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模範生の放課後、DJブースにて

第2話 第2話

第2話

第2話

赤いリボンのことは、曲の繋ぎに意識を戻した瞬間、頭の端に押し込んだ。三曲目の終わりで視線を柱の影に戻すと、もう誰もいなかった。終演後、客出しの流れに紛れたのか、最初から見間違いだったのか。ロッカーでキャップをしまうとき、指先がわずかに湿っていた。その感触だけが、幻ではなかった証拠として残った。

朝七時、ネクタイを締める。昨日より一秒、結び目に時間がかかった。鏡の中の藤代湊は、少しだけ、目が落ち窪んで見える。洗面所のタイルは、夜のうちに冷え切っていた。母が置いていったトーストは端が乾いていて、一口だけ齧って、あとは皿に戻した。喉が、まだ、朝に馴染んでいなかった。リビングの柱時計が、やけに大きく一秒を刻んでいる。その音を背中で聞きながら、俺は玄関のドアノブを、必要以上にゆっくり回した。

教室に入ると、黒板には「文化祭まで、あと四十日」。昨日より数字が一つ減っている。俺は席に着き、模試のプリントの角を、指先で三度、折り直した。チョークの粉が、朝の光の中に細かく舞っている。背後で女子が二人、文化祭のTシャツの色について小声で言い合っていた。ピンクがいい、いや黒の方が締まる。どちらも遠い国の話のように、俺の耳を素通りしていった。机の天板に、誰かが残したボールペンのインク跡が、青黒く滲んでいる。俺はその染みを、親指の腹で、意味もなくこすった。

「はい、文化祭実行委員、まだ二組二人目が決まってないな」

担任の山岸が教卓の前で、出席簿をぱたんと閉じる。教室の空気が、すっと一段沈んだ。誰もが机の上の何かを急に丁寧に見始める。蛍光灯の音だけが、やけに大きく響いた。

「瀬川は立候補ってことで、もう一人、どうする」

「先生」

澄んだ声が、俺の斜め前から飛んだ。莉央が挙手している。髪の毛先が、窓からの光で茶色く透けていた。教室の空気が、今度は逆方向に、わずかに持ち上がる。期待と好奇心の混じった息の音。誰かの椅子が、わざとらしく半歩、こちらを向いた気がした。

「藤代くん、どうですか」

「は?」

口から間の抜けた音が出た。教室のそこかしこで、誰かが小さく笑う気配。椅子の脚が半歩ずれる音もした。

「昨日、ちゃんとお断りしたでしょ」

声の温度を保とうとしたが、末尾が少しだけ上擦った。

「聞いた。でも、塾って聞いて、週何回ですかって訊いたら、答えてくれなかったから」莉央は涼しい顔で言う。「嘘、だよね」

空気が、また一段下がる。心臓の裏側に、冷たい水が一滴、落ちた気がした。嘘、と言われた瞬間、指先の爪が、知らないうちに掌の肉に食い込んでいた。喉の奥で、言い訳の言葉がいくつか組み立てられて、そのどれもが、莉央の二文字の前で崩れていく。

山岸が眉を上げて、俺の方を見た。「藤代、本当に塾なのか」

「……」

否定もできない。肯定もできない。嘘を重ねるには、莉央の目は近すぎた。俺は椅子の背もたれに体を預けて、天井の蛍光灯を数秒だけ見た。三本のうち真ん中の一本が、少しだけ古いのか、青白く点滅している。卒業まで、あと百六十一日。頭の中で、もう一度数字を数えた。百六十一日、百六十回の放課後、そして夜。その全部を、俺は一つの嘘で繋いできた。今、その糸の端を、莉央の細い指が軽く引いている。引けば、ほどける。そう悟った瞬間、口の中の唾が、味のない金属に変わった。教室の誰も、その糸の長さを知らない。知っているのは俺と、駅裏の地下の、あの鉄扉だけだ。

「……わかりました」

舌の裏が、苦かった。

「じゃあ、藤代と瀬川な。放課後、実行委員会あるから、視聴覚室」

山岸が頷いて、出席簿を小脇に挟む。莉央がこちらを振り返って、「よろしく」と口だけで言った。怒った顔でも、勝ち誇った顔でもない。純粋に、仕事相手に向ける挨拶だった。それが逆に、背中に冷たいものを走らせる。

一時間目のチャイムが鳴るまでの十秒間、俺は指の腹で机の木目をなぞっていた。爪の先が、ささくれに引っかかる。昨夜の柱の影、赤いリボン、そして今朝の莉央の視線。偶然、偶然、偶然。三回唱えて、それでも指先の震えは止まらなかった。

放課後、視聴覚室。

長机の向かいで、莉央がクリアファイルから企画書を取り出す。指の動きに、迷いがない。窓の外、吹奏楽部のロングトーンが、薄い膜のように漏れ聞こえていた。部屋の奥のプロジェクターが、誰も使っていないのに、低く唸っている。机の角は冷たく、指先の熱を、静かに奪っていった。夕陽の角度が、莉央の横顔にだけ、柔らかな縁をつけている。

「ステージ企画、音響、装飾、受付、物販。ざっくり五つに分かれてる」

「……俺、音響と機材でいい」

「早いね、決めるの」

「一番、しゃべらなくて済むから」

莉央が、短く噴き出した。「正直」

「効率よく終わらせたいだけだよ」俺は企画書をめくる。「ステージ企画はそっちに任せる。装飾も受付も、瀬川の方が顔が広い。俺はバックヤードで手を動かす」

「分担としては合理的」莉央はボールペンの尻で唇を二度叩いた。「でも、一個だけ訊いていい?」

「何」

「音響、できるの?」

指先が、一瞬、止まった。企画書の端を持つ親指に、意味もなく力が入る。できる、と答えれば、その次の質問が待っている。どこで覚えた、誰に教わった。そのどれも、俺が答えられる範囲の外側にあった。

「……マニュアル読めば、なんとかなる」

「へえ」

莉央の目が、俺の手元を見ていた。見透かす、という種類の視線ではない。ただ、確かめている。答えが嘘なら、彼女はそれを記憶に留める。そういう目だった。

「とりあえず、搬入の日時、俺が業者に連絡しておく。見積もりも取る」

「全部一人で?」

「一人の方が早い」

莉央は何か言いかけて、やめた。代わりに、企画書の右上に俺の名前を、丁寧な字で書き足した。『音響・機材:藤代湊』。インクが乾く前に、彼女は立ち上がる。

「わかった。明日のこの時間、進捗共有ね」

「……了解」

「逃げないでよ」

「逃げない」

その三文字が、自分の口から出たことに、俺は一瞬、驚いた。莉央は小さく頷いて、視聴覚室の扉を開けて出ていく。扉が閉まる前、廊下から「莉央ー!」と誰かが彼女を呼ぶ声がして、莉央の声が、明るく数トーン上がって返事をするのが聞こえた。

切り替えの速さ。クラスの莉央と、今ここで俺の前に座っていた莉央。どちらが本物なのか、俺にはまだ判別がつかなかった。

階段を降りて、下駄箱で革靴を履き替えるふりをして、俺は十秒、間を取った。つま先に合わない革靴の硬さが、いつもより痛かった。上履きに残った自分の足の熱が、すっと引いていく。その温度差だけを頼りに、俺は次の足を踏み出した。校門を抜けるとき、空は既に、夕暮れの端から藍に変わり始めていた。

業者に連絡、というのは嘘ではない。ただ、電話一本で済むその用事を、俺は今から二駅先の店まで、自分の足で運ぶ。見積書は、店のカウンターで野村さんに直接書いてもらう方が早い。そう、口の中で、自分に言い訳をした。

本当は、昨夜の赤いリボンを、店で確かめたかっただけだった。

駅裏の雑居ビル。地下への階段を降りる足音が、いつもより早い。踏み板の一段ごとに、昨夜の柱の影が、ちらついた。踊り場の蛍光灯は相変わらず一本切れていて、半分だけ影になっている。壁のコンクリートは、指でなぞると、夏の終わりの川底のように、ざらついて冷たかった。どこか奥で、誰かがリハーサルのベースを鳴らしている。低音の粒が、足の裏から膝の裏へと、ゆっくり這い上がってきた。

ドリフトの鉄扉。把手は昼間の方が、まだ冷たい。押すと、蝶番が短く鳴った。

「おつかれ、MINATO。早いな」

カウンター越しに、野村さんが顎だけでバックヤードを指した。「機材の見積もり、用意しといたぞ。楽屋、置いてある」

「……ありがとうございます」

廊下を進む。楽屋の扉は、いつもの通り、半分だけ開いている。古い防音材の、少し湿った匂い。その空気の層を、指先が押しのける。廊下の奥、冷蔵庫のモーター音だけが、低く一定に唸っている。その音の合間に、自分の呼吸が、やけにはっきり聞こえた。吸って、吐いて、もう一度、吸う。三度目の息を吐ききる前に、俺は扉に触れていた。指先に、扉の古い塗装の、小さな剥がれが、ざらりと触れた。

扉を押した。

長机の上、書類の束の脇。

そこに、ショルダーバッグが、ひとつ、置かれていた。

肩紐に、赤いリボンが、一本。

うちの高校の、女子の制服のリボンと、同じ色。

楽屋の奥、パイプ椅子の背もたれの影から、白い襟が半分だけ、こちらに覗いていた。

扉を掴んだ指が、動かなくなった。

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