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桜貝の残響、四十二歳の春

第1話 第1話

第1話

第1話

窓ガラスに映る顔が、他人の顔に見えた。

電車の揺れに合わせて、その男の輪郭は小さくぶれる。頬はこけていて、首の皮膚に縦の筋が浮いている。目の下の影は、昨日のものではなく、たぶんもっと前から居座っている影だった。四十二歳。佐倉健一。そう名札に書いてある男が、車窓の中からこちらをじっと見返している。窓の外を、夜明けの薄い青がうしろへ流れていった。看板の文字が、読み取れる速さで消えて、また次の看板が現れて消えていく。男の顔だけが、その流れの中で、ずっと同じ場所に張り付いていた。

朝のトーストを、半分しか飲み込めなかった。

最初の一口は、バターの匂いが粘土のように口の中で固まった。二口目は、喉の奥でつかえて、水を飲んでもなかなか下りていかなかった。台所で美咲が洗い物をしている音がしていた。水を出しっぱなしにする癖は、結婚した頃から変わらない。注意したことがあった気もするし、なかった気もする。もう思い出せない。皿のぶつかる音が、二回、三回と続いた。冷蔵庫の上に置いた小さなラジオから、天気予報の女性の声が聞こえていた。今日は晴れ、最高気温は十八度。穏やかな一日になるでしょう。穏やか、という言葉が、なぜか耳の奥に残った。

「行ってきます」と背中に言った。

「いってらっしゃい」と背中から返事がきた。

どちらの声も、顔を見なかった。

胸のあたりに、鉛のようなものが沈んでいる。比喩ではなく、本当にそこに金属のかけらが置かれているような、妙に具体的な重さだった。ここ一ヶ月ほど、毎朝それを抱えて出勤している。人間ドックで引っかかったのは、先週のこと。血液の数値がよくないからもう一度、と電話がかかってきた。今日の午後、会社を抜けて病院へ行く。そのことを、美咲にも、陽菜にも、まだ言っていない。

扉が開く。ホームに押し出される。歩きながら、ポケットの中でスマートフォンを握りしめている自分に気づいた。手帳アプリの予定表。午前は定例会議、午後は外出、夕方にクライアント。空き時間に、病院と書けばよかったのに、書けなかった。書いたら、本当のことになってしまう気がした。

会議室に着くと、もう半分の椅子が埋まっていた。

プロジェクターの明かりで、白い壁に四角い光が映っている。自分の声が説明を始めた。数字、KPI、四半期、前年比。単語はよどみなく出てくるのに、意味のほうはどこか遠くで浮いていた。部下の一人が頷いている。もう一人がメモを取っている。窓の外で、ヘリコプターが通り過ぎる音がした。空調の風が、首筋にあたっていた。冷たいような、生ぬるいような、よく分からない温度だった。スライドの数字を指す自分の指が、いつもより細く見えた。

「佐倉さん、提案二案目ですけど」

名前を呼ばれて、我に返る。

「ああ、そこは、こちらで調整する」

「はい。それと、先週の件、いつ頃まとめていただけますか」

「明日の午前中までに」

そう答えてから、明日の午前中までにまとめるということがどういうことなのか、自分でもよく分かっていなかった。手帳に書き込もうとして、ペンのインクが切れかけていることに気づく。予備のペンは、引き出しの中にあったはずだ。引き出しはどこだったかな。自分の席の場所を、ほんの一瞬、忘れた。忘れた、と思った瞬間、背中に薄い汗が滲んだ。誰にも気づかれないように、ゆっくり息を吐いた。会議室の蛍光灯の光が、机のガラス天板に反射して、目の奥を細く刺した。

昼は食べないつもりだった。

だが、十一時半になると事務の女性がいつものように「お弁当、どうされますか」と聞きにきて、習慣で頷いてしまった。デスクに届いた白い箱を開ける。唐揚げ、ほうれん草のおひたし、ごはん、梅干し。見慣れた配置だった。箸を割った。割った音を、自分の耳が遠くで聞いていた。

唐揚げを一つ、口に入れる。

噛もうとした瞬間、胃の奥がざわりと鳴った。熱がこみ上げてくる。咄嗟に飲み込んで、机の下の屑籠のほうへ身を傾ける。間一髪、何も出なかった。ただ、額に汗が浮かんだだけだった。口の中に、油の味と、自分の唾液の味が混ざって残った。舌の付け根が、しばらくぴくぴくと痙攣していた。

「部長、大丈夫ですか」

隣の席の若い男が、画面から目を離さずに言った。

「大丈夫だ」

自分の声が、少し震えていた。男は気づかなかったらしく、そのままキーボードを叩き続けている。弁当の蓋を閉じた。蓋の内側に、湯気の細かい水滴がびっしりついていた。それを見ているうちに、なぜか涙がにじみそうになって、慌ててまばたきをした。午後の打ち合わせは断れない。病院は、そのあとだ。

病院の待合室は、妙に明るかった。

窓が大きく、四月の光が床のリノリウムに反射している。白髪の老婦人が隣に座っていて、膝の上で小さな手帳を開いている。何かを書き込もうとして、ペン先がなかなか進まないらしかった。指先が細く、震えていた。自分もそのうち、ああいう手になるのだろうか、とふと思った。ふと思ってから、その「そのうち」が、どれくらい先の話なのか、急に分からなくなった。受付の方から、消毒液の匂いと、誰かが咳をする音が、交互に流れてきた。壁に貼られたインフルエンザ予防のポスターの隅が、めくれかけていた。

名前を呼ばれた。

診察室に入ると、医師は背を丸めて紙のカルテに見入っていた。五十代くらいの、眼鏡をかけた男だった。一度だけこちらを見て、軽く会釈をしてから、また紙に目を落とした。

「佐倉さん。検査の結果なんですが」

そう言ったきり、医師は数秒、黙った。

紙の上をペン先がゆっくり動いている。ペン先の音は聞こえないはずなのに、聞こえている気がした。医師は、紙から目を上げなかった。上げられなかった、と言ったほうが近かったかもしれない。机の隅に置かれた湯のみから、薄い湯気が立ちのぼって、途中で消えていた。

「もう少し、詳しく調べる必要があります」

「はい」

「大きな病院のほうで、精密検査を受けていただきたい」

「……どのあたりが、よくなかったんでしょうか」

医師は、ようやく顔を上げた。

眼鏡のレンズの奥で、目が一瞬こちらを見てから、また手元に戻った。唇を一度閉じて、また開いた。

「膵臓のあたりに、気になる影があります。それと、数値のほうも、少し、通常とは違う出方をしています」

「少し、というのは」

「……はっきりしたことは、もう少し検査をしてから、お伝えしたいと思います」

診察室の、白い壁のどこかで、冷蔵庫のようなモーターの音がしていた。試薬を冷やす機械だろうか。時計の秒針は動いていない。止まっているのか、電池が切れているのか、ただ一秒が長いだけなのか、見分けがつかなかった。医師の喉仏が、一度だけ上下に動いた。それを目で追ってしまった自分に、少し嫌気がさした。

「紹介状、書きますので」

医師はカルテを閉じて、別の紙を引き寄せた。

自分は、膝の上で拳を握っていることに、そのとき気づいた。掌に、爪の半月が四つ、白くめり込んでいた。いつの間にそうなっていたのか、分からなかった。指を一本ずつ、ゆっくりほどいていった。ほどいたあとも、しばらく手の感覚が戻らなかった。

紹介状の封筒は、意外と軽かった。

薄い水色の紙だった。白衣の袖口が折れていたのが、なぜか目に焼き付いている。待合室を出るとき、さっきの老婦人がまだ同じ場所に座っていた。手帳は、閉じられていた。膝の上に置かれた手帳の表紙に、午後の光が斜めに落ちていた。

外に出た。

四月の光が、まぶしかった。正面玄関の前に、小さな植え込みがあって、花水木が咲きかけていた。白い花弁が、風に一枚、落ちた。それが地面に着くまでの時間を、じっと見ていた。封筒を、上着の内ポケットに入れた。胸の、あの鉛の横に、もう一つ、薄い紙切れが増えた。

信号を待つあいだ、向かい側のビルの窓に、自分の姿が映っていた。

朝、電車の窓に映っていた他人が、今もこちらを見ていた。

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