第1話
第1話
ネクタイの結び目を、三度締め直す。
鏡の中で、紺の布地が喉仏の下に食い込んでいた。朝七時の光が襟の白さだけを鋭く跳ね返す。これで、完成だ。
「藤代湊、十七歳、三年二組。成績学年四位、遅刻ゼロ、部活無所属」——頭の中で唱える自己紹介は、履歴書の書式に似ている。それが俺の平日の顔だった。
机の引き出しの奥に、銀色のキャップが押し込んである。布の感触を指先は覚えているが、今朝は触れない。触ったら、この制服が崩れる気がする。引き出しを閉める指先が、一瞬、名残惜しそうに震えた。
鞄を肩にかけ、玄関で革靴のかかとを踏む。爪先に体重を逃がして、一段、足音を殺した。
通学路、信号のところで同じ高校の生徒とすれ違う。目を合わせない。挨拶もしない。「おはよう」と返されても三秒で忘れられる距離感を、三年かけて設計した。
駅のホーム、電車のドアに寄りかかって文庫本を広げる。開いているのは昨日と同じページだ。卒業まで、あと百六十二日。指でページの角を折って、また戻す。折り目だけが増えていく。
この数字を数えることだけが、俺が学校に通っている理由だった。
教室に入ると、黒板にはすでに日直の字で「文化祭まで、あと四十一日」と書かれていた。四十一日。俺の指はチョークの粉の匂いを嗅ぎ取る前に、自分の席へ直行する。窓際から二列目、真ん中の列——目立たず、目立ちすぎず、教師の視線も届かない座標を、一学期の席替えで確保した。
「藤代、おはよ」
「……おはよう」
前の席の男子が振り返る。柔和な笑顔で、俺の肩を軽く叩く。「今日の小テスト、数Ⅲの範囲どこまで?」
「三章の三節まで」
「さすが」
それだけで会話は終わる。俺の役割は「教えてくれる便利な辞書」で、それ以上踏み込まれないように、声の温度を一定に保つ。冷たすぎても怪しまれる。温かすぎても懐かれる。摂氏三十六度五分。平熱。
一時間目のチャイム。数学の教師がプリントを配り始める。模試の結果。受け取って、裏返す。
総合偏差値、七十二。
俺は数字を確認して、二つ折りにして、教科書の後ろに差し込む。前の席の橋本が「見せて」と言ってくる前に。
数字が高いことに意味はない。俺にとって、これは盾だ。成績が良いから、教師は俺を不良だと思わない。遅刻しないから、担任は家庭訪問をしない。友達が少なくても「勉強に集中してるんだね」で片付く。学年四位という数字は、俺を誰からも詮索されないようにするための、三年間かけて積み上げた壁だった。
四時間目、斜め前の窓際の席で、瀬川莉央が振り返って笑っていた。クラスの中心。誰とでも喋れて、誰からも好かれて、この教室の空気を半分くらい動かしている女子。髪の毛先が、午前の光で少しだけ茶色く透ける。窓枠の影が、彼女の頬の輪郭をやわらかく縁取っていた。普段なら、俺が視界に入れない側の風景だ。
「藤代くん、文化祭実行委員、まだ決まってないんだって?」
声をかけられて、俺は三秒遅れで顔を上げた。鉛筆を握った指が、机の上でわずかに硬くなる。教室の何人かが、耳だけこちらに向けているのが気配でわかった。
「……そう、らしいね」
「やらない? 二人一組なんだけど、片方空いてて」
教室の空気がこっちを向く。蛍光灯の音がやけに大きく聞こえた気がした。莉央の瞳は、値踏みするような色ではなく、ただ純粋に「来てほしい」という熱を持っていて、それがかえって厄介だった。悪意なら弾けるが、善意は盾をすり抜けてくる。
「ごめん」俺は教科書に目を戻した。「放課後、塾があって」
嘘だった。塾には通っていない。放課後の俺には、別の予定がある。
莉央は一拍置いて、「そっか」と笑った。引き下がり方が綺麗で、逆に印象に残る。諦めのにじまない、けれど押しつけがましくもない、妙に大人びた笑み。俺は彼女の視線が外れた瞬間、深く息を吐いた。シャツの内側で、背中に薄く汗が浮いていた。
卒業まで、あと百六十二日。指を折って、また戻す。
六時限目のチャイムが鳴って、ホームルームが終わる。
「起立、礼、さようなら」
その「さようなら」を、俺は誰よりも深く呼吸していた。
校門を出て、駅の反対側の改札を抜ける。二駅。電車を降りて、コインロッカーの前で鞄を開ける。中から取り出すのは、黒のTシャツと黒のパーカー、それから、引き出しの奥で朝触らなかった銀色のキャップ。
駅裏のトイレの個室で、ネクタイを抜く。ボタンを上から三つ、外す。襟の白さを黒い生地で塗り潰す。指先がキャップの縁を掴んだ瞬間、さっきまでの喉の締めつけが、嘘みたいに遠ざかっていく。肋骨のあいだに溜まっていた空気が、ようやく出口を見つけた気がした。
鏡の前で、キャップを目深に被る。
「……よし」
独り言が、自分でも気づかないくらい低い声で出た。
ここからは、DJ MINATO。
駅裏の路地を、三本目の角まで歩く。四階建ての雑居ビルの地下、ライブハウス「ドリフト」の鉄扉。落書きだらけのその扉を、俺は三年間、週に四日、押し続けてきた。塗料の剥げた把手は、季節によって冷たくもなり、湿っぽくもなる。今日の把手は、春先のまだ冷えきらない鉄の温度だった。
「おつかれ、MINATO」
ドアを開けた瞬間、店長の野村さんが声をかけてくる。四十代、元バンドマン。俺の本名も学校も、何一つ聞いてこない。「高校生だろ」とだけ確認して、身分証のコピーも取らないまま、俺にターンテーブルの前に立つことを許してくれた人。カウンターの内側で、グラスを布で拭きながら、顎だけでフロアの方を示す。
「今日、客入り多いよ。テスト前の大学生が気分転換に来てる」
「……わかりました」
バックヤードで、USBスティックを三本、確認する。今週のために選曲した八十曲、全部、頭と指が覚えている。モニタースピーカーの位置、ミキサーのEQ、フェーダーの重さ——この機材の癖を、俺は自分の体の一部として把握している。壁には前任DJの書き残した落書きと、湿気で波打ったフライヤーが何枚も重なって貼ってあって、そのインクの匂いが、俺にとっては教科書のページよりもずっと馴染み深い。
十八時三十分、オープン。
十九時、一番手のDJが回し終わって、バトンが俺に渡る。
ヘッドホンを耳に当てる。左耳に次の曲のイントロ、右耳に今鳴っている曲の終わり。BPM百二十八、キーを合わせ、エフェクトを刻む。頭の中で十六小節先まで波形が見える。
指先がフェーダーに触れる。
ここだけが、俺が俺でいていい場所だった。
一曲目のドロップで、フロアから短い歓声が上がる。跳ねる肩、揺れる髪、手を挙げる人影。俺の指がフェーダーを一ミリ押し上げるたび、百人分の呼吸がほんの少しずつ揃っていく。その一瞬の応答だけが、学校で積み上げた平熱の三十六度五分を、確かに溶かしていった。二曲目の繋ぎで、客の誰かが短く口笛を鳴らす。俺はそれを合図のように、次の一手を打った。
三曲目の終わり、フロアの熱気が背中に貼りついてくる。低音が腹の底を叩き、汗と香水と炭酸の弾ける匂いが、空調の風に混じって舞い上がる。スモークが天井のライトを切り裂き、赤と青の光が交互に俺の手の甲を染めた。
目深に被ったキャップの下から、俺は客席を見渡す癖があった。誰にも見られないためのキャップのはずなのに、見てしまう。どれくらいの客がこの音で踊っているか、どれくらいの客がスマホを落としているか、どれくらいの客が——。
最前列。ペンライトの届かない、スピーカー脇の柱の影。
一人、じっと立っている影があった。
踊っていない。飲んでいない。スマホも見ていない。
俺のターンテーブルの方だけを、真っ直ぐに見上げている。
顔は暗くて見えない。
けれど、ショルダーバッグの肩紐に、一本、赤いリボンが巻かれていた。
見覚えのある、赤。
うちの高校の、女子の制服のリボンと、同じ色だ。
息が、一段浅くなる。ヘッドホンの中でメトロノームのように正確だったBPMが、心拍と一瞬だけずれた気がした。見間違いかもしれない、と自分に言い聞かせる。似た色のリボンを鞄につけている生徒なんて、この街に何十人もいるはずだ。それでも、あの立ち方は——踊らない、飲まない、ただ俺のいるブースの方だけを見上げている——普通の客のそれじゃなかった。キャップの縁を、俺は無意識に一度、深く引き下げた。
指先が、一瞬、フェーダーの上で止まった。