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陰キャ転校生は竹刀を握る

第2話 第2話

第2話

第2話

「……見学、だけなら」 喉から出てきた声は、俺のものなのに、俺のものじゃなかった。

彼女は「藤堂」と名乗った。三年生で、主将。それだけ言って、先に道場の引き戸を開けた。磨りガラスの向こうが、急に明るくなる。蛍光灯の白ではなく、西校舎の窓から斜めに射し込む、午後一時過ぎのほの白い光だった。

道場の板張りは、ワックスではなく、何十年分かの汗と油で黒ずんでいた。上履きを脱いだ瞬間、床の冷たさと、同時に、粉っぽい暖かさが混ざって這い上がってきた。羽目板の継ぎ目は磨り減って、小指の爪ほどの段差になっている。その縁が、靴下越しに、くすぐったい。

「如月くん、だっけ。制服のままでいいよ。上着だけ、預かる」

藤堂先輩は、俺のブレザーを、壁際の鴨居に無造作にかけた。ハンガーなんて使わなかった。袖口が折れ曲がったまま、ネクタイの締め跡が、襟の内側に残っている。その折れ曲がり方が、なぜか、嫌じゃなかった。

道場の隅で、竹刀を壁に立てかけていた女子がもう一人、振り返った。面を外していなかったら、顔は分からなかった。面金の格子越しに、眼光だけが、こちらに向いていた。

「——主将、誰」 「見学。新入生」 「見学?」

面の奥から、息の混じった不満の音が漏れた。面紐を耳の下で解きながら、彼女は言った。

「忙しいんだけど」 「鳴海、一本だけ付き合って」 「は?」

藤堂先輩の声は、言い切る、という形をしていた。反論の余白を最初から設計に入れていない、ああいう声の出し方。俺は中学の頃、同じ声の出し方をする先輩を、一人だけ知っていた。

「……一本、と言われても、俺、見学って」 「軽くでいい。防具、一番小さいの、そこ」

壁際の棚に、古い胴が三つ、積み重なっていた。どれも胴台の革が剥げていて、赤胴の塗りが削れ、下の黒い下地が覗いている。一番上を手に取ると、留め紐の藁芯が、指の腹に細かい棘みたいに刺さった。借り物だ。誰かが、何年も前に置いていった胴だ。

垂れの紐を、腰の前で結ぶ。片手で蝶結びを作る動きが、迷わなかった。指がまだ覚えていた。俺の意志と関係なく、人差し指と親指だけで、紐の表裏を整えている。二年半ぶりのはずの手つきに、親指の第一関節が、ほんの小さく笑った。

「……慣れた結び方じゃん」

鳴海先輩の声が、低く、背中に刺さった。俺は振り返らなかった。振り返ったら、俺の指の動きを、もう一度、別の角度から確認されるのが分かっていた。胴紐の端が、垂れの内側で、ほんの一センチだけ余る。その余り方まで、中学の最後の試合の朝と、同じ長さだった。

面の内側の、布の匂いが、鼻の奥を突いた。他人の汗と、糊と、日向の干し草に似た匂い。息を吸うと、面金の縦の棒が、唇のすぐ前で黒く滲む。視界が、碁盤の目に切り分けられる。その切り分け方が、懐かしい。懐かしい、という言葉を使っていいのか、迷うほどに、懐かしかった。

「如月、先に構えて」

藤堂先輩が言った。竹刀の柄を、右手で受け取る。軽い。中学の時より、たぶん二割くらい軽い。練習用の短めの竹刀だ。親指と人差し指の股に、木の目が食い込む。柄革の縫い目が、指の腹に、ちくりと刺さる。

構えた瞬間、肩の力が、どこに入るか、身体が先に決めていた。左肩の付け根、肩甲骨の下の、いつも同じ場所。中学の三年間、顧問に何百回と「そこ、抜け」と言われ続けて、結局抜けなかった、あの一点。

——これは、よくない。

「始め」

鳴海先輩の合図の声は、低く、一息で切れた。

藤堂先輩の踏み込みは、速くなかった。速くなかったのに、床板の軋みが聞こえなかった。足の裏が板と喧嘩をしない種類の、慣れた踏み込み。中段の構えから、小手が来る。来る、と分かった。分かった瞬間に、身体が勝手に右足を半歩引いていた。

いや、これは、台本にない動きだ。

先輩の竹刀の先が、俺の籠手の革を、掠めた。掠めただけだった。 俺の竹刀が、先輩の小手の、手首の内側の、ちょうど脈の上を、かるく、叩いていた。

音が、一つだけ、道場の天井に吸われた。

小手を打った、という音は、竹刀と革がぶつかる、乾いた、短い音でしかない。それ以外の音が、何もなくなった。鳴海先輩の息が止まっているのが、面金越しに、分かった。壁の時計の秒針だけが、コチ、コチ、と板張りに落ちていく。一秒、二秒、三秒。秒針の音が、自分の心臓の鼓動と、ずれていく。鼓動の方が、明らかに、速かった。面の内側で、額の汗が一筋、眉の上を滑り、目尻に届く前に、面布に吸われて消えた。

「……今の、軽く、じゃないな」

藤堂先輩が、小手を下ろしながら、面の中から言った。 声が笑っていなかった。俺の指先が、先輩の手首の、脈の位置を、今もまだ覚えている、ということに、先輩は、たぶん気づいていた。

「すみません、その、つい」

俺は竹刀の先を下げた。喉の奥が、乾いていた。自分が息をしていないことに気づいた。呼吸を思い出した瞬間、面の内側が湿って、唇に呼気が張り付いた。吐いた息が、面金の鉄の棒に当たって、わずかに白く滲み、すぐに消えた。「つい」という二文字が、自分の口から出たことに、自分で驚いていた。「つい」で人の手首を打てる人間は、二年半、竹刀を握っていなかったはずの人間ではなかった。

「鳴海」 「……はい」 「タイム、見てた?」 「……見てた。二秒、いってない」

鳴海先輩の声が、さっきより、少しだけ、低くなっていた。面を外しながら、彼女はこちらを、正面から、見ていた。面紐の赤い痕が、さっき廊下で見た藤堂先輩と、同じ位置に、同じ形で残っていた。その痕が、今だけは、少し怖かった。

藤堂先輩は、面をゆっくりと、頭の後ろから外した。髪が、汗で額に貼りついている。さっきと同じ光の角度のはずなのに、先輩の目だけが、さっきより暗く見えた。それは道場の光量のせいではなくて、先輩の瞳の底に、何か、読み込みに時間のかかる文字列が、一行、流れ込んだからだった。

「如月くん」 「……はい」 「中学で、全国、行ってたでしょ」

床の、粉っぽい木の匂いが、急に濃くなった気がした。 俺は、答えなかった。答えられなかった、のほうが正確だった。喉の内側で、いくつかの言葉が順番を争って、全部、順番を決められないまま黙り込んだ。藤堂先輩は、俺の沈黙を、肯定として数えた。数えた顔をしていた。

「……二年半、ブランクあります」

ようやく出た言葉は、全国、という単語を避けて回り道をしていた。

「分かるよ。胴の紐の結び方は、二年半じゃ、抜けない」 「先輩」 「うん」 「どうして、小手、来るって、分かったと思ったんですか、俺が」

藤堂先輩は、少しだけ、笑った。今度は、目の奥まで笑った。

「君の構えが、最初から、小手を読みにいく構えだったから」

俺の構えが、二年半、変わっていなかった、ということだった。指先が、柄の、ざらついた革の上で、ほんの少し、震えた。震えを止めるために、俺は柄を、握り直した。握り直しても、震えは、握りの内側に潜り込んだだけだった。掌の真ん中、生命線の交わるあたりが、自分の意志と関係なく、ぴくり、ぴくり、と脈を打っている。捨ててきたはずの何かが、その脈の下から、もう一度、輪郭を作ろうとしているのが、分かった。

「——あの、俺、もう」

俺は、竹刀を壁の竹刀立てに戻す動作を、先輩の返事を待たずに始めていた。面紐を解く指が、さっきの胴の蝶結びと違って、震えていた。震えを見られないように、顔は道場の、奥の壁の古いポスターに向けた。色褪せたポスターの、六年前の優勝校の名前が、今は少し、読めなかった。

「如月くん」

背中に、藤堂先輩の声が、届いた。さっきの「見学、していく?」より、一音だけ、低い。

「明日も、昼休み、空いてる?」

喉が、勝手に「……空いてます」と、言いそうになった。 言う寸前で、俺は唇を嚙んだ。嚙んだ跡が、かすかに血の味になって、口の中に広がった。自分の血の味が、中学の決勝の最終盤で、面の内側に滲んでいた味と、完全に、同じだった。

俺は、無言のまま、道場の引き戸を閉めた。 引き戸が閉まる寸前の、最後の一センチの隙間から、藤堂先輩と鳴海先輩が、何かを短く、言葉少なに話し始める音だけが、漏れてきた。その漏れた音が、坂道の桜の匂いよりも、濃く、俺の制服の袖に、張りついていた。

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