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戦国通信網 ~信長の隣で電波を紡ぐ~

第1話 第1話

第1話

第1話

稗の匂いが、鼻の奥を焼いていた。

 黒田蓮は土間に頬をつけたまま、その粗い穀物の焦げた香りを嗅いでいた。白飯ではない。米ですらない。ぼそぼそとした粒の粥が、竈の黒鍋で煮えている——その匂いだった。頬に当たる土は湿って冷たく、指先には藁の切れ端が刺さっている。掌の下で、薄く硬い何かが熱を放っていた。耳の奥では、まだ地下鉄構内の蛍光灯の唸りが微かに残響している気がした。それは、この土壁の静けさと明らかに噛み合わず、耳鳴りのように頭蓋の内側で震えていた。舌の付け根には、さっきまで噛んでいたはずのミント味のガムの残り香すら残っていて、現実と現実でないものの境目が、唾液の中で溶け合っている。

 スマートフォンだ。

 画面の隅に「7%」と、充電マークの赤い点滅。見慣れたフォントが、見たこともない光景の中で一人だけ正気を保っている。天井は梁が剥き出しで、煤で黒光りしていた。梁の継ぎ目からは細い煙が糸のように立ち上り、空気そのものが粘ついていた。

 ——死んだのか、俺。

 記憶の最後は、地下鉄の階段だった。深夜一時、基地局の故障対応から戻る道で、携えていた工具鞄と折れた脚立が足にもつれ、踊り場で後頭部を打った。LTEの制御盤、SIMスロットの金色、BERの測定値——蓮の脳にこびりついた三十二歳の記憶は、現代の通信エンジニアのそれである。なのに、鼻孔を満たすのは稗の焦げだった。

「兄さ、起きとるか。野伏せりが村の東まで来ちょる」

 土間の奥から、髷を結った男が顔を覗かせた。日に焼けた肌、麻の小袖、右手にひしゃげた鎌。その言葉尻の訛りは、時代劇のそれに似て、けれどもっと生々しく粘った。蓮の知る標準語のイントネーションからは、半拍ずつ拍子がずれている。耳で聴くというより、腹で受け取る種類の言葉だった。男の肩越しに、遠く、法螺貝の音が響いた。長い、低い、震えるような音である。腹の底を撫でられるような、祭囃子とはまるで違う、戦の気配を孕んだ響きだった。

 蓮は跳ねるように身を起こした。頭の芯が鈍く痛み、片膝がよろめいた。スマホを胸元に押し込み、麻衣の男に向かって掠れた声を絞り出す。

「ここは、どこの——」 「何を呆けとる、殺されるぞ」

 男は蓮の腕を掴んで引き起こした。指の節は太く、掌は紙やすりのように荒れていた。握られた腕に走る痛みで、蓮はようやく、これが夢でないことを肚で受け入れた。

 外に出た瞬間、視界を煙が覆った。藁葺きの屋根から炎が噴き上がり、火の粉が春の冷えた風に乗って頬を打つ。生木と藁と、人の脂が混ざった臭気が喉に貼りついた。咳き込むと、喉の奥にすすの粒が刺さる。目を細めても、涙がにじんで視界の輪郭が溶けた。遠くで、何かが崩れ落ちる鈍い音と、誰かの絶叫と、子犬の悲鳴に似た甲高い泣き声が、同時に折り重なって耳に届いた。

「走れ、兄さ!」

 麻衣の男が蓮の背を突いた。畦道を蹴って走る。足裏に石の角が食い込む。革靴ではない——いつの間にか足には藁沓が履かされていた。紐の縛り方が合っておらず、踵が浮いて擦れる。一歩ごとに皮膚が剥がれていく感触だった。

 東の空に、黒い煙が三本立ち上がっていた。

「落ち武者狩りや!女子供は山へ逃げえ!」

 遠くで女の悲鳴が響いた。肩に鍬を担いだ男が三人、顔に土を塗り、眼を血走らせて走り過ぎる。鍬の刃の縁には、既に赤黒いものがこびりついていた。農具ではなく、それはこの瞬間、明確に人を打つための道具に変わっていた。

 蓮は胸のスマホを握り直した。画面の残量表示は「6%」に落ちていた。残業帰りの日に充電し忘れ、事故の瞬間にはすでに二十パーセントを切っていた板である。職業的な脳が冷静に告げる。圏外。それも、山の奥で電波が届かぬという圏外ではない。この時代に通信網そのものが存在せぬという意味での、絶対の圏外だった。アンテナピクトが×印に張り付いたままの画面を見つめて、蓮は乾いた笑いを洩らしかけた。基地局もない、光ファイバーもない、五〇〇年前の空に電波を探す自分の指の馬鹿らしさ。そして、その馬鹿らしさに縋るほかない現実。充電器もコンセントも存在しない世界で、残りパーセンテージだけが、唯一の「故郷」から持ってきた数字だった。

「どこへ逃げればいい」 「林を抜けて、岩陰や。殿様の鷹狩り場の方なら、野伏せりも踏み込めん」

 殿様。鷹狩り場。

 蓮の踵が、その単語で一瞬地面にめり込んだ。歴史の教科書に記された年号の一つが、脳の奥から重く浮上してくる。もし、ここが尾張で、もし「殿様」が意味するところが——。

 考える間もなく、麻衣の男は別の方へ逸れていった。「こっちや」という声を背に、蓮は一人、沢に沿って走った。膝が震え、脇腹が痛む。三十二の体は、オフィスと基地局の鉄塔だけを往復してきた脚で、戦国の山を走るために育ってはいなかった。苔の生えた石に足を滑らせ、尻をしたたか打って倒れ込む。

 手のひらに、鉄の味が広がった。

 唇を切ったのだ。舌の先で確かめる。血の温度があった。沢の水面に顔が映る。眉の形、唇の薄さ、鼻梁の通り——全て自分の顔だった。髷はなく、麻の小袖を一枚、帯もろくに締めぬまま巻きつけただけ。肩に、見覚えのない切り傷があった。切り傷は既に乾きかけ、瘡蓋の縁に泥が食い込んでいる。蓮が気を失っている間、この身体が何かしらの暴力に晒されていた証拠だった。誰かに斬られ、誰かに放り込まれ、そして「自分」がここへ呼ばれた——そう考えるほかない順序で、肩の傷は無言だった。

「……意識だけ、来たのか」

 誰にも聞こえぬ声で呟いたそのとき、背後で馬の蹄が地を打った。

 低い蹄の音ではない。重く、訓練され、四頭ほどの足並みの揃った音であった。蓮は反射で草叢に身を伏せた。胸のスマホが地面に当たり、「5%」が冷たく光った。

 木の陰から、馬列が現れた。

 先頭の馬上の男は、明らかに異様であった。袖口に金の縁取りのある南蛮の上衣、黒い毛織の袴、腰に日本刀と、見慣れぬ短い火縄の筒を差している。頭には髷を隠すような黒い南蛮帽。肩には、鞐を解かれた鷹が一羽、血の滴る小鳥の死骸を脚に絡めて止まっていた。

 従者が二人、後ろで轡を取り、もう一人が先導の小姓として走っている。蓮の息が止まった。写真で見たことがあった。歴史の教科書ではない。大学時代、京都の展覧会で眺めた、狩野派の描いた肖像画の——。

 男の視線が、ふいに草叢へ向いた。

 底が光る眼であった。

 黒い瞳の底に、油を燃やしたような橙の一点が沈んでいる。遠目に見ても、獣の眼のようであった。いや、獣よりも質が悪い。獣は腹が満ちれば狩らぬが、この眼には「満たされる」という終点が初めからない。ただ燃料を探して回り続ける炉の火口のように、橙が揺らぎ続けている。見つかった、と蓮が身をすくめた瞬間、男は鞍上から降りた。足音を立てず、二歩、三歩と草を踏んで近づいてくる。草の擦れる音が、妙に柔らかかった。斬る者の足音は、こんなにも静かに練られるのかと、蓮の背骨が知らぬ知識で震えた。

 蓮の喉が勝手に動いた。

「……信長、公?」

 言うつもりはなかった。三十二年生きた現代人の理性が、言うな、と命じた。だが、口が先に動いたのである。この時代に己が落ちた、という事実を、己の舌が先に受け入れた証でもあった。

 男の足が止まった。

 橙色の点が、確かに揺らいだ。獲物を見つけた鷹のそれではない。己の名を知る者を見つけた、もっと険しく、もっと飢えた何かの眼であった。

「——何処の者じゃ、それを申したは」

 低い声であった。春の冷えた空気を切り裂くように、一切の情も含まぬ声。男の左手が、ゆっくりと腰の刀の柄に添えられた。小姓が二人、左右から槍を構えて草叢を囲む。槍先の切っ先が、朝霧の湿りをまとって鈍く光っている。その光の角度から、穂先がよく手入れされ、幾度も人を貫いてきたものだと、蓮の目は直感で測った。

 蓮は、掌の中のスマホをいよいよ強く握った。五パーセントの画面が、麻衣の裾の中で、血と土に汚れたまま、確かに光っていた。

 この光る板一枚が、己を生かすか、殺すか。

 決めるのは、今、目の前で己を見下ろしている——底の光るこの男である。

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