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金髪の嘘、眼鏡の真実

第1話 第1話

第1話

第1話

指の腹に、弦の感触がまだ残っていた。 昨夜、駅前のスタジオで二時間。十二弦目のFはやはり押し切れていない。爪のあたりに、弦の溝が薄く残っている。それを上履きの中で何度かこすってから、俺は教科書のページをめくった。 五月の朝、教室の窓は半分だけ開いている。風にはまだ冷たさが残っていて、誰かのワイシャツの肩を膨らませた。前の席の女子が振り返って何か言い、後ろの席の男子が笑った。何の話かは聞こえない。聞かなくていい。 「瀬戸、今日の数Bの小テスト、答え見せて」 斜め前の席の伊賀が、半笑いで手を伸ばしてくる。俺は黙ってシャープペンを動かし、答案の角を伊賀の方へずらした。 「はー、神。瀬戸センセ、今日も学年五位の威厳」 威厳ではない。ただ、彼にとって俺は便利な道具で、俺にとって彼は害のない他人だ。それで丁度いい。 眼鏡のブリッジを指で押し上げる。視界の右下、ワイシャツの袖口から、小さな絆創膏が覗いていた。昨夜、Eマイナーの開放弦を鳴らしている時にピックの先で擦った。よく見ない限り、誰も気づかない。 誰も。 ホームルーム前のチャイムが鳴る。担任が出席簿を抱えて入ってきた。号令に合わせて立ち上がる時、後ろのポケットでスマホがほんの一瞬、微弱に震えた。 通知だ、と分かった。指先に伝わった震えのリズムで、たぶん『いいね』が五件か六件。最近の動画は伸びが鈍い。次の曲を出さないと。 俺は、瀬戸陸。学年五位の優等生。眼鏡に黒髪、後ろから二番目の席の男。 そして放課後の駅前スタジオで、金髪のウィッグを被ってギターを弾く。

「瀬戸くーん、化学の宿題、ノートだけでいいから貸してー」 昼休み、机に伏せていた俺の頭上に、菓子パンの匂いが落ちてきた。同じクラスの女子三人組のひとり、安西が、両手を合わせて拝むポーズをしている。俺は黙ってカバンからルーズリーフを抜き、机の端に置いた。 「ありがと! 今日は何くれる? おにぎり? チョコ?」 「いらない」 「えー、つれな」 笑いながら離れていく後ろ姿を見送る。安西は俺を「便利で大人しい男」だと思っているし、俺も否定する気はない。否定すれば、何かが変わる。何も変えたくない。 窓の外、四月の名残みたいな桜の若葉が揺れている。中庭で、誰かがベンチで弁当を食べていた。あれは——日向真澄。同じ二年、隣のクラス。幼馴染と呼ぶには十年遠ざかっていて、他人と呼ぶには家が近すぎる女子。中学の途中までは一緒に登校していた。今は、廊下ですれ違うとき軽く目を伏せ合うだけの関係だ。 真澄の左腕には、ギターケースがあった。軽音部、と聞いている。 ふと、廊下の方から声が聞こえた。 「だから、廃部は来月の頭に決定で——」 顧問の声。教室の前を、二人ぶんの足音が通り過ぎていく。続いてもう一人の声。それは間違いなく、真澄のものだった。 「待ってください。あと、あと一ヶ月だけ」 頭を下げているのが見えなくても、声の角度で分かる。深く折り曲げた首から漏れる、押し殺した低い声だった。喉の奥で何度か飲み込まれて、それでもこぼれてしまった懇願の音。 俺はシャープペンを置いた。 机の木目を、意味もなく目で追う。中学の頃、真澄は俺の家のリビングで、母親が買ってきたばかりの安いクラシックギターを、コードもまだ知らないまま指でつま弾いていた。あの時の真澄の指は短くて、Fの押弦に何度も失敗して、けれど一度も「やめた」とは言わなかった。あの真澄が、今、廊下で頭を下げている。 昼休みの教室は、相変わらず誰かの笑い声と、誰かのスマホから漏れる短い動画の音で満ちている。窓の外をもう一度見た。中庭のベンチには、もう誰もいない。弁当箱の包み紙が、風で半回転していた。 スマホをポケットから出す。SNSアプリを開くと、画面の上部に通知の塊が並んでいた。 NOIZ宛て。フォロワー、三万二千百四十。 リプライ欄を、俺は親指でゆっくりとスクロールしていく。 『NOIZの新曲まだですか待ってます』 『ライブ来てください静岡から行きます』 『ギターの人、絶対顔いい』 最後のひとつでスクロールを止めた俺は、自分の左手の指を眺めた。爪の先に、弦の溝。袖口から覗く絆創膏。 中庭の真澄の背中と、画面の中の三万二千人。 どちらも俺なのに、二つの俺は、ただの一度も交わったことがない。

放課後、駅前のスタジオB号室。 鏡の前で、俺はシャツのボタンを上から二つ外した。眼鏡を外し、コンタクトを入れる。瞼の裏で世界が一瞬ぼやけて、それから輪郭を取り戻す。バッグから取り出した金髪のウィッグを、両手で持って慎重に被る。前髪の流れ方を、ピンで二か所だけ留める。アイラインを目尻に少し引く。眉のかたちを少しだけいじる。それで、瀬戸陸は消えた。 鏡の中にいるのは、NOIZのギター、レン。本名は誰にも教えていない。顔出しもしない。MVはシルエットだけだ。それでも声と指先で見つけてくれる人が、三万人いる。 スタジオの空気は、いつものように埃と機材の熱で少しだけ湿っていた。隣の部屋から低く漏れてくるバスドラムの四つ打ちが、床を通して靴底に伝わる。鏡の縁に貼られたバンドのステッカーが、蛍光灯の光を反射して角を白く光らせていた。 「お、来たね、レン」 ドアが開いて、ベースの椿が首を突っ込む。大学二年、本職はカフェの夜番。袖口にコーヒー豆の匂いが、まだ薄く残っている。 「次のシングル、サビの構成変えたいんだけど、聴いてくれる?」 「いいよ」 椿に渡されたヘッドホンを耳に当てる。ベースのデモが流れる。低音の歩幅が、二小節目で半拍だけ前のめりになっている。良い。前のめりなのが、NOIZだ。 「ここ、もう半拍だけ突っ込んでいい」 「マジ? じゃやってみる」 椿が出ていく。鏡の中のレンが、ふっと笑う。瀬戸陸は今日、安西の前でも伊賀の前でも、こんなふうに笑ったことはない。口角の上がり方も、目の細め方も、たぶん筋肉の使い方ごと違う。教室にいるあの男には、この笑い方を引き出せる相手が、ひとりもいないからだ。 ギターケースを開け、テレキャスターを取り出す。塗装の剥げた木の縁を、指の腹で一度だけ撫でた。チューニング。Eが少し下がっていた。ペグを四分の一回転、指先で温度を確かめながら戻す。弦が震える。指の腹に、また昨夜と同じ感触が乗る。 スマホが震えた。SNS通知ではない。ショートメッセージ。普段の通知よりも、ほんの少しだけ長く、重い震え方だった。 画面に並んだ名前を見て、俺は一秒、息を止めた。 『日向 真澄』 本文。 『今日、放課後、家の前のコンビニで会えない? 話したいことがあるの』 ピックを持っていた指から、力が抜ける。床に小さく、プラスチックの軽い音が落ちた。三角形の縁が、リノリウムの床を二度跳ねて、アンプの脚の影に止まった。 真澄からのメッセージは、たぶん二年ぶりだ。最後にやり取りしたのは、中三の卒業式の日、「ノート貸してくれてありがとね」の一行だった。あの一行に、俺は何時間も返信を考えて、結局「うん」とだけ送った。あの「うん」の後ろにあった言葉が、今もスマホのドラフトに残っている気がした。 椿がドアの向こうから「レーン、来てー」と呼んでいる。 俺は鏡の中の金髪を、もう一度見た。アイラインを引いた目が、瀬戸陸ではない誰かの顔で、こちらを見返している。その「誰か」の輪郭が、ほんの少しだけ揺らいだように見えた。 「ごめん、椿。今日、早めに上がっていい?」 「えー、なんでよ」 「家の用事」 嘘ではない。家の前のコンビニ、は家の用事だ。 ピックを拾い、ケースに戻す。ウィッグの下で、汗が一筋、こめかみを伝った。

二十一時十分、家の前のコンビニ。 眼鏡をかけ直し、黒髪に戻った俺は、自動ドアの内側で立っていた。雑誌コーナーの前、温められたパンの匂いと冷蔵庫の唸る音。 ガラス越しに、走ってくる真澄が見えた。息を切らしている。制服のまま、学校からまだ家に帰っていない。 ドアが開く。電子音と一緒に、五月の夜の風。 「陸、ごめん、待った?」 真澄が俺の名前を呼んだのは、何年ぶりだろう。陸、と。 「いや、今来た」 真澄は俺の前で立ち止まり、息を整え、それから一度、ぐっと唇を噛んだ。 「あのね」 雑誌コーナーの蛍光灯が、彼女の睫毛の先を白く光らせる。 「私、好きな人がいるの」 俺は、頷いた。多分、頷いた。 「NOIZっていうバンドの、ギターの人」 コンビニの自動ドアが、別の客のために、もう一度音もなく開いた。

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