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薄い味噌汁の記憶

第3話 第3話

第3話

第3話

仕込みの途中で、俺は台の端に置いた伝票を、もう一度見た。見る、という言い方は正確ではない。視線がそこへ引き寄せられるのを、三十秒に一度、押し戻す、という作業を、朝からずっと繰り返していた。鍋は普段通りに鳴り、昆布は普段通りに戻り、鰹は普段通りに香った。それなのに、削り器に指を添えるとき、角度がいつもより半寸、前に倒れた。椀を並べ直すとき、三つ目の椀の位置が、数ミリ、ずれた。八年やってきた手が、八年ぶりに、自分の持ち主を疑い始めていた。指の腹に乗る節の位置が、いつもより一粒ぶん、手前にずれている気がした。気のせいだと思い直すたび、また別のところで、別の一粒が、静かにずれた。

 板長は事務所から出てきて、俺の背中を一度通り過ぎ、戻ってきて、もう一度通り過ぎ、それだけだった。何も言わない。何も言わないのが、この人の、言うことだった。二度目に通り過ぎたとき、板長の下駄の音が、一拍、普段より長く、俺の後ろで留まった。留まって、それから、何も言わずに、事務所の方へ戻っていった。俺はその一拍のあいだ、削り器を握る手の力だけを、意識して抜いた。

 昼前、仕出しの折を組んだ。二段重ねの塗りの折に、白木の仕切りを入れ、向附、焼物、煮物、八寸、飯と香の物を納めていく。椀は持ち運びの間に冷めぬよう、身と蓋を別に運び、届け先で俺自身が注ぐ段取りにした。板長が書いた品書きには、吸い地の葛打ち仕立て、筍の木の芽焼き、鯛の子の含め煮、菜の花の辛子醤油、玉子豆腐の白酢掛け、鯛茶漬。ちょうど、人の集まる春の日の献立だった。俺は折を包み、風呂敷の結び目を、右手で二度、左手で一度、締めて固くした。結び目を一度作り直したのは、一度目の輪が、自分でも気づかないほど、ほどけやすい方向に寄っていたからだった。

 若い衆の軽ワンボックスに揺られて、四十分。窓の外を、知った町名が一つ、二つと流れていく。環状の外側の、古い住宅街だ。生垣の低い家が多く、電線が低く、空が近い。俺は助手席で折を押さえ、膝の上に吸い地の鉢を載せた。鉢の蓋を、両手でわずかに押さえていないと、軽ワンボックスのサスペンションが、車体ごと、出汁を一口ぶん揺らす。俺は四十分、その一口の揺れを、手のひらで受け止め続けた。手のひらの下で、鉢の陶は、体温を奪うでも渡すでもなく、ただ一定の冷たさを返してくるだけだった。その冷たさに、俺は、自分の掌の湿りが、こまかく染みていくのを感じた。

 十五年前、俺はこの町の路地を、自分の足で一度だけ歩いたことがあった。妹の嫁入り前、先方の親御さんに挨拶へ伺うのに、母に連れられて歩いた道だった。母はあの日、色の薄い和装で、俺には紺のネクタイを締めさせていた。父は、その日の家にいなかった。なぜいなかったのかは、覚えていない。いなかった、ということだけが、確かだった。母の三歩後ろを歩きながら、俺は自分の靴の先ばかりを見ていた。革靴の爪先は、新しく買ったものなのに、妙に白っぽい傷が入っていた。母はその傷に気づいていたはずだった。気づいていて、何も言わなかった。何も言わないまま、母は俺の半歩前で、一度、肩の位置を直した。直した、というより、直そうとして、直さなかった。その、直さなかった肩の線を、俺は、今でも、後ろから見ることができる。

 軽ワンボックスが、角を二つ曲がって、細い路地の手前で停まった。道が狭く、軽が入らない。ここから先は、俺が折を提げて歩く。鉢は布巾で巻き、風呂敷の結び目に通す紐を短く調整した。若い衆に「十五分」と告げて、俺は歩き出した。アスファルトの目地が、古いままだった。電柱の番号札が、俺の覚えのある番号のまま、塗り替えられずに残っていた。それを見つけた瞬間、鼻の奥の、冷えた鉄の匂いが、朝の店の空気ごと戻ってきた。十五年前の母のうなじの匂いまで、その鉄の奥から、一緒に押し出されてきそうになって、俺は一度、鼻から短く、息を吐いた。

 表札は、板長の字と、同じ字だった。

 呼び鈴を押した指の付け根に、昨夜の新しい切り傷が、まだ薄く残っていた。奥で、子どもの甲高い声がして、それから、大人の足音がひとつ。

 引き戸の向こうで、人影が止まった。

 戸が、静かに開いた。

「お待ちしておりました」

 その声を、俺は、聞き違えなかった。

 美咲が、小さな、ごく小さな角度で、頭を下げた。俺も下げた。どちらが先で、どちらが後だったかは、わからない。ほとんど同時だった。顔は見なかった。見ないで、風呂敷を解き、折を框に上げ、吸い地の鉢を仕切りの上に据え、注ぎの手順だけを、短く伝えた。声は、普段の仕事の声よりも、半音、低かった。美咲のほうも、普段の嫁の声ではなかったはずだが、俺はそれを比べる材料を持っていない。妹の、今の、普段の声を、俺は知らなかった。框の木目が、俺の下ろした折の底で、一度だけ、鈍く鳴った。框の左端に、子ども用の、片方だけの小さなサンダルが、爪先をこちらへ向けて転がっていた。俺は、それを見ないことにして、視線を鉢の蓋の縁に戻した。

 奥の廊下を、三歳か四歳の子が駆けてくる気配がした。

「かあさん、おそばじゃないの」

 その声の、短い、幼い一音のあとを、俺は聞かなかった。聞かないようにした。風呂敷の結び目の最後の一端を、指で内側に押し込み、框から半歩、退いた。美咲は鉢の位置に指を添え、顔を上げずに「ありがとうございました」と言った。俺は「失礼いたします」とだけ言って、踵を返した。踵を返す、その半歩のあいだに、俺の視界の端を、美咲の手首の、細い、白い線が横切った。十五年前、まだ婚礼の白無垢を着る前の、あの子の手首と、同じ太さに見えた。同じなわけが、なかった。

 戸が、俺の背で閉まる音を、俺は聞いた。

 路地を、来たときとは反対に歩き出した。五歩、六歩。板塀の板目が、行きとは違う向きで、俺の目に入る。七歩目に、電柱の番号札が横切った。八歩目、九歩目、十歩目。十歩目の足裏に、アスファルトの目地の、古い段差が、一粒、食い込んだ。食い込んで、そのまま、抜けていった。

「――兄さん」

 戸の開く音は、今度は聞こえなかった。ただ、背中の斜め後ろから、十五年ぶりの、たった二音が、路地の空気を、薄く、真っ直ぐ切った。

 足が、止まった。振り向かなかった。振り向けなかった、と言うべきかもしれない。折を提げていた右手が、風呂敷の紐の位置を、意味もなく、一度持ち替えた。持ち替えた指先に、紐の撚りの、ほどけかけた一本が、引っかかって、ちくりと、皮膚の内側を刺した。刺した場所は、昨夜の切り傷の、すぐ隣だった。

「父さん、去年倒れたの」

 美咲は、それ以上、近づいてこなかった。玄関の、外の、三和土の縁あたりから、その声は届いたと思う。届いた、というよりも、背中のどこか、肩甲骨のあいだに、深くは刺さらず、しかし浅くもなく、ちょうど、息が一度止まる深さで、置かれた。置かれた、と分かってから、俺は自分が、いつからか、息を吸うのを忘れていたことに気づいた。気づいても、すぐには、吸い直せなかった。胸の内側で、朝、事務所から出てきた板長の下駄の音の、あの一拍の留まりが、今ようやく、意味のある長さに伸びて、俺の肋骨の裏側に、もう一度、置き直された。

 俺は、頷かなかった。頷いたら、振り向かねばならなくなる気がした。頷くかわりに、まぶたを、一度、強く閉じた。閉じた裏側で、十五年前の、紺のネクタイの結び目が、妙にくっきりと浮かんだ。母が結んでくれた結び目だった。あの結び目の、最後の一締めの向きを、俺は今朝、風呂敷の結び目で、知らずに、なぞっていたのだと、そこで初めて分かった。

 右手の指が、風呂敷の紐を、もう一度だけ、持ち替えた。

「――じゃあ、また」

 それだけ、言ったと思う。自分の声だったかどうかも、あやしい。路地を、また歩き出した。十一歩、十二歩、十三歩。角を曲がる。曲がった先で、電柱の番号札が、もう一つ、俺の目に入った。それも、覚えのある番号だった。

 若い衆の軽ワンボックスに戻るまでの、残りの数十歩を、俺は自分の革靴の爪先だけを見て歩いた。爪先は、十五年前の、あの新しい傷のついた革靴と、同じ白っぽい擦れ方をしていた。助手席に乗り、ドアを閉めると、車内の、冷えた鉄の匂いが、胸の奥まで、一度だけ、深く入ってきた。

 若い衆が、何か、天気のことか、道のことか、短く話しかけた。俺は、うん、とも、いや、とも取れる音を、喉の奥で一度だけ鳴らして、膝の上に置いた、空の鉢の蓋を、両手で押さえた。

 押さえた蓋の下に、もう、吸い地は残っていなかった。

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