第3話
第3話
扉の蝶番が、最後の一ミリを鳴らし終えた。
指先に残った塗装の剥がれの感触が、やけに鋭い。楽屋の空気は、普段より湿っていた。防音材の奥から染み出る黴の匂いに、今日は柔らかいシャンプーの香りが混じっている。自分ではない他人の体温が、この部屋に残されていることを、嗅覚が先に気づいた。
「……あの」
声が、パイプ椅子の陰から立ち上がる。
白い襟が、先に動いた。続いて、細い肩。赤いリボンが、薄暗い蛍光灯の下で、昨夜の柱の影と同じ色に光った。
瀬川莉央が、こちらを真っ直ぐに見ていた。
ショルダーバッグの肩紐を、右手で掴んでいる。左手はスカートの脇で、指が何度も布を握り直していた。視聴覚室でボールペンを回していたときの、あの余裕の動きはない。紺のスカーフの下で、喉が小さく上下している。
「藤代くん、だよね」
名前が、耳の後ろに、ぬるい湯のように滑り込んできた。
俺の口は、半分だけ開いて、音を出せないまま閉じた。キャップの縁を引き下げる癖が、今日は働かなかった。代わりに、右手がまだ扉の把手に触れていて、その把手の冷たさを通じて、体の芯から熱が逃げていくのを感じた。三年間、鉄扉の向こう側に閉じ込めてきたものが、今、蝶番の軋みよりも細い音を立てて、崩れていくのが分かった。
「……なんで」
やっと出た声は、自分の声じゃないみたいに掠れていた。
「昨日」莉央は、視線を俺の顔から外さない。「ショルダーバッグ、忘れて帰ったみたい。店長さんが、『また取りに来るだろ』って、ここに置いといてくれたの」
嘘だ、と思った。忘れ物を取りに来るだけの人間は、こんな手の握り方をしない。
けれど、俺はその嘘を、突き崩す資格を持っていなかった。
「座っていい?」
莉央はパイプ椅子を軽く引いた。金属の脚が、コンクリートの床の上で短く鳴る。彼女は、自分の鞄を一度抱え直してから、椅子に腰を下ろした。膝の上に、バッグを抱いたまま。
俺は、扉を閉めるか迷った。閉めれば、二人きりになる。開けたままにすれば、誰かに聞かれる。どちらを選んでも、退路はなかった。結局、俺は扉を半分だけ閉めて、自分は立ったまま、長机の角に浅く腰を預けた。机の天板の冷たさが、ジーンズ越しに、腿の裏を這い上がってくる。
「昨日、見てたの」
「……見てた」
「ずっと?」
「三曲目の終わりまで」
言ってから、莉央は自分の指先を見た。爪の根元の白い三日月の形を、視線だけで確かめるみたいに。
「DJ MINATOって名前、SNSで、一回だけ見たことあった」彼女は言葉を選びながら話す。「駅裏の箱で、高校生が回してるらしいって噂だけ、耳の隅にあって。今年の春の噂だった。まさかって思って、顔を確かめに来たの」
「……確かめて、どうするつもり」
俺の声に、わずかに棘が混ざった。弁明の余地がないと分かっているとき、人はまず相手の意図を測ろうとする。莉央はそれを感じ取ったのか、首を二度、小さく横に振った。
「告げ口する気はないよ」
「信じろって言われても」
「信じなくていい」
即答だった。俺は顔を上げて、彼女の目を見た。視聴覚室で企画書の角を持っていたときの、あの確かめるだけの目ではなく、もっと奥に、黒い芯のようなものが沈んでいた。
「ただ、ひとつだけ、訊きたくて」
莉央は、膝の上のショルダーバッグのファスナーを開けた。中から、A5サイズの白い紙を一枚、引き抜く。派手な蛍光ピンクと青のグラデーション。ドリフトで月末にやる、学生DJナイトのフライヤーだった。楽屋の壁に、同じ束が積まれている。
「これ、藤代くんが作ったの?」
フライヤーの右下、小さなクレジット。「Flyer design: MINATO」。そう、俺が入れた。店長に頼まれて、曲の合間にスマホで組んだ、十五分の仕事だった。
「……それが何」
「藤代くんの字、私、知ってる。一学期の小テストの見直し、一回だけ交換したことあったでしょ」
五月の、当番の日。俺のプリントが莉央の山に紛れて、翌日、本人から手渡しで返された。あの時、彼女は俺の名前の書き方を、一瞬だけ見た。
「デザインの中の、アルファベットのクセ。Mの最後のはねが、同じだった」
俺は、長机の端を掴んだ。指先の関節が、白くなる。
逃げ場が、音を立てて崩れていく——と、そう書けば分かりやすい。けれど、実際に俺の耳に聞こえていたのは、音ではなかった。冷蔵庫の低いモーター音の向こうで、遠くのバンドが鳴らすベースの、腹の底を一定に叩く粒だけが、いつもより大きく聞こえていた。
「……それで、取引?」
「取引じゃない」
「じゃあ、何」
「確かめにきただけ」
莉央は立ち上がった。フライヤーをもう一度、丁寧に畳んで、自分のショルダーバッグの内ポケットに差し込む。
「言ったでしょ、告げ口はしない」
「根拠は」
「私にもある」
その三文字が、空気の流れを一瞬止めた。
「私にも、あるの。藤代くんが『バレたら困ること』と同じ種類の、別のなにかが」
莉央は、最後まで詳細を語らなかった。「いつか話せる時に話すよ」とだけ言って、扉の方に歩き出した。俺は、彼女の背中を呼び止めるべきか、呼び止めないべきか、三秒間、決められなかった。
彼女が扉に手をかけたとき、俺はようやく、口を開いた。
「瀬川」
「ん?」
「文化祭の音響、手伝う話、あれ、俺の本気を買うつもりで言ったのか」
莉央の肩が、少しだけ揺れた。振り返って、彼女は初めて笑った。視聴覚室で見せた仕事用の笑みでもなく、教室で四人を同時に笑わせるあの明るい笑みでもない、もっと浅い、けれど、まっすぐな笑みだった。
「半分は、そう」
「残りは」
「残り半分は、内緒」
彼女は扉を開けた。廊下に踏み出す前、一度だけこちらを振り返って、手に握っていたもう一枚のフライヤーを、机の上に、そっと置いた。同じ、ドリフトの学生DJナイトのチラシ。違いは、右下の「MINATO」の上に、ボールペンで小さな丸が一つ、書き足されていたことだった。
「これ、もらっていい? 保存用」
「……どうぞ」
「じゃあ、今置いたのは、交換ってことで」
彼女は、今度こそ、廊下に出ていった。
扉が閉まる。
俺は、長机の端から腰を浮かせることができないまま、三分くらい、そのままでいた。冷蔵庫のモーターがふと止まって、代わりに、どこか奥の楽屋から、別のバンドがチューニングする音が細く漏れ聞こえてきた。指先は、まだ震えていた。けれど、それは昨夜キャップを掴んだときの震えとは、違う種類の震えだった。
野村さんが、廊下をのぞきに来た。
「今の子、知り合いか」
「……クラスメイトです」
「そうか」店長は、それ以上訊かなかった。「見積書、鞄に入れとけよ。明日までだろ」
「はい」
俺は、机の上に置かれたフライヤーを、数秒だけ見つめた。右下の「MINATO」を、小さな丸が囲っている。その丸が、鉛筆ではなくボールペンの青だったことが、なぜか、妙に、胸の真ん中で引っかかった。
ロッカーでキャップを脱ぎ、ネクタイを締め直しながら、俺は鏡の中の自分に、一度だけ、問いを投げた。
——明日、あの教室に入ったとき、莉央はどんな顔をするのか。
答えは、まだ出なかった。
翌朝、七時四十分。
教室に入った瞬間、俺は自分の机の横で、足を止めた。
隣の席——先週までずっと空席で、誰かの教材の置き場になっていた、あの机。
そこに、淡いベージュのトートバッグが、置かれていた。持ち手の付け根に、赤いリボンが、一本、結び目を二度巻かれて留められている。
椅子の背もたれには、見覚えのあるカーディガン。机の右上には、クリアファイル——昨日、視聴覚室で莉央が広げていた企画書が、綺麗に整えて置かれていた。
席替えの連絡は、今朝のHRで出るはずだった。
俺は、自分の席の椅子を引かないまま、隣の机の上のクリアファイルを見下ろした。表紙に、莉央の字で一行、新しく書き足されている。
『音響・機材:藤代湊 / ステージ企画:瀬川莉央(共同)』
指先が、クリアファイルの角に、一度だけ触れた。ビニールの冷たさが、昨夜のキャップの縁の温度と、不思議なくらい、似ていた。