第3話
第3話
コーヒーの匂いが、まだ夢の縁に引っかかっていた。
枕の下で丸めた手を開くと、指の第二関節に、昨夜握っていた鍵の歯型が薄く残っている。天井が自分の部屋より高い。その違和感だけで、ここがどこなのかを、体の方が先に思い出した。
壁の向こうから、低い機械音が聞こえる。コーヒーミルだ。豆を挽く音が一定のリズムで鈍く響いて、やがて止まった。静けさの向こうで、マグカップが陶器を叩く硬い音。誰かが棚を閉める。水を汲む。水を捨てる。——生活音だ、と思った瞬間、喉の奥が詰まった。
ベッドサイドのデスクで、銀色の鍵が朝の光を反射している。昨夜、この金属を置いた位置から一ミリもずれていない。それが、夜の間じゅう誰も動かなかった証拠みたいに見えた。
時計は六時四十五分。アラームは七時にセットしたはずだった。体だけが、いつもより三十分早く目覚めてしまっている。コーヒーの匂いのせいか、柔軟剤の違いのせいか、あるいはもっと違う理由のせいか。
枕元で携帯を確認する。LINEに返すべきものが二件。母からのどうでもいい画像と、会社のグループチャット。後で、と思って画面を伏せる。鏡を見るのは、怖かった。
スウェットの袖を二回折り直す。裾も踏まないように整える。髪だけは、指で大雑把に梳いて、耳にかけた。寝癖の一本が、どうしても跳ねる。諦めて、ドアノブに手をかけた。
廊下に出た瞬間、匂いが一段濃くなった。焙煎の香りと、焼けたパンの匂いと、もう一つ——なんだろう、バターのような、でも少し甘い、朝の匂い。
リビングへの角を曲がる直前、一度だけ、深呼吸をした。
キッチンのカウンターの向こうで、悠真がコーヒーサーバーに湯を落としていた。
細口のケトルが、静かに円を描いている。膨らんだ粉の上で、湯のラインが中心から外へ、外から中心へ、ゆっくりと往復する。十年前、彼の家の書斎で見たのと同じ手つきだった。けれどあの頃の悠真はまだ背中が細くて、ケトルを持つ手がいつも少し不安定だった。今、グレーのスウェットの肩の下で、彼の背中は静かに、確実に、大人の男の形をしている。指の動きにも、もう迷いがない。
「おはよう」
掠れた声で告げると、彼がケトルから目を離さずに答えた。
「おはよ。早いな」
「……匂いで、起きた」
「それは、悪いことしたな」
笑いが薄く混じった声。けれど手元は、円を一周描き終えるまで止まらなかった。最後の一滴が粉の上に落ちて、彼はようやくケトルをコンロの横に戻した。
「座って。しおちゃん、ブラックだっけ」
「うん、ミルクちょっと」
「牛乳、豆乳、オーツ」
「……豆乳」
答えながら、カウンター席の高いスツールに腰を下ろす。木の天板が、朝の空気でまだ少し冷たい。窓の外では、首都高の向こうの東京タワーが朝焼けに薄い赤を乗せていた。雲が低くて、今日は途中で曇るのだろうな、と、どうでもいいことを考えた。
目の前にマグが置かれた。白い陶器の、少し厚みのあるやつ。豆乳の白い筋が、上の方でまだゆっくり渦を巻いている。
「ありがとう」
「トースト、焼いちゃったけど食べる? あと、昨日の残りのきのこのスープ。温めただけで悪いけど」
「……え」
「しおちゃん、朝食べない人じゃなかっただろ」
十年分の記憶のどこから、この人は私の朝食習慣を引っ張り出してきたんだろう。
中学の頃、彼の家で宿題をして泊まった翌朝、お母さんが焼いてくれたトーストと、コンソメベースのきのこのスープ。あれ以来、彼の家では何度か朝食をもらったことがあった。けれど、それを彼が覚えているなんて、思わなかった。
「食べる」
短く答えて、マグに口をつけた。豆乳の甘さが、コーヒーの苦味を後ろからそっと押し上げる。舌の上で、両方が喧嘩せずに、静かに混ざった。——この味を、私の舌は絶対に忘れる気がない、と思った。
カウンター越しに、彼が木のボードにトーストを乗せた。上にバターがひとかけらと、蜂蜜の小瓶。きのこのスープは、浅い白磁のボウルに入って、湯気を立てている。スプーンがボウルの縁に、小さな音を立てて置かれた。
「これ、悠真が作ったの」
「作ったっていうか、昨日の残り。しおちゃんが来るってわかってたから、多めにしといた」
心臓が、一拍、遅れた。
昨日の夕方、電話をくれた時点で、彼はもう夕食を多めに作っていたのだ。私が頷くより先に、この人は、私が来る前提で鍋の火加減を変えていた。
「……計画的だね」
笑おうとした声が、少しだけ崩れた。誤魔化すために、慌ててスープを口に運ぶ。きのこの出汁が、朝の胃に染みた。舌の奥がじんと温まる。泣きそうになるのを、熱で誤魔化した。
「今日、会社?」
「ううん、在宅にした。でも、午後から、どうしても部屋の様子見に一回戻りたい」
「俺、昼に外せる。一緒に行く」
「え、いいよ、悠真、忙しいでしょ」
「忙しいけど、しおちゃんの部屋に他の男入れる方が、俺は落ち着かない」
言い終わって、彼は自分の発言の重さに、気づいたような顔をした。
一瞬。ほんの一瞬。
ミルにこぼれた粉を、彼は小さなブラシで掃き集めた。視線を落としたまま、言い直すわけでもなく、続けた。
「工事の人も来てるし、業者と話すの、面倒だろ」
「……そうだね、助かる」
マグを両手で包み直す。指先が、磁器の熱を借りて、ようやく安定した。
悠真が、カウンターの向こうから出てきて、私の隣のスツールに腰を下ろした。木の椅子が、彼の体重でわずかに軋む。すぐ横に、彼の腕がある。スウェットの袖から覗く手首の骨、血管の薄い影、昨夜、私の指の上に重なった指。——見てしまったことを悟られないように、私は窓の外に視線を逃がした。
「しおちゃん」
低い声が、耳のすぐ横で落ちた。
胸の内側が、ほんの少し、引き攣れる。
昨夜、カフェの路地で電話越しに聞いたのと同じ温度の声。けれど今は、五十センチも離れていない場所から、同じ温度で呼ばれている。
「……なに」
「昨夜、眠れた?」
「……眠れた。悠真は」
「半分くらい」
「半分」
「半分は、天井見てた」
私は、マグの縁に唇を触れさせたまま、動けなくなった。
天井。この家の、どの天井だろう。彼の寝室の天井か、リビングのソファの上の天井か。想像しかけて、止める。想像したら、私はきっと今、彼の横で、何か取り返しのつかない顔をしてしまう。
「しおちゃん」
もう一度、同じ声で呼ばれた。
「うん」
「今日、帰り、一緒に飯食って帰らないか。会社の近くまで俺が行く」
——これは、同居人として普通の言葉だ。
頭の冷たい部分が、そう分類する。荷物の確認、部屋の段取り、夕食の時間。一ヶ月、同じ家で寝起きするなら、当然話しておかなきゃいけないこと。
なのに、私は首を縦に振るタイミングを失った。
「……うん、じゃあ、そうする」
声が掠れた。彼はそれに気づいたかどうか、横顔を少しも崩さずに、「了解」とだけ答えた。
十年、私は彼に「しおちゃん」と呼ばれ続けてきた。何千回、何万回、その名を聞いたかわからない。今日の朝、同じ呼び方が、私の中で、何か違う場所に着地した。
ここで暮らすのだ、一ヶ月。
昨夜決めたはずの「一ヶ月だけ」の線引きが、朝の豆乳入りコーヒーの湯気の中で、ほんのわずか、歪んだ気がした。
食洗機を動かして、悠真は寝室のほうへ戻っていった。着替えるのだろう。私もメイクを、とバッグに手を伸ばしかけたそのとき、カウンターに伏せたままだった携帯が、短く震えた。
通知のプレビューに、見慣れた名前。
『立花 美玲』
——会社の後輩。悠真の、婚約者。
開いた瞬間、朝の湯気ごと、全身の温度が一段下がった。
『おはようございます、詩織先輩。相談なんですけど、パーティーの幹事補佐、やっぱりお願いしていいですか? 先輩が一番、悠真くんのこと詳しいと思うので』
文末には、小さな青い花の絵文字が、ふたつ。
背後で、寝室のドアが静かに開く音がした。
「しおちゃん」
低い声が、三度目、私を呼ぶ。
今度は、振り向いていいのか、悪いのか、わからなかった。