第2話
第2話
タクシーの後部座席で、招待状の角がスカートの上から腿に食い込んでいた。
コートの内ポケットの底に押し込んだはずが、勝手にせり上がってくる。指で位置を直しながら、私は窓の外を流れていく街灯の帯をぼんやり眺めていた。首都高の継ぎ目を拾うたび、車体が小さく上下して、胃の奥がふわりと浮く。左の窓に映った自分の顔は、妙に白くて、口元が張り詰めていた。化粧の下で、頬の筋肉が固まっているのが自分でもわかった。
「お客さん、六本木の桐生レジデンスでお間違いないですか」
運転手が前を向いたまま低く確認してくる。
「はい、あってます」
答えた声が、車内のラジオに負けて掠れた。
桐生レジデンス。悠真の住まいの名前を、私は今まで一度も住所として口にしたことがなかった。彼の名刺の連絡先で、メッセージの背景で、ガラス越しに何度も見上げただけの場所だった。タワー棟、三十四階。中学のときに植栽の前で「いつかここから東京の端が見たい」と彼が言った、あの建物。
——行って、どうするんだろう。
問いだけが、頭の中で回り続けていた。一ヶ月だけ。そう言われた。けれど「だけ」の重さを計るには、私は疲れすぎていた。
信号が赤に変わって、タクシーがなめらかに止まる。隣に並んだ黒塗りのハイヤーの、曇った後部窓の中で、誰かが笑っている気配があった。普通の夜。普通の週末。指先が、コートの中で勝手に招待状の角を撫でていた。
車がふたたび動き出す頃には、目的地はもう目の前にあった。
エントランスの自動ドアが音もなく開いた瞬間、ホテルのロビーのような温かい空気が私を包んだ。大理石の床、ガラスの天井、ほのかな香木の匂い。足音がやたらと響くのが怖くて、踵の置き方を自然と変えている自分がいた。
「しおちゃん」
名前が、床のタイルを撫でるように届いた。
振り向くと、ソファに座っていた悠真が立ち上がるところだった。紺のニットに、いつもより色の落ちたデニム。髪は少し濡れていて、シャワーを浴びた後なのがすぐにわかった。私のスーツの肩に、雨にならなかった夜の湿気が張りついているのと比べて、彼の周りだけ空気が乾いて見える。
「ごめん、こんな時間に」
「いや、俺が呼んだんだろ」
悠真は私の足元にちらと目を落として、すぐに持っていた紙袋に視線を戻した。コンビニの白い袋だった。
「下のファミマで買っといた。歯ブラシと、化粧落とし。銘柄わかんなかったから適当」
「……ありがとう」
礼を言いながら、紙袋を受け取る指先が、彼の指に一瞬だけ触れた。乾いていて、少し温かかった。それだけのことが、耳の裏を不意に熱くした。
エレベーターは無音で上昇した。階数表示が二桁を超え、三十に乗ったあたりで、耳の奥がつんと詰まる。悠真は鏡面に映る自分の靴先をじっと見ている。私はその横顔を鏡越しに盗み見て、すぐ目を逸らした。十年見続けた輪郭が、今夜だけ、別の光を纏って見えた。エアコンの低い唸りが、鏡の中の私たちの沈黙を薄く覆っている。微かに香る木の匂いが、このマンションの共用部のものなのか、私の緊張がこしらえたただの幻なのか、判別がつかなかった。息を吸うと、それが肺の奥で少しだけ冷たく尖る。
「三四〇八号室。こっち」
扉が開いた廊下は、足元を淡く照らす間接照明だけが静かに灯っていた。彼の歩幅がいつもより少しゆっくりで、私を置いていかないように合わせてくれているのが、十年分の癖でわかった。絨毯の毛足がパンプスの先を柔らかく吸い込んで、自分の足音さえ奪っていく。
部屋の扉の前で、悠真が内ポケットから鍵を取り出した。
「ひとつ、しおちゃんに渡しとく」
差し出された掌の上で、銀色のそれが廊下の照明を弾いた。新品だった。擦れの跡も、キーホルダーの痕もない。「昼に作らせた」と彼は短く言った。
受け取ろうと伸ばした私の指を、彼の指が一瞬止めた。鍵の上に、彼の指が重なったまま止まったのだ。
「しおちゃん」
「……うん」
「嫌だったら、今からでもホテル取り直す。言って」
彼の目が、私の目を逃げずに捉えていた。
嫌だ、と言えるわけがない。言えば楽になるのはわかっていた。けれど私は、首を横に、小さく振った。
「嫌じゃない」
指が離れて、鍵だけが私の掌に残った。金属がまだ、彼の体温を吸っていた。ずしりと感じたのは、重さのせいではなかったと思う。握り直すたび、指先に残った彼の温度が皮膚の下に沁みて、もう返せない場所に印をつけられていくようだった。鍵の歯先が掌の窪みを軽く押して、小さな痛みにもならないそれが、妙に長く消えなかった。
玄関を入った瞬間、自分の生活とのスケールの違いに軽く眩暈がした。廊下の奥まで視界が抜けていく。壁はモデルルームのようなグレージュ。履き古した靴が一足もない玄関と、ほのかに木の香りのするリビング。ソファの向こうの窓一面に、東京の夜景が貼りついていた。高速道路の帯と、ビルの灯りの群れ。現実の彼我の差を、景色が黙って突きつけてくる。
「客間、こっち」
悠真が指した左のドアを開けると、六畳くらいの部屋に、使われていないベッドとデスクがあった。シーツが新品で、畳まれた状態のまま置かれている。
「シーツ、張ろうか」
「いい、自分でやる。それくらいは」
笑って答えたけれど、声が少しだけ揺れた。
「悠真、私——」
言いかけて、言葉を探した。ありがとうでも、ごめんでも、なんだか違う気がした。
「風呂、先どうぞ。タオル棚の二段目」
彼は私の中途半端な唇を、さりげなく押し返すように話題を切った。
シャワーの湯が頭のてっぺんから流れ落ちた瞬間、ようやく私は、自分が震えていたことに気づいた。熱いお湯の中に、冷えていた指先が少しずつ戻ってくる。鏡には、彼の家のシャンプーの泡だらけの知らない女が立っている。肌の色も、髪の癖も、いつもと同じはずなのに、別人のように見えた。曇りを手の甲で拭っても、映る輪郭は確かに私のものなのに、どこか今夜だけ借り物になったような頼りなさが、肩先に張りついて離れなかった。
悠真が貸してくれたスウェットの上下は、袖と裾をそれぞれ二つ折りにしてちょうどよかった。襟元から、彼の家の柔軟剤の匂いがかすかに立つ。自分の体からその匂いがすることが、現実のようで、嘘みたいだった。
リビングに戻ると、悠真がキッチンで湯を沸かしていた。マグカップが二つ、カウンターに並んでいる。
「ココア、飲めたよな」
「うん、好き」
「しおちゃん、昔から寒い日はこれだったろ」
十年前の冬、彼の家で飲ませてもらったインスタントの味を、私はまだ覚えていた。それを彼も覚えていたことに、胸の奥が静かに潰れる。
向かい合ってソファに座る。一つ分、間を空けて。マグカップの縁を両手で包むと、掌に小さい熱が戻ってきた。
「会社のほう、大丈夫か」
「うん、明日までは在宅に切り替えた」
「しおちゃんのメイク道具とか服、明日、俺が取りに行ってもいいし、業者に頼んでもいい。好きな方」
「……さすがに自分で行くよ」
「そっか」
短く頷いて、悠真は自分のマグに口をつけた。喉が動く。その動きから、私は慌てて視線を逸らした。
「悠真、一ヶ月て、本当に——」
「本当に、一ヶ月」
彼は、私の問いを先に回収してしまった。
「しおちゃんが困ってるの、放っておけない。それだけ」
それだけ、と彼は言った。
私の心臓だけが、その二文字を信じきれなかった。
客間に戻って、ドアを閉めると、見知らぬ部屋の静けさが一気に肩に降りてきた。シーツを広げて、マットレスの四隅にゴムを引っ掛ける。いつも自分の部屋でやっている手順のはずなのに、指先が覚束ない。張り終えたシーツを掌で撫でて、ようやく息を吐いた。
ベッドの端に座る。壁一枚向こうで、悠真が洗い物を片付けている音がした。水を止める音、食洗機のボタン音、冷蔵庫の扉が閉まる軽い音。十年聞きたかった生活音が、今夜、全部、聞こえてしまっている。
枕に頭を預けると、柔軟剤の同じ匂いが、もう一度、鼻の奥で広がった。天井を見上げる。——明日の朝、この人と朝食を取るのだ。知らない家の天井に向かって、私はぼんやり思った。
掌に握ったままの銀色の鍵を、ベッドサイドのデスクにそっと置く。硬い音が、私の十年の終わりと、まだ名前のない何かの始まりの、両方を同時に鳴らした。
コートのポケットで、招待状の角は、いつのまにか音を立てなくなっていた。