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金髪の嘘、眼鏡の真実

第3話 第3話

第3話

第3話

朝、眼鏡をかけ直した鏡の中に、机の上のウィッグがまだ映っていた。昨夜、音を立てて置いたままの場所に、金色の毛束がひと塊、ひしゃげた猫のように横たわっている。俺は手のひらでそれを集め、クローゼットの奥の紙袋にしまった。ジッパーを閉じる音が、思ったより硬く鳴った。

歯を磨きながら、口の中に残った昨夜の言葉を探した。「NOIZっていうバンドの、ギターの人」。泡と一緒に吐き出しても、舌の付け根のあたりに、まだ一文字ずつ沈んでいる。歯ブラシの柄を、右手から左手に持ち替えた。どちらで磨いても、奥歯の一つが磨き残しになった。

階段を降りる途中、母親の後ろで、冷蔵庫の貼り紙が揺れた。ゴミ当番表。可燃ごみ水曜、と書かれた文字の上に、二年前の真澄の筆跡が、消しゴムで擦った跡の下に、まだ薄く残っている。中学の頃、真澄の家のゴミ袋と俺の家のゴミ袋を、一緒に出しに行っていた時期があった。その筆跡を、母親はわざと消していない。俺も、わざと消していない。

「ご飯は?」 「いい」

冷蔵庫の麦茶を、立ったまま一杯だけ飲んだ。のどを通った液体が、胃のあたりで、一度、小さく跳ねた。母親の背中は、何か聞きたそうな気配を一度だけ揺らして、それから、鍋の中の音に戻っていった。

玄関で靴を履く時、胸ポケットのスマホが軽く震えた。椿からの催促だ、と震え方で分かった。『レン、録りの件、今夜よろしく』。俺は返信せずに、ドアを閉めた。

自転車のタイヤがアスファルトの小石を踏んだ。真澄とは、二年前から登校時間を三十分ずらしている。今朝もまだ、その仕組みは、壊れていなかった。校門まで十五分、俺は一度もスマホを見なかった。見たら、昨夜のチャットの既読だけが、こちらを睨み返してくる気がした。

教室の席で、俺は午前中の時間を、普段より正確に処理した。数学の手続きを、英語の文法を、現代文の線引きを、一つずつ片付けた。考え事をしたくなかった。

二時間目と三時間目の間の休み時間、伊賀が寄ってきた。 「瀬戸、先週の英単語テスト、返ってきたらしいぞ」 「ふーん」 「お前、満点だって。俺の七十五点、返して」 「貸してない」

伊賀は笑って別の席へ行った。俺の左手の指が、机の木目の同じ節を、三度、なぞっていた。木目の節は、爪で押すと、わずかにへこむ深さがあった。

四時間目の日本史、俺はノートの隅に、四角い枠を一つ描いた。その中に、小さく、三万二千百四十、と書いた。昨夜、路地で真澄の横顔を見た時に頭を掠めた数字だ。書いてから、消しゴムで丁寧に消した。消したあとに、紙の凹みが、斜めに残った。指で撫でると、消した数字の輪郭が、まだ触覚で読めた。

昼休み、中庭を見ないように席を立った。廊下を二つ曲がって、教務課の前を通った時、部活動入部届の棚の前で、一度だけ立ち止まった。透明な樹脂ケースの中、A4のプリントが二十枚ほど積まれている。指が伸びかけて、止まり、またポケットに戻った。「まだ考える時間はある」と、頭の中で誰かが言った。その誰かは、昨夜の路地の風と、真澄の肩の毛玉を、今週中に俺に忘れさせる気でいる。

食堂の窓際の端で、日替わり定食を広げた。鶏の唐揚げが三つ、揚げすぎで角が黒くなっている。俺は一つだけ食べて、残りを箸で転がした。衣の焦げが、舌の奥で、ざらりと砂のような苦みを残した。味噌汁の表面に、油の輪が二つ、ゆっくりと近づいて、ひとつになった。

隣のクラスの女子が、友達と笑いながら通り過ぎる。その後ろに、ひとり遅れて、真澄がいた。

俺と目は合わなかった。真澄は食堂の奥まで進み、うどんを受け取って、壁際の席に、誰かの隣に座った。その横顔が、ふと、こちらを振り向きかけて、止まった。止まって、うどんの湯気の向こうに、顔を戻した。湯気は、真澄の前髪を一度だけ揺らし、それから天井の蛍光灯の方へ、頼りなくほどけていった。

トレイの箸が、俺の指の中で一度、跳ねた。指の節に、箸の角が当たった痛みが、心音より一拍遅れて、届いた。

五時間目の予鈴が鳴る。俺は食堂を出た。廊下で、真澄とは、二度すれ違わなかった。ずらす仕組みは、まだ壊れていない。けれど、食堂の奥、真澄が座っていたその席は、窓を背にしていた。背もたれの向こう、中庭のベンチに、彼女のギターケースが立てかけられたまま、持ち主を待っていた。

放課後、駅前のスタジオB号室、いつもより十五分早く着いた。

鏡の前で、シャツのボタンを上から二つ外し、眼鏡を外し、コンタクトを入れる。バッグからウィッグを出して、両手で持つ。

そこで、手が止まった。

鏡の中の瀬戸陸が、金髪の束を持ったまま、こちらを見ている。昨日までと同じ手順、同じ位置、同じ蛍光灯。違うのは、鏡の中の男の目の奥だった。瞼のすぐ裏に、昨夜の真澄の横顔が、一枚、貼りついている。

被れば、NOIZのレンになる。レンになれば、真澄の『好きな人』になる。なった瞬間、次に真澄と会う俺は、二重の嘘を持って、彼女の正面に立つ。

選択肢は、三つだった。

一つ。NOIZの運営DMから、真澄の高校の文化祭にゲスト出演すると返信する。椿が通すはずのない案件だ。仮に押し通しても、ステージに立った瞬間、真澄は俺の左手の動きを、最前列で見る。中三の冬、俺の家のリビングで並んでFのコードを押さえた、あの指の角度を。

二つ。NOIZを辞める。椿に、進路の話か体調の話か、適当な理由をつける。辞めれば、正体も希望も、同時に消える。三万二千百四十人の、それぞれの夜も、一緒に消える。

三つ。

俺は、金髪の束を、膝の上に下ろした。ウィッグの内側に、昨日までの俺の汗のシミが、頭のかたちで、うっすらと輪郭を残している。そのシミを、指の腹で、一度だけ撫でた。指先に、塩気の薄い湿り気が、わずかに戻ってきた。蛍光灯の白さが、その湿り気の上で、針の先ほどに反射した。

三つ目の選択肢は、口に出さなかった。出さないまま、舌の裏で、形を確かめた。歯の裏側を、舌の先がなぞる。その温度だけが、誰にも聞こえない返事だった。

軽音部に、入る。NOIZのレンとしてではなく、瀬戸陸として。コードを知らない初心者のふりをして、入部届を書く。廃部の動員数の、一人ぶんになる。真澄の隣で、真澄が愛している音と同じ人間の指で、しかし別人として、ギターを弾く。

嘘だ。根本から、嘘だ。嘘の上に、真澄が立ち、笑い、ギターを抱える。その全部が、俺の嘘の上に、積まれる。

でも、真澄を守れるのは、この嘘だけだった。NOIZの名前を出せば、一度きりの花火で、部は終わる。辞めれば、真澄の冬の夜が、二度と救われない。残るのは、毎日、嘘を、一音ずつ積んでいくことだった。

鏡の中の男が、金髪を両手で持ち上げ、ケースの中へ、そっと戻した。ケースの蓋を閉じる時、留め金が小さく鳴った。アイラインも、引かなかった。コンタクトを外して、眼鏡をかけ直した。

鏡の中に、瀬戸陸だけが残った。

スタジオのドアが、外から叩かれた。 「レン、来てる?」

椿の声。俺はドアを細く開け、顔だけ出した。 「ごめん、今日、体調悪い。帰る」 「わかった。録り、明日に回す。家、送る?」 「大丈夫」

椿は俺の目を一秒だけ覗き込み、頷いて、廊下の奥へ消えていった。コーヒー豆の匂いが、残り香として、数秒だけ、ドアの隙間に残った。俺は、息を、初めて、深く吐いた。吐いた先の鏡に、眼鏡の瀬戸陸が、まだ、ここに残っていた。

家に帰り、机に座った。明日、教務課の棚から取る入部届の下書きを、ルーズリーフで始めた。

名前欄に、瀬戸陸、と書く。筆圧は、数B小テストの時と同じ。活動したい部活動の欄で、ペンの先が、一度だけ止まった。

軽音楽部、と書いた。

書き終えて、ペンを置いた。スマホを手に取り、真澄のチャット画面を開く。昨夜の『迷惑だったよね』の下、俺の返信欄は、まだ空白のままだった。

指が、一行だけ入力した。

『軽音部、俺、入っていい? 下手だけど』

送信する前に、息を一度、深く吸った。明日の朝、真澄の目が、瀬戸陸に向かって、どんな角度で開くのか。その角度を、俺は、はじめて、正面から見ることになる。

親指を、画面に下ろした。

送信済み、の三文字が、画面の右下に、静かに灯った。クローゼットの奥で、紙袋の中のウィッグが、まだ、俺の汗の匂いを残している。その匂いを、明日、俺は、制服の下に隠して、学校に持っていく。

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