第1話
第1話
封筒の角で指の腹を切ったとき、ようやく自分が泣きそうになっていることに気づいた。
カフェの窓際、二人がけのテーブル。目の前にはまだ湯気の立つカフェラテと、銀色の縁取りで「Wedding Engagement Party」と箔押しされた招待状。差出人の欄には、十年見続けてきた名前が二つ並んでいる。
桐生悠真。立花美玲。
入口の扉が開くたび、三月の終わりの冷たい風が背中を撫でていく。指先がかじかむ感覚の中で、紙の鋭さだけがやけにくっきりしている。血の珠が小さく滲んだ。慌てておしぼりで押さえる。白い布に滲んだ赤を見て、ようやく息を吐いた。
——大丈夫、ちゃんと行ける。
スーツのポケットからスマホを取り出して、カレンダーを開く。来月の第二土曜、十八時、ホテル名。すでに自分の手で予定欄に打ち込んである。出席で返信したのは三日前。返信ボタンを押した瞬間、あれは確かに、何かを終わらせる音だった。
「終わりにする」と決めて、ここに来たのだ。
十年前、中学一年の春。引っ越したばかりのマンションのエントランスで、私は階段の踏み板を踏み外した。両膝を擦りむいて、痛さよりも恥ずかしさで動けなくなっていた私の前に、スニーカーが二つ降りてきた。
「立てる?」
低い声と、見上げた逆光と、差し出された手のひら。あれが悠真だった。膝の傷口に、彼が持っていたスポーツドリンクのペットボトルを押し当ててくれたことを、今でも覚えている。冷たくてしみる、そして優しい。その矛盾した感覚の中で、私は初めて「この人」と思った。
それから十年、私は彼の隣で笑い、彼の選ぶ大学を眺め、彼が留学から戻る日を待った。何度も告げる場面を想像した。何度も飲み込んだ。彼が美玲を「俺の婚約者」と紹介した去年の冬まで、私はずっと、いつかと思っていた。
——いつかなんて、もう来ない。
カフェラテを一口含む。舌の奥に苦味がじんわり広がる。甘いはずのミルクが、今夜はやけに重い。窓に映る自分の顔は、化粧の下で確実に疲れている。眉間に薄く影が落ちているのが、自分でもわかった。目の下のコンシーラーは午後の会議で崩れかけていて、リップの端は知らないうちに欠けている。二十三歳の女が、なぜこんな顔をして金曜の夜を過ごしているのだろう、と他人事のように思った。
招待状をバッグに戻そうとしたとき、隣の席で女子大生らしき二人組が華やかに笑った。
「えーうそ、プロポーズされたの?」 「先週の金曜、夜景見えるところで」 「やばっ、最高じゃん」
二人の声が、ガラスの向こうの春みたいに遠い。私はカップを両手で包み直す。陶器の温度が指先に戻ってきて、ようやく自分が冷えていたことに気づく。店内にはレイ・ハラカミに似た静かなエレクトロニカが流れていて、エスプレッソマシンの蒸気音が時折、歌のブレスのように混ざる。本来なら心地いいはずのその音が、今夜は耳の奥を削るように響いた。
立花美玲。私の二つ年下、同じ広告代理店の後輩。配属されたとき、「先輩、よろしくお願いします」と下げた頭が、教科書に載りそうなくらい美しかったのを覚えている。SNSのフォロワーは三万人を超え、休日の写真は花とパンとブランドバッグで洗練されていて、コメント欄にはいつも「理想の女の子」「彼が羨ましい」と並ぶ。
その彼女と、悠真が並んだとき、私は確かに「お似合いだ」と思った。思えてしまったことが、何より残酷だった。嫉妬よりも先に、納得が来てしまった。美しい二人が写真の中で笑っていて、その構図のどこにも私が入り込む余地がない——それを一目で理解してしまう自分の目が、憎かった。
スマホの画面を切り替える。LINEの一覧で、悠真の名前は今も上から三番目にある。最後のやりとりは三週間前。「来月の打ち合わせ、しおちゃんも来る?」「うん、行くよ」。それだけだった。
「しおちゃん」。
その三文字を彼の声で再生してしまったのが、まずかった。低く、少し掠れた、笑いの混じる呼び方。耳の奥で勝手に再生されて、肩が小さく震えた。
慌ててカップに口をつける。けれどもう熱は逃げていて、ぬるい液体が喉を流れていくだけだった。
「お客様、もう一杯いかがですか」
通りがかった店員に首を横に振り、「会計お願いします」と答える。声がいつもより少し高く出てしまったのが、自分でも嫌だった。
伝票を待つ間、窓の外を眺めた。アスファルトに薄く張った雨の名残が、信号機の赤を伸ばしている。傘を差した人影が二つ、肩を寄せて横断歩道を渡っていく。誰かと誰かの普通の夜が、ガラス一枚向こうで普通に流れている。
その普通から、私は今夜、卒業することにしたのだ。
会計を済ませ、コートの袖に腕を通す。バッグの肩紐を握り直したとき、内ポケットの奥でスマホが震えた。
短く一度、二度、三度。
液晶を引き出した瞬間、息が止まった。
「桐生悠真」。
十年間、何百回と眺めてきた名前。けれど今夜だけ、その四文字が画面の中で別物のように光って見えた。
なぜ今。 招待状を握りしめて、たった今「区切る」と決めたばかりの夜に。
迷ったのは三秒もなかった。指は勝手に通話ボタンを滑り、私はカフェの自動ドアを抜けて、店の脇の細い路地に出た。冷たい外気が頬を打つ。鼻の奥がつんと痛む。路地の奥でタバコの匂いがかすかに漂い、遠くのコンビニから自動ドアの電子音が届いた。その全てが、いつもの東京の夜なのに、今夜だけ解像度が違って見える。
「もしもし」
「しおちゃん、今ちょっといい?」
低い声。十年聞いてきた、あの声。
「うん、大丈夫」
なるべく普通を装ったつもりなのに、白い息が街灯に向かって少し震えた。心臓が、肋骨の内側を叩いている。落ち着け、と自分に言い聞かせる。私は今夜、この人に「終わった」と告げる側の人間だったはずだ。
「夜遅くにごめん。今、家?」
「ううん、ちょうどカフェ出たところ。なんかあった?」
電話の向こうで、悠真が短く息を吐いた。迷っているような間。彼にしては珍しい沈黙だった。エアコンの室外機の音と、誰かの笑い声が遠くで混じる。
「変なこと聞くけど、しおちゃんのマンション、まだ三階の角部屋?」
「うん、そう。どうしたの」
「昼に管理会社の知り合いから連絡来てさ。しおちゃんの部屋の真上で、配管がやられたらしいんだ。今夜から修理入るって。下にも漏れてるって」
頭の中で、自分の部屋の天井が一瞬で映像化される。今朝出るとき、何も異変はなかった。けれど、夕方に管理会社からの不在着信が二件入っていたのを、仕事と招待状のことで頭が満杯で、私はずっと無視していた。
「……まじで?」
「まじ。鍵借りて様子見てきたんだけど、ベッドの上、ちょっと厳しい状態」
「えっ、待って。なんで悠真が」
「親父の関係で、あのマンションの管理会社と付き合いあるんだよ。それで、しおちゃんの名前見て、俺に連絡来た」
頷きかけて、頷くタイミングを失う。世界が一段、ガラガラと崩れた音がした。今夜帰る場所がない。明日の仕事もある。スーツも下着もメイク道具も、全部あの部屋に置いたままだ。充電器も、明日の朝のヨーグルトも、読みかけの小説も、全部、天井から落ちてくる水の下にある。
頭の中が真っ白になりかけたところに、悠真の声がもう一度、低く落ちてきた。
「しおちゃん」
「……うん」
「ちょっとだけ、変なこと言っていい?」
街灯の白い光が、私の足元に長い影を描いている。電話を握る手のひらが、なぜか汗ばんでいた。コートのポケットの中で、招待状の角が太腿に当たって、小さく鋭く主張してくる。
「うん」
「一ヶ月だけ、俺と——同居してくれないか」
時間が、止まった気がした。
招待状の角で切った指先が、コートのポケットの中でもう一度、ちりっと痛む。
「修理、ちゃんと終わるまで一ヶ月かかるって。ホテル住まいだとしおちゃんもしんどいだろ。うち、部屋余ってる」
部屋余ってる。たったその一言で、心臓が裏返った。
「……でも、悠真、来月——」
婚約パーティーが、と続けようとした言葉を、私は寸前で飲み込んだ。
「うん。だからこそ、しおちゃんに頼みたいんだ」
低い声が、さらに低くなった。電話越しでもわかる、彼の本気の声。何かを抑えているような、けれど決めてしまっているような、奇妙な温度の声だった。
「今夜だけでいい。とりあえずうち、来ないか」
返事をしようとして、唇が震えた。
——今夜、終わらせるはずだったのに。
招待状の入ったバッグを、もう片方の手でぎゅっと握りしめる。区切りも、卒業も、十年分の沈黙も、何ひとつ進まないまま、夜が私を別の場所へ連れて行こうとしている。
「……わかった」
喉の奥が、なぜか少し笑っていた。
「今から、行く」