第2話
第2話
縄が、首筋の薄皮を鑢のように擦っていた。
蓮の両腕は背で束ねられ、喉元を環にして巻く麻縄の先は、従者の鞍頭へ結わえられている。馬が歩を進めるたびに縄は斜めに引かれ、息の道が細まった。汗と埃を吸った麻の繊維が、喉仏の軟骨へ食い込む。唾を呑み下そうとすると、軟骨が縄の下で軋み、首の側面が一度大きく引き攣った。
「首、潰すぞ」
槍の柄で背を突かれた。従者の一人が、ほとんど唇を動かさずに呟いた一言だった。蓮は無言で顎を引き、歩幅を馬の蹄に合わせた。尾張の官道はぬかるみと小石の入り交じる泥道で、素足の藁沓はとうに底が抜けている。藁の切れ端が足指に絡みつき、一歩ごとに泥が踵の瘡蓋へ押し込まれた。赤黒い何かが、足首の内側を斑に染めていく。
先頭の南蛮装束の男——蓮が先ほど「信長公」と呼んでしまったあの男は、振り返らぬまま馬を進めている。鷹の止まった肩の先、黒い上衣の背中が、春の薄曇りの中でただ一人、際立って乾いていた。雨後の野にあって、なぜかこの男の周りだけが湿らぬような、そういう乾き方であった。
行く先が清洲の城であると蓮が察したのは、半刻ほど歩いたのちのことである。野の向こうに土の塀と白壁の物見が見え、堀の水が濁った光を返していた。城下の百姓どもは道脇に膝をつき、額を土に擦りつけている。信長の通過を、誰一人顔を上げて見ようとしない。見てはならぬ、というより、見ると眼が焼ける、という伏せ方であった。胸元に押し込んだ板の感触は、麻の布越しに硬く冷たい。数字はもはや確かめずとも、四を少し割った辺りを這っていると、職業的な勘が告げていた。
城内に引き入れられたのは、陽が西へ傾きかけた頃であった。
板張りの廊下を縄のまま引き回され、蓮は広間の中央に膝をつかされた。上座に、件の男が胡坐を組んでいる。既に南蛮帽は外され、結い直した髷が油で黒く光っていた。脇息に肘を預け、手には鉄扇。底の光る眼は、蝋燭の橙を吸って、野で見たときよりも一層深い橙になっていた。
左右に家臣団が居並ぶ。肩衣の紋、髷の結い方、眉間の皺の深さ、それぞれが異なる家風を背負っていた。蓮は頭を垂れたまま、板目の節の一つを見つめ、声が飛んでくるのを待った。節は眼のような形に渦を巻き、その渦の中心で、己の鼓動だけが異様に大きく響いているように思えた。
「殿、いかがなされまする」
最初に声を上げたのは、右列最前の、頬骨の張った男であった。
「この者、南蛮の間者か、甲賀の術士の類にござろう。村焼きの最中、殿の御名を唐突に呼び申した。妖の者にござる。即刻、首を刎ね、晒し首となされませ」
続いて、左列から。
「拙者も同じく。由来知れぬ者を城内に長く留むるは、殿の御威光に傷ござる」
「首を、刎ねるべし」 「刎ねるべし」
声が重なった。板の間の空気が、音そのものの重みで沈んでいくのを、蓮は後頭部で感じた。うなじの産毛が一本一本立ち、背骨を冷たいものが伝った。膝頭に冷や汗が滲み、袴の麻地を湿らせている。喉の奥では、昼間から飲み下せぬままの唾液が、鉄の匂いを帯び始めていた。首筋に残る縄の痕が、脈に合わせて疼く。一寸ほど左手の板目に、微かな茶色い染みがあった。古い血の痕か、茶をこぼした跡か——もはや判じる気力もない。
信長は、鉄扇でゆるく己の腿を打っていた。扇の骨の軋む乾いた音だけが、家臣の罵声の合間を縫って広間を渡る。その音は奇妙に規則正しく、拍子木のように広間の刻を刻んでいた。罵声が高まるほどに、扇の音は逆に静まり、蓮の心の臓は、不思議と、怒号ではなく扇の方へ引き寄せられていった。
「——面」
不意に、扇の音が止まった。
「面を上げよ」
蓮は顔を上げた。橙の一点が、まっすぐ蓮の瞳孔を貫いた。底光りは、今や炉の火口そのままに、蓮の内側を焙るように注がれた。
「汝、儂の名を、いつ、誰より聞いた」
蓮の舌は縺れた。史実、教科書、年号——現代の答えはいずれも、この男の前では意味を成さぬ。
「……御名は、東海に鳴り響いておりまする。拙者は、旅の途次、ただ話に聞き及び——」 「偽りじゃ」
扇が、一度だけ鋭く腿を打った。
「東海に儂の名を響かせておる者など、まだおらぬ。儂が響かせるは、これからよ。汝の目は、その先を既に見ておる者の目じゃ」
家臣の誰かが息を呑んだ。主君の言葉の意味するところを、計りかねたのであろう。
「殿——」 「黙れ」
信長は誰にも視線を向けず、蓮だけを見たまま言った。
「首は、刎ねぬ」
左右で動揺の衣擦れが起きた。肩衣の擦れる音、髷の鬢付け油の微かな軋み、誰かが膝を詰めた板の鳴り——それらが一斉に広間の低い位置で生じ、やがて水が引くように沈黙に還った。
「殿、それは——」 「面白きものじゃ」
信長は鉄扇を畳んで膝に置いた。
「面白きもの、皆殺しては、つまらぬ。夜が明けたら、儂が己で試す」
牢ではなかった。
城の奥、天守から二つほど廊下を隔てた小座敷に、蓮は押し込められた。板戸には閂が下り、廊下では侍が一人、槍を立てて座しているのが衣擦れで分かる。縄は解かれぬまま、喉輪の縛りだけが緩められた。畳は三畳、隅に水瓶と木椀が一つ。格子窓の間から、庭の灯籠の薄明かりが這い込んでいた。
蓮は崩れるように壁へもたれ、暫く呼吸だけを数えた。両手首は麻縄に裂かれ、血が指の股まで流れていた。板の節目に頭を預けると、樹脂の甘い匂いと、誰かが残した汗の酸っぱい残香が微かに鼻を掠めた。畳の藺草は古びて、擦れば乾いた音を返す。灯籠の光が障子越しに歪んだ格子模様を畳に落とし、その模様の一つが、ちょうど蓮の膝頭の上で揺れていた。
やがて、膝を起こし、縛られた両手を懐へ滑り込ませた。指先が、冷たく硬い板に触れた。
引き出した。
画面は、点いた。液晶の青白い光が、三畳の畳の表面を一瞬だけ撫で、蓮の手の血の色を黒く浮かび上がらせた。
「四」
残りは、四であった。赤い点滅の間隔は、野にあった時より短くなっている。あと何刻保つか、職業の勘が「一日半、もって二日」と告げた。暗転までの時間を測ることだけは、三十二年の仕事で染みついた癖であった。
——夜が明けたら、儂が己で試す。
信長の声が、脳の奥で反芻された。試す、とは何を。斬らぬとは言うた。しかし、この男の「試す」が、命を守る意味で用いられる保証は、どこにもない。動かぬ道具と分かれば、そのときこそ首が飛ぶ。
蓮は画面に指を這わせた。機内モードで電波は既に切ってある。残っているのは、内蔵のカメラ、録音機、時計、電卓、そして——ダウンロード済みの地図と、過去半年分の写真と、業務で落としておいた衛星画像のキャッシュであった。
電気がない。充電ができぬ。ならば、この板一枚で為せるは、起動から暗転までの、限られた回数のみである。
蓮は眼を閉じ、明朝までに何を披露するかを、一点ずつ選り分け始めた。
ひとつ——己を見下ろすこの城の、上空からの姿を映す。清洲の天守と周囲の堀を、鳥の眼で捉えたキャッシュが、確かに残っていた。
ふたつ——信長の声を、その場で録り、その場で返す。己の声が板から漏れる瞬間、この男の橙の眼が、どう揺れるかを見る。
みっつ——今、この瞬間の光景を、一枚の絵として封じ、一息後に板の上に蘇らせる。
三つで、よい。
三つで、信長に「仕組み」を問わせる。問わせた瞬間、蓮は生き延びる道の、最初の石畳を己で敷く。問わぬ男ではない、と蓮の内側の声が断じた。野で鷹を連れ、南蛮の上衣を纏い、なお家臣の罵声に耳を貸さず己の興をのみ信じるあの男は、目の前に現れた未知を、未知のまま斬り捨てる類の君主ではない。未知を、自らの手で解こうとする——その一点に、蓮の命は賭けられる。
格子窓の外で、夜鴉が一度鳴いた。蓮は、縛られたままの両手で、板の縁を強く握り直した。麻縄に裂かれた手首から、新しい血が一滴、画面の縁へ落ちた。赤は、液晶の光に溶けて、すぐに黒へ戻った。
廊下の向こうで、侍の槍尻が板を打つ音が、一つ、また一つと、打刻のように響く。夜は、まだ明けぬ。
しかし、夜が明けたとき。
上座に胡坐を組み、底の光る眼でこちらを見下ろすあの男に、この板一枚で、何を突きつけるか。
蓮は指の腹で画面を拭った。
拭った指先に、己の頬骨の影が、一瞬、小さく映り込んだ。その影の奥で、橙の眼が、まだ燃え続けている気がした。