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兄の輪郭、俺の半年

第2話 第2話

第2話

第2話

実家の玄関は、十年前と同じ匂いをしていた。

三和土の隅に置かれた父の革靴。その左の靴底の端が少しだけ剥がれかけているのも、あの日のままだった。俺は自分のスニーカーを、その靴の隣にきちんと揃えてから、廊下に上がった。

「悠人? 早かったのね」

台所から母の声がした。包丁がまな板を叩く音が、規則正しく続いている。とんとん、とん、とんとん。昔、俺がテレビの前で宿題をしていた夕方、背中で聞いていた音だ。音そのものは、たぶん、全く変わっていない。ただ、その音を聞いている自分のほうが、変わってしまったのだろうと思った。

「うん。今日はちょっと、早く上がれたから」

嘘だった。会社には結局、戻らなかった。駅から真っ直ぐ、実家に向かう電車に乗り換えただけだ。乗り換えた時の理由は、自分でも、まだ、ちゃんと説明できていない。

廊下を進むと、台所の磨りガラス越しに母の丸まった背中が見えた。エプロンの紐が腰のところで結ばれていて、その結び目が少し曲がっている。曲がった結び目に、俺は子供の頃から、いつもなんとなく目が行く。

「夕方に電話してくれたら、お父さんの分も作ったのに」 「いや、適当でいい」 「あんた、いつもそればっかり」

母は顔をこちらに向けずに笑った。笑ったと思う。頬のあたりが、ほんの少しだけ上がった気がした。俺は返事をしないまま、茶の間の卓袱台の前に腰を下ろした。畳のへりのところの藺草が、膝の裏でかすかに鳴った。この音も、昔のままだ。この家では、たぶん、畳だけが、俺より正直に時間を刻んでいる。

仏壇の脇に、兄の写真が変わらず立っていた。野球部の道着で、少し照れたように笑っている、十八歳の夏の兄だ。線香皿は新しく掃き清められていて、端のところに一本だけ、燃え残った線香の軸が刺さっていた。母は毎朝、まだ線香を上げているのだろう。十年経っても。

「ごはん、もうちょっと待っててね」

台所から、母の声がもう一度した。

「ん」

短く答えて、俺は卓袱台の上に置かれた醤油差しを、意味もなく指でつついた。蓋の金具が緩んでいて、押すたびに、かちゃ、と小さく鳴る。十年前にも、この蓋は同じ鳴り方をしていた気がした。

玄関のほうで音がした。誰かがドアを開けて、鞄を上がり框に放り投げるような、遠慮のない音だ。

「ただいまー。あ、お兄ちゃんの靴だ」

妹の美穂の声が、廊下を走って近づいてきた。茶の間の引き戸を勢いよく開けると、美穂は俺の顔を見て、一度、目を丸くして、それから、笑った。

「びっくりした。なんで来てんの? 日曜でもないのに」 「……会社、早く終わっただけ」 「ふうん」

美穂はそれ以上訊かずに、自分のバッグを卓袱台の端に置き、カーディガンを脱いで椅子の背にかけた。袖口のボタンが一つ、糸から外れかけているのが見えた。春物の、くすんだベージュのカーディガンは、俺が去年の誕生日に贈ったものだ。まだ着てくれている、ということに、指先のほうがさきに反応して、卓袱台の縁をそっと撫でた。

「お母さん、手伝うよ」 「いいから、座ってな。今日は悠人がいるから」 「えー、なにそれ、贔屓じゃん」

美穂は笑いながら、俺の向かいに腰を下ろした。座る瞬間、卓袱台の脚が畳の上でわずかにずれて、醤油差しが小さく揺れた。蓋が、かちゃ、と鳴った。

「お兄ちゃん、ネクタイ曲がってるよ」

言いながら、美穂はそのまま自分の指で、俺の胸元のネクタイを、ひょいと真っ直ぐに直した。指が胸に触れた時間は、一秒もなかったと思う。それでも、布越しに、他人の熱が伝わってきた。自分の体が、こんなに冷えていることに、俺はそこで、ようやく、はっきり気づいた。

「……ありがとう」 「社会人がネクタイぐらい直しなよ、って感じだけど」

美穂は首をすくめて笑った。笑う時の、右側の口角だけが少し強く上がる癖は、たぶん、死んだ兄とよく似ている。本人は、知らないままだ。

母が、大ぶりの器を両手で運んできて、卓袱台の真ん中にそっと置いた。里芋と鶏肉の煮物だった。湯気が、天井のほうへまっすぐ立ち上がって、蛍光灯の光の中で、一度大きく揺れた。

「わあ、お母さんの煮物、久しぶり」 「悠人が、好きだったでしょう」

母は俺のほうを見ずにそう言って、台所へ戻っていった。俺は箸を取り、里芋を一つ、自分の皿に取った。皿と箸の当たる音が、やたらと大きく、茶の間に響いた気がした。

里芋の角は、昔のまま、少しだけ残してあった。母は、俺の箸が当たる側に、いつも角を残す。崩れにくいからだと、昔、一度だけ理由を聞いた。崩れにくい方を、子供のほうに向けてくれていた、ということを、子供の頃の俺は、ちゃんとは、分かっていなかった。

口に運ぶと、出汁の味が、舌の奥の、まだ覚えていた場所にするりと戻ってきた。砂糖と醤油の加減。椎茸の戻し汁。鶏の脂の、ほんの少しの重さ。何も変わっていない味だった。変わっていない、ということが、急に、喉の奥を詰まらせた。

俺はゆっくり噛んで、飲み込んだ。飲み込むのに、普段の二倍くらいの時間がかかった気がした。

「おいしい」

やっとの思いで、それだけ言った。

「そう?」

台所から、母の声が少し遅れて返ってきた。うれしそう、というほどでもない声だった。ただ、息の先に、何か軽いものが乗っている感じが、確かにあった。

「悠人、最近、仕事どう?」

向かいで、美穂が煮物の大根を狙いながら訊いてきた。

「……普通」 「またそれー。普通って、ずるい返事だと思うんだけど」 「普通だから普通って言ってる」 「残業多いの?」 「まあ、それなりに」

話しながら、俺は頭のどこか後ろのほうで、今、言えばいいんじゃないか、と思っていた。普通じゃない。半年だと言われた。会社には、たぶん、もう、戻らない。言葉は、どれもちゃんと頭の中にあった。ただ、それを舌の上にのせる経路が、今日はどうしても、開かなかった。母が向こうで茶碗を置く音がした。ことん、と軽く、ひとつ。その音が、この家の時間のリズムを、静かに守っている気がした。そのリズムの中に、半年、という数字を落とすのが、今夜は、どうしても、できそうになかった。

「お母さんって、煮物だけは本当にうまいよね」 「だけ、は余計でしょう」 「ほかも、まあ、うまいけど」 「まあ、って何」

台所のほうで、母と美穂の、ほとんど意味のないやりとりが、軽く行ったり来たりした。俺はその間、ただ、箸を動かしていた。里芋、大根、鶏肉、人参。順番に口に入れて、順番に飲み込んだ。途中で一度、人参が、思ったよりやわらかく煮えていて、箸の先でふっと崩れた。崩れた断面に、出汁の色が、じわ、と滲んでいた。その滲み方を、俺はなぜか、長いあいだ見ていた。

茶碗を持つ右手が、気づけば、少しだけ震えていた。大きく震えているわけではない。湯気越しに見ないと気付かない程度の、ほんの細かい震えだった。俺は左手をそっと右手の甲に重ねて、震えを、卓袱台の下に隠した。隠すつもりはなかった。ただ、いま、美穂にも母にも、見せるべきではない、と、体のほうが先に決めていた。

母が、湯呑みを三つ、盆にのせて運んできた。茶の色は濃かった。番茶だ。子供の頃、風邪をひいた日に、母が必ずこれを入れてくれた。熱かった、と記憶している。今日の湯呑みも、たぶん、同じくらいに熱い。俺は、触れるのが少しだけ怖くて、茶碗の脇に置かれたそれを、しばらくそのままにしていた。

「――お兄ちゃん」

ふいに、美穂の声が近くなった。

顔を上げると、卓袱台の向こうから、美穂が少しだけ身を乗り出して、俺の顔を覗き込んでいた。前髪の隙間から、まっすぐな目がのぞいていた。笑っていなかった。笑っていない美穂の顔を、俺はいつぶりに見ただろう、と思った。

「大丈夫?」

たった三文字の、ひどく平凡な問いかけだった。

胸の内側の、薄い膜に張り詰めていた何かが、その三文字で、ほんの少し、波打った気がした。俺は、口の端を、たぶん、笑ったかたちに動かした。動いた、と思う。

「……ん、大丈夫」

そう言った時には、俺の視線は、もう美穂の顔ではなく、湯呑みから立ち上る細い湯気の、揺れているほうに、逃げていた。逃げた、と自分でもはっきり分かった。番茶の湯気は、ゆらゆらと天井へ昇っていって、蛍光灯の光の手前で、形を失くして消えた。美穂はそれ以上、何も言わなかった。ただ、箸を持ち直す小さな音が、向かいでひとつ、した。

台所のほうで、母が、また包丁を動かし始めた音がした。とんとん、と。その音だけが、俺のかわりに、何かを、続けていた。

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