第1話
第1話
「半年、というのはあくまで目安です」
医師の声は、壁に貼られたポスターの角が少し剥がれているのと同じくらい、淡々としていた。剥がれた角は、空調の風で時々小さく揺れている。俺は数秒、その揺れだけを見ていた。それから隣に座る母の手に視線を落とした。
母の右手が、膝の上で小さく震えていた。握られた拭きすぎたハンカチの端から、糸が一本、毛羽立って垂れている。指は震えているのに、その糸の先だけが妙にずっと止まって見えた。一方で、自分の指先は嘘みたいに冷たく乾いていた。爪の先まで血が通っていない気がして、俺はそっと机の縁に手のひらをつけた。ひんやりとした木の感触が、誰か他人の手のほうに戻ってきたように感じた。
医師は何か付け加えた。治療の選択肢、という単語が耳に触れた気がするが、ちゃんと意味として届かなかった。母が何度も頷いている。頷くたびに、灰色がかった髪の一筋が耳の横で跳ねる。その毛の動きだけが、俺にとって今、世界で一番はっきりした事実だった。
二十八歳の春、俺は半年先の自分がいない予定を、受け取った。
会計を済ませ、自動ドアを抜けると、外は思いがけず晴れていた。四月の、まだ少し冷たい風が前髪を持ち上げる。病院の庭先で、花壇のチューリップが首を揃えて風に傾いていた。母は俺より半歩後ろを歩いていた。手を繋ぐには、俺たちは年を取りすぎていたし、そうしたいと思うには、長く離れすぎていた。
「お昼、どこかで食べる?」 母がそう訊いた。いつもの母の声だった。箸を置く時の声、玄関で「行ってらっしゃい」と言う時の声。ただ、語尾がほんの少しだけ擦れていた。 「いい。会社に戻らないと」 本当は戻るつもりはなかった。 「……そう」 母はそれ以上訊かなかった。バス停のベンチに並んで座り、二人とも黙ってバスを待った。右隣で、母のコートの裾が風に鳴っていた。その音だけが、しばらく俺たちの間の沈黙を埋めていた。母の横顔を、盗み見るように一度だけ見た。目尻の皺は、去年の正月に会った時より、確かに何本か深くなっていて、化粧の白い粉が薄くそこに溜まっていた。母は、バス停の時刻表を、何度も、何度も目で追っていた。読んでいるようで、たぶん、読んではいなかった。読む必要がないほど、この路線の時刻は頭に入っているはずで、それでも視線の置き場所が他にどこにもなかったのだと思う。母の膝の上のハンカチは、さっきよりも小さく固く握り直されていて、毛羽立った糸はもう見えなかった。
俺は、何か言わなければいけないことがあるはずだと思っていた。母さん、ごめん。とか、大丈夫。とか。どれも喉の手前まで来て、そこで止まった。音にならずに、胸の底へ沈んでいく。
バスが来て、俺は母を先に乗せた。扉が閉まる直前、振り向いた母が、口を開きかけて、すぐに閉じた。何か言おうとして、たぶん、言わないでおくことを選んだ。そういう選び方を、俺たち親子はずっとしてきた気がする。
母を乗せたバスが遠ざかると、交差点の信号の音がやたらと大きく聞こえた。ぴ、ぴ、ぴ、という電子音の粒が、耳の奥に一つずつ刺さる。俺は、そのリズムに合わせて、ゆっくりと駅の方へ歩き出した。
駅まで歩く間、ポケットの中でスマホを何度か握り直した。画面を開くたび、妹の名前が一番上に出てくる。最後のやり取りは二週間前の、たった二行だった。「誕生日おめでとう」「サンキュー」。あれが、俺の兄としての今のところ最後の言葉らしい。
平日の昼下がりの下り電車は、いつもがらがらだ。窓際の席に腰を下ろすと、向かいの窓ガラスに、見たことのない男の顔が映った。
俺の顔のはずだった。髪型も、ネクタイの歪みも、昨日の夜、風呂上がりに鏡で見た通りだ。けれど、その輪郭の内側にいる誰かが、俺ではないような気がした。頬骨の影、目の奥の空洞、あごの線。どれも、どこかの他人のもののように、ガラスの上で少しだけ浮いていた。
電車が動き出し、線路沿いの桜並木が窓の外を流れていった。散り際の花びらが車窓に張り付いて、すぐに剥がれる。張り付いている間だけ、白い点が俺の額の辺りに重なっていた。十年前、兄が死んだ日も、こんな光の具合だった気がする。
圭吾兄ちゃん。
声には出さなかった。出したら何かが壊れる気がして、俺は下唇を軽く噛んだ。血の味は、しなかった。兄が事故で逝ったのは十八歳の夏で、俺は十八歳の夏の兄を追い越してから、もう十年が経つ。兄が死んだ日、俺は病院の廊下のベンチで、自分の運動靴の紐を見ていた。ほどけていた。結び直そうとして、指先が動かなかった。あの日の指と、今の指が、同じ冷たさをしているのが、おかしい、と思った。笑えないのに、喉の奥だけが妙にむずむずした。あの日、廊下の蛍光灯は一本だけ切れかけていて、じ、じ、と一定の間隔で瞬いていた。その瞬きの間に、誰かが早足で通り過ぎ、別の誰かがゆっくりと戻ってくる。母は診察室の扉の前で、両手で口を押さえたまま、ずっと動かなかった。父は、俺の二つ隣のベンチで、膝の上に拳を置いていた。拳の甲に、ぴんと一本、太い筋が浮いていて、俺はその筋のことだけを、長いあいだ見ていた。兄の名前を、結局、俺はあの日、ちゃんと声に出して呼ばなかった気がする。呼び損ねた名前は、十年経っても喉の奥に居座り続けるのだと、今日の今日まで知らなかった。
半年、という数字には、ふしぎとまだ実感がなかった。怖い、という感情のかたちもまだ見えなかった。ただ、胸の真ん中に薄い膜のようなものが張って、そこから内側がじわじわと乾いていく感覚があった。指先の冷たさは、外気のせいじゃないのだと、ようやく分かった。数字というのは、ふしぎなものだと思った。三ヶ月、と言われていたら、たぶん、俺はあの診察室で泣いていた。一年、と言われていたら、まだ猶予だと勘違いできたかもしれない。半年、というのはちょうど、取り乱すには長すぎて、平気でいるには短すぎる、そういう長さだった。医師はきっと、計算してその数字を口にしたわけではない。ただ統計の真ん中を、なるべくやわらかい言葉で置いただけだ。それでも、俺はこの半年という長さを、これから一人で抱えて歩くのだろう、と思った。
各駅停車が、三つ目の駅で少し長めに停まった。向かい側のホームに、制服姿の高校生が四、五人、大きな声で笑っていた。笑い声はガラス越しに少し遠くなって、耳に届く頃には水の中の音のように膨らんでいた。俺はその笑い声を、特別な感情を伴わずに、そのまま聞いた。
窓の中の男が、ふいに俺に重なった。重なったと思った次の瞬間、またわずかにずれた。俺の方が、窓の男よりも半歩後ろに立っている気がした。自分の体のほんの少し後ろから、自分の後頭部を見ているような、頼りない感じ。輪郭、と頭の中で呟いてみた。輪郭が、薄い。その薄さは、光の加減でもピントのずれでもなく、たぶん、俺自身の問題だった。
母に言わなくてはならない。妹にも、いつかは。会社にも、たぶん、来週までには。言わなくてはならないことのリストを、頭の中でそっと並べてみた。並べると、どれも紙のように軽くて、風が吹けば全部持っていかれてしまいそうだった。
電車がゆっくり動き出す。誰かの鞄の金具が、遠くでかちゃりと鳴った。俺はその音を、なぜか、ずっと耳に残しておきたいと思った。
地元の駅で降りた。改札の手前で、一瞬立ち止まる。ここを抜けたら、いつもの角を曲がって、いつものアパートに帰って、いつも通りの夜を過ごす。冷蔵庫にはまだ、昨日の残りのサラダが入っている。テレビをつけて、笑うところで笑って、眠る。明日も、たぶん、そうする。
そのどれもが、悪くなかった。悪くないと思えることが、いちばん、怖かった。
ICカードをかざすと、改札の機械が短く鳴った。俺のことを、半年後にいなくなる人間としては認識していない音だった。通り抜ける時、自分の肩が扉の柱とわずかに擦れた気がして、俺はちらりと振り返った。
誰もいなかった。振り返る必要なんて、本当は、どこにも、なかったのだ。
駅前の桜の木が、風で一度、大きく揺れた。足元に、花びらが一枚、ゆっくりと落ちてきて、靴のつま先の手前で止まった。俺はしばらくそれを見下ろしてから、踏まないように半歩だけ避けて、一歩、踏み出した。肩の少しうしろで、自分の輪郭が、また少し遅れてついてきたような気がした。