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書類上の婚約、期限は三ヶ月

第2話 第2話

第2話

第2話

タクシーの後部座席で、私はスマホの画面を三回消して、三回ともう一度つけた。不動産会社からのメッセージが、同じ文面のまま並んでいる。「至急ご確認ください」「至急ご連絡ください」「お戻りになり次第、共用エントランスにて」。夜更けのお詫びには、やけに至急が多い。

「お客さん、この先どこ入ります」

運転手さんの声で、窓の外を見た。いつもの橋を渡る手前。街灯の白い光が、水のように窓を流れていく。梅の匂いは、まだ指先に残っていた。爪の先に残る、あの甘く冷たい香りだけが、さっきまで歓送迎会の笑顔のなかにいた自分と、今この後部座席にいる自分を、細い糸でつないでいた。

「右折して、まっすぐ、二つ目の信号を左で」

「はい」

メーターの数字は、給料日までの七日間に綺麗に刺さる金額だった。明日から、何をどう立て直せばいいのか。脳の一番上の段に並べてみようとして、段が一つ抜け落ちているのに気づく。住む場所がない。頭の中のチェックリストに、そもそも「家がある」という項目は、ずっと当然のように、記入欄すら作っていなかった。

マンションの前に着くと、エントランスの奥でスーツの男性が手を振っていた。電話をくれた担当者だろう。片手にヘルメットを提げている。ヘルメットを、片手に。その絵面で、事態の重さが、やっと背骨まで届いた。背中の中心が、冷蔵庫の奥で冷えた牛乳パックを当てられたように、すうっと熱を失っていく。

「佐倉さま。本当に、この度は——」

「いえ、こんな時間に、こちらこそ」

エレベーターは途中階で止まり、管理人さんと、上階の住人らしい高齢の男性が乗り込んできた。男性はしきりに頭を下げている。申し訳ない、配管が、まさかこんな時間に。私は誰に向かって笑えばいいのか分からなかった。作り笑顔を作ろうとして、頬が一瞬こわばっただけだった。狭い箱の中に、消毒液と、濡れた段ボールのような、少しすえた匂いが混ざっていた。階数表示の赤い数字が一つ上がるたびに、私の胃のあたりが、同じ高さだけ、下へ落ちていくのが分かった。

五階の共用廊下に出た瞬間、絨毯の感触がいつもと違った。一歩踏み込むと、靴の底がぺたりと吸い付く。絨毯が、濡れているのだ。水は私の部屋からだけじゃなく、両隣のドアの下からも、等しく染み出していた。

鍵を開けて、ドアを押す。

音が、違った。

いつも「ただいま」と自分に聞かせるための小さな床鳴りじゃなく、ぐしゃり、と水を含んだ床板が悲鳴を上げる音だった。玄関を一歩入ると、靴下の中に冷たい水が一気に染み込んでくる。慌てて靴を履き直した。廊下の照明は生きていた。天井からの水滴が、その光を一粒ずつ受けて、床の水たまりに落ちていく。ぽた、ぽた、と、やけに正確な拍子で。その拍子が、私の鼓動より少しだけ速くて、聞いているうちに、どちらが先に鳴っているのか分からなくなった。

リビングの手前で、足が止まる。

ソファは端が黒く変色していた。本棚は、一番下の段の文庫本が膨らんで、もう二度とページが閉じない形になっている。ベッドの上の掛布団は、天井のクロスの欠片を浴びて、灰色の斑点がまぶされていた。冷蔵庫の扉には、先週貼った職場の歓送迎会のポスターが、端からふやけて垂れ下がっている。部屋全体に、雨上がりのコンクリートに似た、鉱物めいた匂いが立ち込めていた。私の生活の輪郭が、匂いごと、少しずつ別のものに置き換わっていく気がした。

何かを失うときは、一度に全部を失うのだと、私はたぶん初めて知った。

担当の男性が後ろから、「貴重品は寝室の棚から移しました」と囁くように言った。その声は、ちゃんと聞こえた。聞こえた上で、どうにも返事が作れなかった。私は膝をついて、本棚の一番下の段から、膨らんだ文庫本を一冊だけ引き抜いた。大学時代に買った、短編集。表紙の女の子の輪郭が、水を吸って滲んでいる。

「佐倉さま、……今夜は、会社のほうで用意されている宿泊施設などは——」

「ないです」

「ご親族のお宅などは」

「両親は、名古屋で」

「そうですか」

鞄の中で、スマホが震えた。震え方が、電話のそれだった。画面を見ると、『御園生』と出ていた。帳簿と差し戻しの順番しか共有したことのない名前が、こんな夜に震えている意味を、私の脳は数秒受け止められなかった。

「……もしもし」

「佐倉。今、どこだ」

いつもの低い声が、終電後のフロアで聞いたそれと、少しだけ違って聞こえた。違いを言葉にできないまま、私は喉の奥を湿らせる。

「部屋に、戻っています。あの、水漏れが——」

「聞いた」

「え?」

「不動産会社、うちの福利厚生の提携先だ。担当からさっき連絡があった」

畳まれた傘の先から、水滴がひとつ、床に落ちる音がした。玄関のほうだった。そこに、御園生さんが立っていた。

コートの肩が、雨でもないのに濡れている。上階からの水が、廊下を伝って階段に染み出しているのを、彼も通ってきたのだと、その濡れで分かった。眼鏡のレンズが、フロアの白い光を跳ね返して、私の表情までは届かない。

「課長、どうして」

「タクシーが、ちょうどいい方向を走っていた」

嘘だった。うちの会社から、このマンションまで、タクシーが『ちょうど』走る理由は何一つない。指摘する勇気も、突っぱねる元気もなくて、私はただ立ち上がった。膨らんだ文庫本を、胸の前で抱え直す。表紙の水気が、ブラウスの胸のあたりににじんで、心臓の位置にひとつ、濡れた円ができた。

彼の視線が、一度だけ、部屋全体をなぞった。天井の剥がれ、膨らんだ床、灰色の斑点の布団。何かを計算する目つきだった。差し戻しの赤字を、一箇所ずつ確かめるときと、同じ目だ。

そして、ほんの数秒。

「佐倉」

「はい」

「うちに来い」

息を、吸うのを忘れた。三文字、いや五文字。十音に満たないその一言を、脳は文字列として受け取り、意味として取り逃した。

「え——」

「空き部屋がある。今夜、どこにも行けないなら」

「あの、でも、……上司の家に、私が」

「明日の朝、立ち会いだろう。睡眠、取らないと判断が鈍る」

論理の皮を一枚かぶせた上で、彼はもう、私の返事を待っていない気配だった。入社三年目の私を、『判断が鈍る従業員』として回収しようとしているだけだ、と、脳のどこかが健気に処理しようとする。けれど、耳の奥は、『うちに来い』の三音だけを、何度も繰り返し再生していた。再生されるたびに、その三音の温度が、ほんの少しずつ違って聞こえる気がした。

担当の男性が、「そういうご事情でしたら、持ち出し品だけ先にまとめまして」と、私と御園生さんを交互に見て、早口に書類の話を始めた。その言葉の半分を、私は聞き逃した。御園生さんは一度、私の肘のあたりに手を伸ばしかけ、触れる直前に引いた。引いた指の先が、ほんの少しだけ震えていたのを、私は見てしまった。

頷いた、気がする。

気がする、としか言えないのは、頷いた瞬間の自分の意思の輪郭が、自分でもよく分からなかったからだ。彼が無言で階段のほうへ顎を動かし、私はその背を追う。絨毯はまだ湿っていた。一歩ごとに、くぐもった音が鳴る。廊下の奥で、上階の男性がもう一度、深く頭を下げていた。

エレベーターの中、私は抱えた文庫本に視線を落とした。カバーの女の子は、滲んだまま、こちらを見ていない。御園生さんは、ボタンを押した手をそのまま下ろさずに、壁の表示ランプを見ていた。1、2、3、と数字が減っていく速度が、いつものエレベーターより少し遅く感じた。箱の中の空気は、彼のコートから上がる湿り気と、私のブラウスの梅の残り香が、ぎこちなく混ざり合っていた。

タクシーの中で、彼はスマホを一度だけ耳に当てた。

「はい。……はい。明日の朝、総務部に上げます」

短い会話だった。内容は、私には半分も聞こえなかった。ただ、『総務部』という単語だけが、妙に具体的な重さで、車内に落ちた。

「課長、総務部って」

「社宅の件だ」

「社宅、ですか」

「俺の住まい、社宅だ。短期でも、独身寮じゃない棟に他人を泊めるには、書類がいる」

運転手さんのラジオが、深夜のジャズを流し続けている。窓の外、街灯が一定の間隔で流れていく。私の頭の中で、『他人』と、『書類』という二つの単語だけが、一拍遅れて、冷たい水のように落ちてきた。

「佐倉は、今夜は何も考えなくていい」

考えなくていいと言われたことで、逆に、明日、何を考えなければいけないのかの輪郭が、うっすら見え始めた。短期間、上司の住まいに泊まる。それを会社の制度の中で成立させる書類の名前を、私はまだ知らない。

膝の上の文庫本から、水が一滴だけ落ちて、私のスカートに丸い染みを作った。

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