第2話
第2話
流しに半分水を張ったままの茶碗を持ち上げると、底にこびりついた米粒が、指の腹にぬるりと移った。朝の六時、窓の外はまだ薄い青だ。爪の先で米粒を剥がし、水で流す。舌の奥に、昨夜の甘みがまだ薄く残っている。水で口を濯いでも落ちない、あの頼りない甘さだ。朝飯は食わない。店で仕込みの合間に、握り飯を半分つまむ。それが煮方の朝の、決まりだった。
茶碗と椀を布巾の上に伏せて置く。今朝は洗うだけで、拭かない。乾かしておけば、店から帰る頃には水気が抜けている。俺の台所では、そうやってほとんどの道具が、半乾きのまま並んで待っている。包丁袋を肩にかけ、玄関の鍵を回す。自転車を押して路地に出ると、春先の朝の空気は湿って、少し青かった。鼻の奥で、冷えた鉄の匂いがする。頬に当たる風はまだ冷たいが、それを冷たいとも思わなくなった。八年、同じ路地を同じ時刻に走っている。コンビニの角を曲がり、シャッターの下りた商店街を抜け、細い坂を下る。自転車のブレーキパッドが、昨日よりわずかに甘い音を立てた。次の休みに油を差しておこう、と頭のどこかで思う。思うだけで、休みは当分、来ない。
店の裏口は、細い路地の突き当たりにある。鍵を開け、暖簾を裏からくぐる。板場はまだ真っ暗で、冷蔵庫のモーター音と、俺の革靴が板敷きを踏む音だけが響いた。電気を点ける。銀色の流しと、磨き上げた俎板と、壁に並んだ銅鍋が、順に浮かび上がる。一番下の引き出しから前掛けを出し、腰の後ろで二度結んで、三度目の輪でほどけぬように留めた。
鍋に水を張り、昆布を沈める。火はまだ点けない。
昆布を水から、六十分。その間に鰹節の袋を開け、鍋の周りを拭き、俎板を水で流し、椀を並べる。壁の時計の秒針が、静かに進む。仕込みの間、誰とも話さない時間が、俺は一番好きだった。先輩たちが次々と入ってきて、それぞれの持ち場に向かう。焼方の浅井、揚方の武井、向板の徳永。挨拶は短い。「おはよう」「おはよう」それだけだ。声を出すための息が、板場の湿った空気に溶けて、すぐに消える。各々の前掛けの結び目の位置で、誰がいるかが背中越しにわかる。浅井のそれは右寄りで、武井はまっすぐ、徳永は俺と同じ左寄り。八年、顔を見ずに気配だけで仕事が回る。それが、この板場の血の通い方だった。
昆布の水が、白く濁り始める前に、指を入れる。体温と水温の差を確かめ、手の甲を鍋肌に近づけて、湯気のまだ立たぬ気配を嗅ぐ。煮方は、鼻で働く。昆布が底でふやけて、ゆっくり持ち上がってくる。その持ち上がり方で、今日の塩梅を決める。戻りが早い日は、火を弱くする。遅い日は、もう少し水を足す。今日は、普通だった。
火を入れる。細い青い火だ。子どもの頃、母がガスの栓を絞って見ていた火と、同じ色をしている。母は鍋の前で、いつも少しだけ口を開けていた。火加減を目ではなく、唇の乾き方で測っていたのかもしれない。一瞬、その青が網膜の裏で重なった。母の横で、まだ幼かった妹が、俺の前掛けの裾を握って立っていた記憶までが、続けて浮かんでくる。俺は首を軽く振って、鍋の縁に視線を戻す。
……昨夜の甘さが、まだ舌の奥にある。
鰹を引く。削りの厚みは、今日の椀の客層に合わせて、中庸より少し薄く。削り器の刃に指を添え、節の角に当たる位置を探る。節の角に当たると、削りが揃う。削りが揃うと、出汁の出方が揃う。揃った出汁が、吸い地の塩の当たりを決める。何もかもが、一滴の判断に収束していく。それが煮方の仕事だった。削った鰹を指でひと摘み、舌の先に乗せて、香りの立ち方を確かめる。いい。今日の節は、いい。削り粉の屑が、俎板の端にうっすら溜まる。それを手のひらで掬い、塩壺の横の小皿に移しておいた。賄いの味噌汁に使う。捨てない。俺の煮方は、何も捨てない。
夜の営業が始まると、カウンター八席が順に埋まっていく。常連が三組、初見が二組。個室には接待の客が二組入った。板長はカウンターの端に立ち、向板の包丁を黙って見ている。俺は吸い地を最後に仕上げる。塩をほんの少し。醤油を垂らすか垂らさぬかの境で、止める。指の節が、匙の柄の木目を覚えるほど、同じ動作を繰り返してきた手だ。
最初の椀は、合わせ味噌ではなく、透き通った椀だ。椀種は、今日は甘鯛の葛打ちと、独活。蓋を閉じ、盆に載せ、仲居が運ぶ。カウンターの客が蓋を手に持ったその瞬間、湯気がふっと立ち上がる。昆布の甘みと、鰹の香ばしさと、塩の角の取れた余韻。
常連の老人が、蓋を開ける前に一度、椀を両手で挟んで温度を確かめる癖があった。その癖を、俺は八年見続けている。老人は目を閉じ、やがて蓋をゆっくり持ち上げる。湯気を吸い込む時間は、人によって違う。短い人もいれば、長い人もいる。長い人の椀ほど、俺は塩の当たりを、ほんの少し抑える。老人は今夜も、長く吸い込んだ。鼻腔が一度、二度、ゆっくり動くのが、カウンター越しにも見える。喉仏が上下し、肩の力がほんの少し下がる。そして、何も言わずに箸を取った。その「何も言わない」を、俺は一番信じている。言葉になった褒め言葉より、口を閉じたまま背筋が緩むあの一瞬のほうが、嘘がつけないからだ。
椀を組み続けて、気がつけば九時を過ぎていた。賄いの時間だ。板前たちが交代で食う。俺の皿は、いつも同じだった。余った大根の切れ端を炊いたものと、白米と、味噌汁。味噌汁は、昨日の出汁殻で取り直した二番出汁。薄い。客には絶対に出さない薄さだ。朝の鰹屑を、その椀の底にひと摘みだけ落としてある。それが、俺の一日の、唯一の贅沢だった。五分で食い、すぐに持ち場に戻る。
……客には、今日も丁寧な椀を出した。
自分の椀には、二番出汁を張った。
大根を噛む。甘みが、昨夜の味噌汁の甘みと、舌の上で静かに重なる。俺は箸を動かす速度を変えない。五分の賄いを、五分で終える。それが煮方の、自分への決まりだった。
営業が終わり、片付けが半分終わった頃、板長が俺の後ろに立った。足音でわかった。板長の革の草履は、他の誰とも違う音を立てる。俺は鍋を洗う手を止めない。板長も、俺が止めないことを知っている。八年の間に、そういう呼吸を、二人の間に作ってきた。
「健司」
「はい」
「明日、仕出しを一軒頼む」
「はい」
「昼前に上がれ。段取りは朝のうちに。品書きは俺が書く」
「はい」
板長はそれ以上言わなかった。伝票を俺の前の台に置き、そのまま板場を出ていく。草履の音が遠ざかり、事務所の襖が一度だけ軋んだ。俺は鍋をもう一つ洗い終えてから、濡れた手を前掛けで拭いて、伝票に視線を落とした。
届け先の住所。品目。時刻。
住所の、区と、町名と、番地。
名前の欄に、俺の知らない名字と、括弧書きの一字。
俺は、そこで、息をわずかに止めた。
最初は、数字だけが目に入った。区の番号、丁目、番地。黒いインクで、板長の角ばった字が並んでいる。二度、目を走らせた。三度目に、ようやく町名が頭に届いた。届いた瞬間、鼻の奥の冷えた鉄の匂いが、朝の路地の空気ごと、胸の奥へ戻ってきた。
水が、指の間をまだ流れ続けていた。鍋を洗う手は、すでに止まっていた。流しの底に、泡ではない、ただの水音だけが響いた。紙の上の名字は、俺の知っている名前ではなかった。だが、番地と町名は、覚えがあった。覚えがあるなんてものではない。かつて何度も、郵便物の宛先として自分の手で書いた、住所の一部だった。封筒の表に、万年筆の先を少し震わせながら書いた、あの数字の並びだった。
十五年前、ある冬の朝に、妹が嫁いだ家の町名と、番地と、数字。
手を止めたまま、俺は伝票から目を離せなかった。括弧書きの一字が、紙の繊維に沁み込んでいる。女の名ではない。男の、幼い音をした、一字だった。水は細く、流れ続けていた。板長が灯りを落とし、板場の奥の事務所に戻っていく足音が、遠ざかる。流しの水音と、冷蔵庫のモーター音だけが、残る。
鍋の中で、俺の指は、まだ冷たい水に浸かったままだった。