第3話
第3話
板戸の隙間から、白い光が一筋、畳の目に落ちていた。
蓮は、一睡もせぬまま朝を迎えていた。麻縄は未だ両の手首を縛り、血の瘡蓋が繊維へ貼りついている。剥がせば皮膚ごと持っていかれるであろう感触を、骨の髄で知っていた。口中に残る鉄錆の味を洗おうと水瓶の水を啜ったが、生温い水は舌の苔を重くしただけだった。格子窓の外で、鶏の一声が遠く響き、続いて城内のあちこちで板戸の開く音、木履の土を踏む音、誰かが濯ぎ水を捨てる音——清洲の城が、目覚めていく音であった。
懐の板は、まだ「四」を保っていた。昨夜から残量は一つも動いていない。機内の設定を徹し、画面の明度を極限まで落としたまま、蓮は眠らず、三つの披露の手順だけを己の瞼の裏に組み直し続けた。指を動かさず、眼だけで画面を辿る訓練は、基地局の夜勤で数知れず繰り返してきたものである。あの頃は、冷めたコーヒーを傍らにアラートログを潰したものだが、今は、掌の血の乾いていくのを数えながら、己の命の段取りを潰している。
板戸が乱暴に開かれた。昨夜と別の、若い侍が二人、枯木のような無表情で立っていた。
「殿が、お呼びじゃ」
縄を引かれた。喉輪の締まる角度は昨日より浅い。息ができる分、かえって侍の手の加減が、蓮の命の首輪を握っているのだと、首筋の皮で知らされる。
広間は、昨夜の家臣団がそのまま居並んでいた。眼の下に隈を浮かべた者もあれば、朝の冷気を鎧の下に吸い込んだばかりの者もある。誰もが蓮の入室を、牢の鼠が放たれたのを見るような、嫌悪と好奇の混ざった眼で追った。
上座の信長は、朝餉を既に済ませたらしく、脇の小皿に胡桃の殻が二つ、乾いた音で転がっていた。胡坐のまま、鉄扇の先で蓮の座すべき板の目を指した。
「そこに、膝を」
蓮は膝をついた。両手首の縄が、家臣の合図で解かれた。流れ止まっていた指先に、鋭い痺れが走る。
「見せよ」
それだけであった。蓮は一礼し、懐から板を引き出した。
広間の、誰かが息を呑んだ。
板一枚の、その薄さ。その四隅の滑らかさ。黒曜石を削ったようでもあり、磨き抜かれた漆器のようでもある、しかしそのいずれでもない光沢に、家臣の幾人かが膝をにじり下げた。
「まず——」
蓮は画面を点けた。青白い光が、朝の広間の薄暗がりに、白い霧のように広がった。
一つ目。清洲城の、鳥の眼からの絵図である。蓮は指を画面に這わせ、かつて業務で落とした衛星の像を呼び出した。天守の屋根、二の丸の石垣、堀の形、城下町の条里——掌ほどの板の中に、今、自分たちの座している城の全景が、真上から切り取られて納まっていた。
「……これは」
誰かが、言葉にならぬ呻きを漏らした。
蓮は板を両手で捧げ、信長の膝先へ差し出した。信長は鉄扇を置き、素手で板を受け取った。節の太い指が、画面の縁を慎重に撫でる。彼は眼を細め、画面の中の天守と、顔を上げて見える実際の梁を、二度、三度と見比べた。瞳の底の橙は、昨夜の揺らぎではなく、ひたと固まって、画面の上に焦点を結んでいた。
二つ目。蓮は板を受け戻し、録音を起動した。
「御前に——失礼仕る」
蓮は、広間の静けさに向かってそう呟いた。呟きは板の中に収まり、一息の後、蓮の指で再生された。
『御前に、失礼仕る』
——己の声が、板から漏れた。
左列の家臣が、刀の柄に手をかけた。右列の、頬骨の張った男が、思わず畳を一つ叩いて身を引いた。「妖じゃ」という囁きが広間の縁を這い、やがて「斬れ」の声が、誰とも知れぬ口から上がりかけた。
三つ目を、蓮は待たなかった。
板を掲げ、信長と、その背後の床の間の一輪の椿を、同時に画面の内側へ収めた。ぱきり、と、軽い擬音が板から立った。蓮は画面を指で滑らせ、今、撮ったばかりの像を、呼び戻した。
椿が、咲いていた。
板の中に、信長の肩越しに、今朝、生けられたばかりの椿が、花弁の露までそのまま、閉じ込められていた。
広間が、沈黙した。
斬れ、の声は立ち消え、家臣の幾人かが、額を畳へ擦りつけるように平伏した。ある者は両手を合わせ、ある者は「南無」と口の中で唱え、ある者は眼を伏せたまま、膝を後ろへ後ろへと引いている。妖術——その二文字が、肩衣の擦れる音に混じって、広間の床へ沈んでいった。
信長だけが、動かなかった。
胡坐のまま、板を自らの膝に置き、指の腹で画面をなぞっている。椿の像を指で押しても、花弁は散らぬ。画面を横へ滑らせると、像は同じ角度のまま、板の外へは出ぬ。信長は鉄扇を取り、その先端で、慎重に画面の縁を一度、叩いた。硬い、乾いた音が返った。
「——仕組みが、あろう」
低い声であった。昨夜と違い、橙の底光りは、炉の火口のそれではなく、鍛冶場の、鉄を溶かす前の、赤く澄んだ熾のそれに近かった。
「教えよ」
家臣の一人が顔を上げた。
「殿、それは妖の——」 「黙れ」
信長の眼は、家臣の誰にも向かぬ。板と、蓮の顔の、その間だけを往復する。
「妖には仕組みがない。仕組みがあるものは、妖ではない。儂は、仕組みの方を問うておる」
蓮の喉が、ひとつ鳴った。
この男は、問うた。未知を未知のまま伏し拝む家臣どもの中で、ただ一人、未知の内側を問うた。蓮の脳裏に、昨夜、三畳の座敷で組み上げた命の段取りの、最初の石畳が音を立てて嵌まる感触があった。
しかし同時に、蓮の脳は、既にその先を走り始めていた。
電気がない。発電所もない。コンセントもない。光の糸も、基地局も、交換機も、半導体の炉も、何一つ存在せぬ世界で、己が持つ知識のうち、この時代へ引き直せるものは何か——脳の中で、職業の引き出しが次々と開いた。通信の本質は、情報を、ある地点から別の地点へ、即時に届けることにある。電波がなくとも、それは為せる。のろし、早馬、旗振り、伝書鳩——この時代に既に在る手段を「網」として組み直せば、織田の眼は、他のいずれの大名より、一日、二日、半月と、先を見通せる。一日早く敵の動きを知る者が、戦でどれほどの位置を取れるかは、兵法書にすら記されておらぬ、己の世の情報戦の常識であった。
「……仕組みは」
蓮は、細く、息を吐いた。
「仕組みは、ござる。されど、この板の内の仕組みを、この国の内で、殿の御手に再び作る術は、ござりませぬ」
家臣団が、色めき立った。嘘であろう、妖を庇うたと、誰かが唾を飛ばした。だが、信長は鉄扇を一度振って、それを制した。
「続けよ」
「されど——この板が為すことの、志の方であれば」
蓮は、腹の底から声を絞り出した。額には既に汗が滲み、麻縄の痕の疼く指先が、袴の膝で微かに震えた。
「志の方であれば、殿の御手で、尾張の、いえ、東海の大地の上に、敷くことが、叶いまする」
底光りの眼が、静かに、深く細められた。
「……申せ」
信長の声は、問いというより、既に、命じる者の声であった。
蓮は膝を詰めた。畳の藺草が、擦れて軽い悲鳴を上げる。
「のろし、早馬、伝書の鳩——この三つを、糸の如く繋ぎ申す。尾張より美濃、美濃より近江、近江より京へ、一本の、見えぬ糸を、敷きまする。敵の軍勢、いずこに、幾千、いつ動いたか——殿の御耳へ、半日、早く、届けまする」
鉄扇が、一度、乾いた音で畳を打った。
「半日——」
「半日早く知れば、半日早く動けまする。半日早く動く軍勢は、半日遅れる軍勢の、背を取りまする」
信長の口の端が、ほんの僅か、持ち上がった。それが笑みであるか、或いは別のものであるか、蓮には判じがたかった。ただ、橙の底光りの中に、昨日までとは違う色が一つ、増えた気がした。
——獲物を見る眼では、もはやなかった。
共に、何かを狩ろうとする者の眼であった。
信長は鉄扇を畳に置き、腕を組んだ。
「絵図を、引け。蓮、と言うたな。日の暮れるまでに、儂の膝の上に、その糸の端を、置け」
蓮は、額を畳につけた。藺草の匂いが、鼻先で、ふと、昨日の朝の稗粥の匂いに似ている気がした。顔を上げたとき、信長は既に立ち上がり、広間の奥の襖を、自ら開け放っていた。その向こうに、墨と硯と、まだ誰の手も触れておらぬ、白い和紙の束が、山と積まれていた。