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書類上の婚約、期限は三ヶ月

第3話 第3話

第3話

第3話

築年数はそう古くない棟だった。社宅と聞いて浮かべた、灰色の四角い箱とは違う。玄関の郵便受けには、黒いラベルで「御園生」とだけ貼ってあった。整いすぎていて、どこか業務の匂いがする。

エレベーターの中で、私は文庫本を抱え直した。にじんだ表紙の女の子が、ブラウスの胸元を湿らせている。その円が、肋骨の上で少しずつ広がっていくのが分かった。御園生さんは、階数表示から一度も視線を外さなかった。

「八階だ」

「はい」

「足、濡れてるだろう」

「……少し」

「スリッパ、出す」

必要以上の音は出さない人だ。終電後のフロアと、よく似ていた。ただ、フロアの沈黙には差し戻しの赤字が挟まっていたのに、今の沈黙には、何も挟まっていない。何もない沈黙を、どう扱えばいいのか、私は入社三年目になっても教わっていない。

玄関で鍵を回す音が、長かった。二回目でやっと回る。彼の指先が、鍵穴を一度だけ外したのを、私は見なかったことにする。

「入れ」

「お邪魔、します」

廊下の明かりが点いた。匂いは、意外だった。お香でも、柔軟剤でもない。乾いた紙の匂い。本のページを何枚も重ねた、あの冷たい匂いだけがした。

靴を脱ぐとき、濡れたストッキングが、フローリングに小さな足跡を残した。私はタオルを探しかけて、言葉にならないまま、頭の中でだけ謝った。

「風呂、先に使え」

「で、でも、課長が先に」

「俺は後だ」

扉の向こうに、間接照明の色だけが、細く残される。膝の裏が、微かに震えていた。

その日の朝、と書くには、眠った時間が短すぎた。客間のベッドで、天井の模様を三十二まで数えて、三時半を確認してから諦めて目を閉じた。次に瞼を上げたとき、廊下の向こうでコーヒーの気配がしていた。

会社に着いたのは、いつもより四十分早かった。別々に出た。彼は始発で、私は次の電車で。駅を降りる手前、背中で、始発を選ぶ意味を考えないようにしていた。

「佐倉さん、総務、十時に上がってきてもらえる?」

直属の先輩からの内線に、私は「はい」としか返せなかった。御園生さんの席は、もう埋まっていた。差し戻しの続きを、淡々と打ち直す。キーボードを叩く指だけが、昨日と同じ動きをしていた。指だけが、昨日の私だった。

十時、総務部の奥の応接スペース。

机を挟んで向かいに、総務の北野さんと、人事の主任。御園生さんは私の隣ではなく、机の角を挟んだ斜め向かいに座っている。視線は一度もこちらに来ない。

「佐倉さん、ご事情は御園生課長から、先ほど伺いました」

北野さんがファイルを開いた。書類の端がぴたりと揃えられている。こういう場所で働く人の手の動きは、感情と切り離されているんだな、と、場違いなことを思う。

「社宅の規定上、……家族以外の方を居住させる場合、同居者の届出が必要になります」

「はい」

「ただ、管理職棟の場合、同居者は、三親等までの親族、配偶者、——あるいは、婚約者に限定されます」

婚約者。

三音のその単語で、私は相槌を打ち損ねた。代わりに、右の膝を、左手で一度だけ押さえる。スーツのスカートの生地が、掌の下でこわばっていた。机の脚の金具が、蛍光灯の光を一点だけ跳ね返して、私の視界の端で、小さく白く尖っていた。

「期間限定の措置として、社内様式の婚約届をご提出いただき、立会人欄に御園生課長からご署名いただければ、住宅規定上の同居が認められます」

「それは、……区役所に出すものとは、別の」

「社内の様式です。対外的な婚姻登録とは、別物です。退去時、あるいは三ヶ月を過ぎた時点で、自動的に効力を失います」

三ヶ月。

数字が、耳の奥で固まった。三ヶ月あれば、部屋の修繕は終わる。終わったら、書類は失効する。そこに書かれているのは、会社の住宅規定のためだけの、紙の上の婚約。——書類だけ。書類だけ、と、私は心の中で二回繰り返した。

「ご本人同士の合意が確認できれば、本日中にご捺印いただくことも可能ですが」

御園生さんが、ようやく口を開いた。

「俺は、構わない」

それだけだった。こちらを見ないまま、机の上の指を一度だけ組み替えた。爪の白い部分が、昨日より少しだけ短く切られていた。いつ、切ったのだろう。関係のない発見に気を取られそうになって、私は慌てて頷いた。

「お願い、します」

北野さんが、机の中央にA4の様式を置いた。表題は『社宅同居者確認書兼婚約届』。ずいぶん長い名前だ、と、私は他人事みたいにタイトルだけを眺めた。

「こちらの欄に、お二人分のご住所とお名前、そしてこちらにご捺印を」

ボールペンを受け取る。軸の色は黒だ。当たり前なのに、その色が、やけに重く見える。氏名欄に「佐倉真琴」と書くとき、「倉」のクサカンムリを書き始めたところで、指先が一瞬止まった。止まった理由は、自分でも分からない。文字の形を忘れたわけじゃない。私は息を一つ吐いて、最後まで書ききった。

御園生さんの字は、思ったより丁寧だった。赤字で走り書きされる「要確認」「差し替え」の癖のある線とは、別の人の字みたいに、一画ずつ端正に書かれていく。見ていてはいけない気がして、私は視線を膝に落とした。

「では、印鑑を」

鞄の底から三文判を取り出す。入社準備で買った、木軸の、何の変哲もないやつ。朱肉をつける手が、思ったより静かだったことに、私は少しだけ救われた。

印鑑の先を、朱肉に押し付ける。くるり、と小さく回す。赤が、木目の溝に染み込んでいく。朱肉の、鉄のような匂いが、鼻先に上がってきた。

様式の押印欄の、細い丸の内側に、印鑑の先を合わせた。

——ここで、押せば。

押せば、期間は三ヶ月。部屋が直れば、書類は自然に失効する。会社の住宅規定のためだけの、紙の婚約。

押せば、それだけだ。

そう、頭の中で整理した瞬間、指が、止まった。

印鑑の底が、紙から一ミリ浮いたところで、動かなくなった。机の向かいで、北野さんがファイルのページを一つ送る音がする。その紙の音に、私の停止が紛れてくれるように、私は一度だけ呼吸を飲み込んだ。

書類だけ。

書類だけの三文字を、心の中で、もう一度、丁寧に組み直す。組み直したのに、印鑑の底と紙の間の一ミリが、縮まらない。

「佐倉」

低い声が、斜め向かいから落ちてきた。顔を上げると、御園生さんは、初めてこちらを見ていた。差し戻しの赤字を指示するときの、冷たい目ではなかった。昨日の玄関先の、何かを引いた指先の温度でもなかった。ただ、私の止まった指を、ちゃんと見ている目だった。

「迷うなら、押すな」

「……え」

「迷うなら、別の案を考える」

北野さんが、困ったように書類の端を揃え直した。御園生さんは北野さんを見なかった。見ないまま、もう一度、私の指の先に視線を戻す。

迷うなら、押すな。

その四音が、意外と、温かった。

意外と、と自分で気づいてしまったことが、今日いちばん、不味かった。

私は、印鑑を、紙の上に下ろした。

赤い丸が、押印欄の内側に、静かに納まる。朱肉の匂いが、ふっと立ち上った。

「確認いたしました」

北野さんが、頁を閉じた。

応接スペースを出たあと、廊下の窓際で、御園生さんが一度だけ足を止めた。

「昼、食えるか」

「……たぶん、食べます」

「そうか」

それだけ言って、彼はエレベーターのほうへ歩いていった。革靴の音が、廊下の絨毯に、ぺたりと沈む。昨日の、水を含んだ絨毯の音を思い出して、私は一瞬、耳を塞ぎたくなった。

自席に戻ると、パソコンの画面には、昨日やり残した差し戻しの続きが、律儀に待っていた。キーボードに指を置く。指の腹に、朱肉の匂いが、まだほんの少しだけ残っている気がした。

机の引き出しを、半分だけ開けた。三文判の木軸を、元の場所に戻す。戻す直前、指先が、木軸の丸い底を、一秒だけ撫でた。

書類だけ。

心の中でそう唱えても、三文判は、もう昨日までの三文判ではなかった。今夜、あの玄関に、もう一度、帰る。

鞄を肩にかけ直した私の足は、もう、駅の反対側のホームに向かう歩幅を、覚え始めていた。

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