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兄の輪郭、俺の半年

第3話 第3話

第3話

第3話

布団の中で、何度寝返りを打ったか、もう分からなくなっていた。

実家に泊まると言い出したのは、美穂の「大丈夫?」に答えられなかった自分を、そのままアパートの一人暮らしに戻すのが、どうしても怖かったからだと思う。母は少しだけ驚いた顔をして、それから、何も訊かずに二階の俺の昔の部屋に布団を敷いた。押入れから出した掛布団は、陽の匂いがした。母が、定期的に、干し続けていた匂いだ。

天井の木目は、十年前と、同じ場所で、同じ顔をしていた。小学生の頃は、いちばん右の節が、犬の横顔に見えた。今見ても、同じ犬だった。犬だけが、この十年、何も年を取っていなかった。

階下で、冷蔵庫のモーターが、かちり、と切れる音がした。そのあと、家の中は、信じられないほど静かになった。静かすぎて、耳の奥のほうで、自分の脈の音が、小さく鳴っているのがわかる。どくん、どくん、と、思ったより速い。半年、という数字は、医師に告げられた時よりも、こうして布団の中で一人になった時のほうが、体の芯まで、ゆっくりと染みてくる気がした。

枕元の時計は、二時四十三分を指していた。デジタルの「3」の右下の一画が、少しだけ欠けて見える。この時計も、俺が高校に上がる時に母が買ってくれたものだ。十年前から、壊れそうで、壊れていない。

俺は、そっと布団から抜け出した。

廊下の板は、昔と同じ場所で鳴る。俺は、鳴る位置を、体が覚えていた。三歩目、それから、七歩目。そこだけを避けて歩けば、誰も起こさない。中学の頃、深夜にこっそり台所へ水を飲みに行くたびに、自然と身についた歩幅だった。その頃、見つかりたくなかった相手は、母ではなく、二つ上の兄だった。

兄の部屋の前を、通り過ぎた。襖は、閉まっていた。十年間、ずっと閉まっている襖だ。母が週に一度、風を通すために開けて、すぐに閉める。俺は、その襖の前で、一度だけ、足を止めた。止めた自分の体に、自分で、少し驚いた。

押入れは、兄の部屋とは反対側の、階段下の納戸の奥にあった。引き戸を開けると、樟脳の匂いが、古い布団の匂いと混ざって、鼻の奥に届いた。十年前に嗅いだのと、たぶん、同じ匂いだ。俺は、下の段の、一番奥に積まれた段ボール箱の、いちばん上のものを、両手でそっと引き寄せた。

箱の表面には、油性ペンで「圭吾」とだけ書いてあった。母の字だった。「兄」でも「長男」でもなく、ただの名前。その文字だけが、この箱の中身を守っていた。書かれた「吾」の最後の撥ねが、少し、震えている。書いた日、母の手も、震えていたのだと思う。

畳の上に下ろすと、箱の底から、乾いた砂のような音が、ざり、と微かに鳴った。

蓋を開ける前に、俺は一度、手のひらを、膝の上でこすった。汗ばんでいるわけでもないのに、何か、不潔な手では触れてはいけない気がした。

ガムテープは、とうに粘着力を失っていて、指で押すだけで、乾いた音を立てて浮いた。蓋を開けると、中の空気が、ふっ、と外に出てきた。十年分の、眠っていた空気だった。

いちばん上に、色褪せた野球帽が、伏せて置かれていた。

濃い紺色のはずの帽子は、つばのあたりだけ、夏の日に灼けた跡で、茶色っぽく変色していた。ロゴの刺繍の糸が、何本か、浮きあがって、毛羽立っている。帽子の内側の、汗止めの布が、黄ばんでいた。ここに、兄の汗が染みていたのだ、と思った瞬間、指先が、ほんの少しだけ、引いた。

帽子の下に、野球のグローブがあった。革は、乾ききって、ところどころ白い粉を吹いていた。親指の付け根の紐が、一本だけ、ぴん、と、まだ張りを保っていた。グローブの指の股に、細かい砂が残っていた。十年前の、河川敷の砂だ。兄が最後に練習をした日、俺が、キャッチボールの相手をしていた砂だった。掌の皮が薄くなっているところから、中の古い革の匂いが立った。日向の、鉄くさいような、甘いような、独特の匂い。

息を、一度止めて、グローブを持ち上げた。思ったよりも軽かった。兄の手は、これに入っていたのに、今は、何も入っていない。ただ、それだけのことが、妙に、うまく、呑み込めなかった。

グローブの下に、白い封筒が、一通、横向きに置かれていた。

封は、閉じられていた。切手は、貼られていなかった。宛名の欄に、ボールペンの、少し角ばった字で、「母さんへ」とだけ、書かれていた。兄の字だった。十年前の、兄の字。

切手のない手紙は、出されることのなかった、手紙だった。

俺は、その封筒を、しばらく手の中で、持っていた。開ける権利が、自分にあるのか、ないのか、判断がつかなかった。差出人は兄で、宛先は母で、俺は、その二人の間に立つ、誰でもない。ただ、指先が、封筒の縁をなぞっているのを、止められなかった。

紙は、少しだけ、黄ばんでいた。触れると、指の腹に、乾いた繊維の感触が残った。指紋の上に、薄く、粉のようなものがついた気がして、俺は、それを、膝のパジャマにこすりつけた。こすりつけた自分の手を、すぐに、恥じた。

封は、古い糊で、すでに、ほとんど開きかけていた。そう、自分に、言い訳をして、俺は、封筒の端を、ほんの数ミリだけ、そっと持ち上げた。

中の便箋は、折り目の山のところが、茶色く焼けていた。取り出すと、紙は、思ったよりも硬くなっていて、折り目に沿って、自分から開こうとする抵抗があった。俺は、それを、広げずに、折り畳まれたまま、膝の上に、置いた。

開かなかった。

開く覚悟が、今の俺には、まだ、ない、と分かった。卑怯なことだった。でも、今夜、この便箋を開いてしまったら、俺は、何かを、取り返しのつかない場所まで、一人で、連れていってしまう気がした。兄の遺した言葉を、半年しかない自分の胸に、先に仕舞ってしまうことが、母にとって、正しいのかどうか、俺には、もう、分からなかった。

便箋は、そのまま、封筒に戻した。

代わりに、野球帽を、もう一度、手に取った。内側の、汗止めのバンドに、指を差し入れてみた。兄の頭の大きさが、そのまま、輪になって、指に触れた。俺の頭よりも、少し、大きかった。ひと回り、たしかに、大きかった。兄のほうが、体も、肩幅も、ぜんぶ、俺より大きかったことを、帽子のサイズが、いまさら、思い出させた。

グローブを、左手にはめてみた。指が、うまく収まらなかった。兄の指は、俺より長かった。中指の先が、グローブの中で浮いて、余った革の部分に、少しだけ、届かないでいる。その届かない感じが、妙に、本物だった。

兄の形が、ここにはあった。

俺の形は、ここには、なかった。

半年後、俺のいなくなったあとで、俺の何かを、箱に詰めるのは、誰になるんだろう、と思った。母だろうか。美穂だろうか。その時、母の手は、「悠人」という、三文字を、どんな風に書くのだろう。兄の時よりも、震えるのか、震えないのか。そんなことを考えてしまった自分が、急に、ひどく、汚いもののように感じられて、俺は、グローブを外し、丁寧に、箱に戻した。

気づけば、右手の甲の上に、透明な、小さな粒が、ひとつ、落ちていた。

落ちた、と思った時には、もう一つ、増えていた。粒は、手の甲の皮膚の上で、少しだけ、転がって、そのまま、ゆっくりと、横に広がった。

声は、出さなかった。声を出したら、階下の母に、聞こえてしまう気がした。肩が震えるのを、俺は、左手で、抑え込んだ。抑え込むほどに、右の目尻から、粒は、もう一つ、もう一つと、静かに、落ち続けた。

「――相変わらず、泣き虫だな」

背中のほうから、声がした。

低くて、少しだけ掠れた、懐かしい声だった。中学の頃、俺が転んで膝を擦りむいた夕方、同じ調子で、同じ言葉を、兄は、俺に、かけたことがあった。

俺は、手の甲で目尻を拭うことも、振り返ることも、できなかった。ただ、膝の上に開いたままの段ボール箱の中の、「圭吾」という母の文字を、ぼんやりと、見つめていた。

納戸の小さな窓から差し込む、明け方前のかすかな青い光が、畳の上を、一本の線で、切っていた。その線のすぐ後ろ、ちょうど、俺の肩越しのあたりで、誰かの気配が、ゆっくりと、床板を踏まずに、立っているのが、分かった。

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