生恥ずかしい。

段ボールは三つしかない。十年の結婚生活の残骸がこれだけだというのが、情けないようでもあり、清々しいようでもあった。

工房の奥、障子で仕切られた四畳半が私の部屋になる。中学から高校までの三年間、両親の仲が一番険悪だった時期、私はここに預けられていた。祖母はあれこれ説明せず、毎朝五時に私を叩き起こし、並んで針を運ばせた。

「手が覚えたことは、頭より長う残るんよ」

指先に、そのときの祖母の声の速度が、今も残っている。指の腹に針を構えさせ、「息を吐いて、吐き切ったところで一針」と、子守歌のように繰り返した人だった。

台所の流し台を覗くと、湯呑が一客伏せてあった。茶渋の染みが三本、すっと縦に走っている。たぶん、祖母が最後に使ったものだ。母もこれは片付けられなかったらしい。水道の蛇口を捻ると、ごぼ、と小さく詰まった音がして、錆色の水が先に出た。しばらく流すと透明になる。冷たい水を手のひらに受けた瞬間、頬の奥のこわばりが、ほんの少しだけ緩んだ。

コップに水を汲み、裁ち板の前に戻る。

黒羽織は、男物だった。身丈からして、たぶん百七十センチ前後の男のためのもの。背紋が一つ、すでに縫い取られている。目を近づける。違い鷹の羽。どこかで見た気もするが、見た気もする、の域を出ない。紋の縫い取りは、白糸のまつり縫いで、祖母にしては珍しくやや大ぶりだった。遠目で映える仕立て──つまり、近くで見られるよりも、一歩引いた場所から人目に晒される着物なのかもしれない、と、そんな考えがふと頭をよぎった。

こんな気候の時期に、祖母が急ぎの仕事を受けるとは思えなかった。去年の十月、祖母は膝を痛めて、新規の注文はもう断っていたはずだ。それなのに、これは――

机の隅に重ねられた注文帳を、指が勝手に探していた。

祖母の注文帳は、藍染めの表紙の、B5サイズの古いノートだった。表紙の隅に「令和」と祖母の字で書かれている。ぺらぺらめくる。反物の種類、客の名前、納期、採寸、裏地の指定。筆ペンの黒と、赤の丸付け。納品済みには二重線。

最後のページ、令和六年四月と書かれた欄の一番下に、一行だけ、他とは違う筆致の書き込みがあった。

「黒羽二重羽織 一領 急ぎ」

客名の欄が、空白だった。

指を止める。今まで祖母が客名を書き忘れたことなど、一度もない。母方の遠縁や近所付き合いの仕立て直しであっても、屋号だけは必ず入れていた。それなのに、この一行だけが、名前のない依頼として取り残されている。

納期の欄には、数字の代わりに、小さな丸がひとつ。

丸は、鉛筆で書かれていた。筆ペンではなく、鉛筆。祖母は注文帳に鉛筆を使わない人だった。書き間違えても消さない、それが職人の帳面だと言っていた。なのに、この欄だけ、あとから消せる筆記具が使われている。

「……ばあちゃん、これ、どういうこと」

呟いて、自分の声のかすれに驚く。工房の壁の時計が、ちっ、ちっ、と進んでいる。夕方の五時を回っている。窓の外はもう紺色に傾き始めていた。

私は羽織をもう一度見た。針が刺さっているのは袖付けの途中、だいたい半分まで縫ったあたりで、あと少しで片袖が付く。祖母の仕事ぶりを知っていれば分かる。これを置いて倒れたのだ、と思う。つまり、祖母は誰かのために、名前を書かずに、何かを急いでいた。

引き渡す相手のいない仕立て物。

気がつけば、遠い昔の祖母の声が聞こえている。ある梅雨の夜、私がまだ十五で、祖母と二人で繰り返し反物を畳んでいたとき、祖母がぽつりと言った。

「仕立てたのに、渡せんかった着物が、この家には幾らかあるよ」

そのときは、意味が取れなかった。

「渡せないって、引き取りに来ない人がいるの」

「来ない人もおるし、こっちから返しに行けん人もおる」

祖母はそう答え、それっきり話題を変えた。畳の上に広げた藍色の反物を、祖母はいつもより丁寧に、端と端を合わせて畳み直していた。その手つきが、どこか詫びるようにも見えたのを、私はずっとあとになってから思い出した。

いまその言葉が、裁ち板の上で針を刺したまま、私を待っている。

元夫のことも、判子のことも、段ボールのことも、一瞬、どこかへ遠のいた。

祖母の眼鏡が、作業台の隅に畳んで置かれている。レンズに、細かい糸くずが二、三本、静電気で貼り付いていた。私は指の腹でそれを払った。払いながら、気がつくと、深く、長く、息を吐いている。

「分かった」

誰に言ったのか、自分でもよく分からない声だった。

「仕上げるから。私が」

裁ち板の木目が、蛍光灯の下でほんの少しあたたかく見えた。

その夜、私は段ボールを開けずに、工房の隣の四畳半に布団を敷いた。襖を開けておけば、裁ち板の上の黒羽織が、常夜灯の明かりで薄く見える。袖付けの途中で止まった針が、暗がりの中で一度だけ、小さく光った気がした。

寝る前に、工房の電話の留守番機能を確認する。祖母の古い電話は、赤いランプが一つ点滅していた。

再生ボタンを押す。

「――もしもし、こちら、お約束のものですが。例のものは、出来ておりますでしょうか」

知らない男の声だった。名乗りはない。録音日時は、三日前。落ち着いた低い声で、言葉の端に土地の訛りらしきものが薄くあるが、どこの訛りかは判別できなかった。「お約束のもの」という言い方が、ひどく慣れている。一度きりの客の言葉ではなかった。

天井を見上げる。工房の梁が、私の知っているいつもの木目で、私の知らないものを、まだたくさん隠していそうだった。

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