第2話
第2話
「NOIZっていうバンドの、ギターの人」 真澄のその一言が、コンビニの冷気と混ざって耳の奥に貼りついた。 俺の喉の奥で、一度だけ、何かが詰まる。声を出さなくてよかった。声を出していたら、スタジオで拭き損ねたアイラインの跡が、たぶん滲んでいるのがバレていた。 「——そう、なんだ」 自分の声が、思ったより低く出た。眼鏡のブリッジを、指で押し上げる。レンズの内側に、雑誌コーナーの蛍光灯が二本、細長く映っていた。 真澄は俺の顔を一度見て、それから視線を床のタイルに落とした。ローファーのつま先が二歩だけ前に出て、また戻る。彼女の靴の先、小さな傷が一つ。あれは中三の春、駐輪場で自転車に引っかけてついた傷だ。俺は、覚えている。覚えていたくないのに、覚えている。 「なんで、俺に言うの」 言ってから、しまった、と思った。距離を取り直したかったのに、逆の言葉が出た。 真澄は唇を一度だけ噛んで、それから小さく笑った。笑い方の形が中学の頃と同じで、俺は目を伏せた。 「陸しか、いないから」 雑誌コーナーの冷蔵庫が、低く唸り始めた。俺の胸ポケットで、スマホが一度、短く震える。椿からの未読だと、リズムで分かった。「もうスタジオ出ちゃった?」の、たぶんそれ。
「話、聞いてくれる」 真澄は俺の返事を待たずに、自動ドアの外へ歩き出した。電子音と一緒に、五月の夜の生ぬるい風。俺はついていく。家までの路地、街灯が三本おき。真澄の背中は、中学の頃より少し高くなっていた。肩甲骨の位置が記憶より上にあって、俺は、無意識に歩幅を合わせた。 どこかの家から、食器を洗う水音が窓の隙間をつたって漏れてくる。犬の鳴き声が、二軒先で一度だけ上がって、すぐに静まった。真澄の髪の先が、歩くたびに、制服の肩の上で小さく跳ねている。その跳ね方に、俺は見覚えがあった。中学の教室で、彼女が振り返るたびに、同じ跳ね方をしていた。忘れていた記憶が、夜風の温度に溶かされて、順番に浮かび上がってくる。 「軽音部、廃部になりそうなの」 歩き始めてすぐ、真澄はそう言った。俺は息を整える。昼休み、廊下越しに聞こえたあの懇願の声が、今度は隣から、同じ角度で届く。 「あと一ヶ月、って、顧問が」 「うん。動員のないバンドに部室の電気代は使えない、って。去年からずっと言われてて。私以外の部員、ベースの先輩と、ドラムの子、二人だけなの。今年の一年、誰も入らなかった」 「ベースの先輩、もう就活で、秋までしか続けられないんだって。ドラムの子は、吹奏楽と掛け持ちで、あっちが本命で。三人のうち、夏を超えられるのが、たぶん私だけなの」 真澄は言葉を切って、小さく笑った。笑いの終わりで、息が少し震えていた。自分の呼吸が震えたことに、彼女自身は気づいていないようだった。 真澄は路地の途中で立ち止まり、ガードレールの白い塗装に指先を置いた。その指の爪が短い。ピック爪ではない、普通の切り方で、深爪気味に。俺の爪とは違う、真っ直ぐな切り口。 「それで、何でNOIZ」 自分の喉が、その三文字を口にしているのが、遠くで聞こえた。 真澄は黙ってスマホを出し、画面を俺に見せた。NOIZ公式アカウント、ピン留めされた去年夏のショート動画。シルエット越しに弾かれているイントロが、小さくスピーカーから漏れている。あれは、俺がアンプの下に座って、椿の唾を浴びながら五回録り直したフレーズだ。 画面の中のシルエットは、俺の肩幅を、俺の指の角度を、正確にトレースしていた。その輪郭を、隣にいる真澄が、息を詰めて見ている。俺は息を止めた。止めたことに、自分で気づかないふりをした。スピーカーの中の自分の音が、他人のもののように、路地に小さく響いては消えていく。 「中三の冬。滑り止めも落ちて、本命もダメかもって夜に、偶然これが流れてきて。寝れなくて、ずっと聴いてた。それで、朝、模試の過去問、一問だけ解けたの。一問だけ。でも、一問解けたから、次の日も起きれた」 真澄の横顔に、街灯の光が斜めに当たっている。頬の産毛が、逆光で一本ずつ浮かび上がっていた。ブレザーの袖口から、彼女の手首が覗いている。細い骨の上で、血管の青が、一本、はっきり見えた。中学の頃より、ずっと痩せた気がした。受験のあとの一年間で、何かを削って、その上に今の真澄が立っているのだろう。俺は、三万二千百四十、という数字を頭の隅で数えた。その数字のうちの一人が、今、隣で深呼吸をしている。 三万二千百四十——先月の配信サイトで計測された、NOIZの月間リスナー数。椿が朝のミーティングで、自分の爪を噛みながら読み上げた数字だった。その数字が、いま、肉を持って、体温を持って、俺の左側に立っている。一人ずつ、こういう夜があったのだと、はじめて、頭より先に肋骨の下で理解した。 「文化祭前の、新入生歓迎ライブ。動員が集まらなかったら、廃部確定。でも、もし、NOIZがゲストで来てくれたら——」 そこまで言って、彼女はもう一度、唇を噛んだ。 その仮定形の語尾が、五月の生ぬるい風にほどけて、路地のどこかへ落ちていった。ゲストで来てくれたら、動員が集まる。動員が集まれば、廃部にならない。真澄の中では、その三段論法が、完成形の希望として組み上がっているのが、俺にもわかった。だから彼女は、最後まで言えなかった。言ってしまったら、希望そのものが、口から出た瞬間に軽くなって、消えてしまう気がするのだろう。 「無理だよね。分かってる。分かってるけど、でも、陸、中学の時、母さんのギター、弾き方調べてくれたじゃん。連絡取れる方法とか、知らないかなって」 俺は、自分の胸ポケットの重さを意識した。NOIZの運営DMは、このスマホの中にある。タップすれば、五秒で、真澄の願いに返信できる。
「俺、軽音なんて弾けないよ」 反射で、そう答えていた。 真澄は一瞬きょとんとして、それから、笑った。 「勧誘してないよ、陸のことは」 「あ、いや」 「陸は勉強でしょ。学年五位、落ちたらもったいないし」 路地の角で、一度だけ、猫が鳴いた。俺はその猫を目で探したが、どこにもいなかった。 「でも、ありがと。聞いてくれただけで」 真澄は小さく頭を下げた。深く下げ損ねた、中途半端な角度。昼休み、職員室の前で下げていた深い角度とは、違う。これは、俺にだけ向けた、遠慮の形だった。その遠慮のかたちが、胸の、肋骨の下の方に、鈍く当たった。 「家、近いよ、送らなくていい」 真澄は先に踵を返した。歩き出す前に、一度だけ、ガードレールを軽く叩く。中学の頃、テスト前の俺の家のチャイムを押す前に、必ず真澄がやっていた癖だ。忘れていたはずの仕草が、夜の住宅街の中で、ぽとりと落ちた小石みたいに転がっていた。 彼女の背中が、街灯の光の輪から外れて、暗がりに沈む瞬間、真澄は一度だけ立ち止まった。 「陸」 振り向かずに、彼女は言った。 「さっきの話、忘れてくれていいから」 肩が、ほんの少しだけ震えていた。泣いているのか、笑っているのか、俺の角度からは、判別できなかった。ただ、制服の肩に、小さな毛玉が一つ、街灯の逆光で白く光っているのだけが、見えた。 俺は何も言えず、頷くこともできずに、彼女が角を曲がるまで、突っ立っていた。真澄の姿が消えてから、俺はゆっくりと、自分の家ではない方向——駅前のスタジオの方角に、体を向けた。 けれど、一歩目が、出なかった。 スニーカーの底が、アスファルトの小石を一つ、蹴った。音は、夜の住宅街に、思ったより大きく響いた。
スタジオには戻らなかった。 家のドアを開け、リビングを横切り、二階の自室に入って、電気をつけずに鏡の前に立った。クローゼットの奥から、金髪のウィッグを取り出す。ピンを抜く、一本、二本。 手のひらで、ウィッグの内側を撫でた。俺の頭の汗が染みた内側は、俺の匂いがした。瀬戸陸の匂いでも、NOIZレンの匂いでもない、中間の、誰でもない人間の匂いだ。 スマホが震えた。椿からのメッセージ。「レン、木曜までにギター二本録り直しね」。それから、もう一件。 日向真澄から。 『今日、いきなりごめんね。迷惑だったよね』 俺はウィッグを両手で持ったまま、その画面を、しばらく見ていた。返信のドラフトに、「迷惑じゃない」と打って、消して、「大丈夫」と打って、消した。 鏡の中に、ウィッグを持った瀬戸陸がいた。頭の上ではなく、手の中にある金髪を、鏡の中の彼は、じっと見つめていた。 明日、真澄は、また一人で職員室の前に立つのだろうか。 俺は、ウィッグを、机の上に、音を立てて置いた。