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陰キャ転校生は竹刀を握る

第1話 第1話

第1話

第1話

肩の食い込みが、右側だけ妙に鋭い。スポーツバッグのベルトの当たりどころが、いつもより一センチ内側にずれている。三度目の転校だというのに、俺は未だに荷物の担ぎ方を固定できずにいた。バッグの中には、昨夜母が詰め直したままの教科書と、一度も開いていない新品のノートと、前の学校で最後まで使わなかった蛍光ペンが入っている。持ってきたものが全部、どこかで中途半端だった。

桜の花びらが、制服の黒い袖に一枚、二枚と貼りつく。四月の坂道は前日の雨で湿っていて、スニーカーの底が時々滑った。坂の左側のブロック塀は苔で黒ずみ、右側には背の低い椿の生け垣が並んでいる。その隙間から、見知らぬ小学生が走っていく音がした。名前も顔も知らない土地の、名前も顔も知らない子供の足音。それが耳に馴染むまで、また半年はかかるだろう。 「……慣れてる、はずなんだけどな」 声に出してみても、坂の上からは何も返ってこない。ただ、散り際の桜が、匂いだけを濃く残している。甘いのか苦いのかよく分からない、春特有のあの匂いだ。鼻の奥が少し痛くなるような、記憶を勝手に呼び出してくる匂い。 父の転勤、三度目。小六、中二、そして高一の春。今度で高校を出るまでの三年は動かない、と母は言った。動かないなら動かないで、やることは決まっている。目立たない。喋らない。笑わない。三回目なのだから、もう台本は完璧だ。台本通りに三年を過ごして、誰の記憶にも残らずに卒業する。それが俺の最適解だった。

教室の窓際、出席番号の最後の席。自己紹介の十五秒間、俺は黒板の上の時計を見ていた。秒針が四つ動く間に名前と前の高校名だけを言い、最後の「よろしくお願いします」まで八秒。誰とも目が合わないように設計した挨拶は、設計通り、誰とも目が合わなかった。拍手の音は薄く、短く、次の誰かの名前に上書きされていく。俺は椅子に腰を下ろしながら、薄い安堵と、薄い落胆を同時に飲み込んだ。 如月奏、十六歳。陰キャの新記録、更新中。

昼休み。俺は弁当箱のフタを三ミリだけ開けて、中身を覗き込んだ。母が朝、急いで詰めた卵焼きは形が歪んでいる。転校初日の弁当は、いつもこれだ。具が少なく、味が薄い。荷造りの疲れが、甘さにも塩気にも出る。プチトマトが二つ、申し訳程度に端で転がっていて、そのうちの一つは皮が割れていた。 「如月くん、だっけ」 隣の席の男子が、購買のパンの袋を開けながら言った。声をかけられるとは思わなかった。袋の端を歯で噛み切るような雑な開け方で、クリームパンの甘い匂いが、こちらの弁当箱まで届いてくる。 「……うん」 「前、どこ」 「千葉」 「俺、東京から中学ん時来た。三年で慣れるよ」 それだけ言って、男子はパンを齧り始めた。こちらに興味があるのか、単なる通過儀礼なのか、表情からは読み取れない。慣れる、という言葉が、口の中の卵焼きよりも味が濃く残る。俺は慣れたくて動いているのか、慣れたくないから動けているのか、どちらなのか、まだよく分からない。 「部活とかやる?」 「……やらない」 「だよな。うちの高校、運動部壊滅してるし」 男子はそう笑って、また黙った。笑いの形だけ作って、目の奥までは笑わない、そういう笑い方だった。俺がよく知っている種類の笑い方。鏡でさんざん練習したやつと、ほとんど同じだった。この男子も、たぶん、どこかで俺と似たような台本を書いている。同じ種類の孤独を、別の言葉で訳しているだけだ。ただ、それを確かめ合うには、四月のクラスは、まだ早すぎた。蛍光灯の白い光が、机の天板に薄く反射して、二人分の沈黙をのっぺりと均している。

パンの袋のガサガサと、窓の外の運動部の掛け声に混じって、別の音が耳に届いた。 木と木が、鋭く打ち合う音。 遠い。たぶん、南校舎の奥だ。一定のリズムではなく、間が不規則に空いている。稽古の組み合わせが変わるたびに、息継ぎみたいな沈黙が入る。打ち込みが三つ続いて、一つ休む。また二つ、一つ休む。その不揃いな呼吸が、どこか懐かしい。 その沈黙の長さが、俺の指先を反応させた。 ——竹刀の柄革の、ざらついた感触。親指の腹に残る、綿の縫い目の凹凸。手のひらの、人差し指の付け根にできていた豆の、硬くなった皮の厚み。二年半前に手放したはずの触覚が、卵焼きの端を掴んだ箸の先から逆流してくる。 昼休みの残り、あと十八分。 弁当を半分残したまま、俺は席を立っていた。自分の足が、自分の許可を取らずに動いたみたいだった。

南校舎の渡り廊下を二つ曲がると、床のワックスが切れて、色が薄くなる。そこから先は、部活棟だった。空気の匂いが、本校舎と違う。埃と、古い木材と、汗の染み込んだ布の匂いが混ざって、鼻の奥に沈む。剣道場、と達筆すぎて読みづらい木札がかかっている。引き戸の磨りガラスの向こうで、白い人影が二つ、稽古着の袴を鳴らしていた。 床を蹴る足の音。裂帛の気合い。踏み込みのたびに、廊下の床板まで微かに震える。その震えが、上履きのゴム底越しに、ふくらはぎの辺りまで這い上がってきた。肩のバッグが、気づかないうちにずり落ちて、肘の内側でかろうじて止まっている。バッグの重みと、床から伝わる振動が、身体の中で入れ替わっていくような感覚があった。 「メェェン!」 叫んだのは、女子の声だった。低く、短く、尾を引かない。中学の頃、同じ音を自分の喉から出したことがある。あの声を出すには、腹の底に小さな石を抱え込むような感覚が必要で、俺はそれを、もう二度と思い出さないと決めていた。決めていたのに、耳だけが、勝手にその石の重さを思い出している。

引き戸のすぐ手前、廊下の壁に、色褪せたポスターが貼ってあった。 『第六十四回 県高等学校剣道大会』 端の日付は、六年前。セロハンテープが黄色く変色し、四隅のうち右下だけが剥がれて垂れている。中央の、優勝校の名前は、この高校ではなかった。写真の中の選手たちは、今はもう、どこかで社会人になっているはずだ。そう思うと、ポスターが余計に古く見えた。 その隣に、もう一枚。去年の秋の地区大会。部員名簿が手書きで貼られていて、三人分しかない。藤堂、鳴海、守谷。三年、三年、一年。——たった三人で、団体戦は五人必要なはずなのに。名簿の余白が、やけに白い。足りない二人分の空白が、紙の上で誰かを待っているように見えた。紙の繊維は日焼けして縦方向に波打っていて、画鋲の頭の塗装が、右上だけ剥げて銀色が覗いている。誰かが何度も、この名簿の前で立ち止まったのだろう。立ち止まっては、そのまま引き返したのだろう。その誰かの靴跡が、廊下のワックスの薄い部分に残っている気さえした。 指先が、勝手に動いた。 剥がれた右下を、ポスターの上から、そっと押さえていた。親指の腹が、セロハンの縁のざらつきを拾う。竹刀の柄革と、質感が少しだけ似ている。似ているだけなのに、肘から先が、やけに重い。肩の、バッグの食い込みが消えている。代わりに、別の重みが入り込んでいた。 なんで、俺はここで足を止めたんだろう。 慣れるために、消えるために、坂を登ってきたはずだった。

「……そこ、何してる?」 背後からの声に、俺は指を壁から離せなかった。 振り向くと、短く切り揃えた黒髪の女子が、稽古着のまま、面金を外したばかりの顔で立っていた。頬の紐の痕が、まだ赤い。額の生え際に汗の玉が張りついていて、呼吸のたびに胸が小さく上下する。汗が鎖骨のあたりで光っていて、息が、まだ整っていない。右手に提げた面の中から、洗いたての手拭いの匂いと、稽古着の汗の匂いが、同時に立ち上ってくる。面紐の結び目は、彼女の耳の下でまだ少し曲がっていて、外したばかりなのが、その歪み方で伝わった。 俺が陰キャの台本通りに「すみません」と言う前に、彼女は俺のスポーツバッグをちらりと見て、それから、ポスターを押さえたままの俺の指先に視線を止めた。視線は品定めのようで、品定めではなかった。もっと具体的な、掌の皮の厚みとか、肩幅とか、そういうものを測っている目だった。 「君、体格いいね」 目が、笑っていない。 「——見学、していく?」 断る言葉を、俺は十七年分、いくつも持っていた。 けれど、どれも、喉までしか上がってこなかった。

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