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桜貝の残響、四十二歳の春

第2話 第2話

第2話

第2話

紹介状を、内ポケットから出し入れする癖がついた。

数日のあいだ、何度取り出したか、自分でも数えていない。水色の封筒は、すっかり角が丸くなって、表紙の印字も指の脂で少し滲んでいた。取り出しては、また戻す。机の引き出しにしまっておけばいいのに、なぜか肌身から離せなかった。離したら、どこかに置き忘れて、何もなかったことにしてしまう気がした。もっと正直に言うなら、そうやって失くしてしまいたいのかもしれなかった。

大学病院の正面玄関は、想像していたよりも静かだった。

受付のカウンターに封筒を出す。受け取った女性は事務的に番号札を渡し、三階の消化器内科へ、と指で天井を指した。エレベーターは、十七階建ての箱の中を、奇妙にゆっくり上がっていった。点滴のポールを引いた老人と、抱えられた赤ん坊と、自分がいた。誰も、誰の顔も見なかった。赤ん坊が一度だけ、うぅ、と唸って、母親がそっと背中を叩いた。叩く手の動きを、ガラスの壁に反射した影で追ってしまった。

三階の廊下には、消毒液の匂いと、紙の匂いがした。

精密検査には、三日かかった。CT、MRI、採血、内視鏡、生体の一部を取って調べる検査。名前も知らない機械の中に、何度も身体を差し入れられた。横になって目を閉じると、自分の呼吸の音が、狭い筒の中でやけに大きく聞こえた。止めてください、と言われて呼吸を止める。吐いてください、と言われて吐く。そういう単純な指示にも、たびたび反応が遅れた。自分の肺が、自分のものではない気がした。

検査結果を聞きに行く日、四月の終わりのわりに、空気が冷たかった。

診察室の医師は、前の病院の医師とは違う男だった。

四十代半ばくらい、坊主に近い短髪で、眼鏡はかけていなかった。壁際の棚に、家族らしき写真が一枚、伏せるように立てかけてあった。伏せて立てかけるという飾り方を、自分は初めて見た。机の上には、ファイルがすでに広げてあった。医師はペンを一度置き、両手を膝の上に移してから、顔を上げた。

「佐倉さん、結果についてお話しします」

「はい」

「今日は、お一人でしたか」

「……はい」

医師は、一度、小さく頷いた。

「膵臓に、腫瘍が確認されました。サイズと位置、それから周囲への広がりを総合して、ステージⅣ、という診断になります」

ステージⅣ、という単語だけが、頭の中で鉛のように落ちた。

他の言葉は、落ちる前に、水面で跳ねて消えた。そうなのか、と自分のどこかで声がした。その声が、自分の声なのか、誰の声なのか、少し分からなかった。机の端に、薄い埃が溜まっていた。誰が掃除をしているのだろう、そんなことを考えている自分がいた。

「肝臓と、腹膜のほうにも、転移の所見があります」

「……はい」

「手術で取り切るのは難しい場所です。化学療法を中心に、痛みを抑えるお薬を組み合わせる形の治療になります」

医師はそこで、一度、呼吸を整えた。

「治療を受けた場合の、中央値というものがありまして」

「中央値」

「およそ、半年から一年の前後です。治療の反応には個人差がありますので、これより長い方も、短い方もいらっしゃいます。ただ、佐倉さんの現時点での状態を考えますと、半年、という前提で、ご家族とのお時間を組み立てていただくのが、」

そこで医師は、少し言葉を切った。

「現実的かと、思います」

半年、という音が、部屋の天井に一度ぶつかって、また降りてきた。

自分は、両手を膝の上に置いていた。診察室の椅子の座面に、革の亀裂が一本、斜めに走っていた。その亀裂を、目で追っていた。亀裂の終わりまで目で辿ったら、それは座面の縁で、ただ途切れていた。何もかもそうなのかもしれない、とぼんやり思った。途中で切れて、ただ途切れる。

「……治療は、いつから、でしょうか」

声は、思ったより、平らに出た。

「来週、もう一度おいでいただいて、抗がん剤の導入を」

「仕事は、どうすれば」

医師は一瞬、机の上の書類に目を落とした。

「人によります。ただ、今までと同じ量を、こなそうとはなさらないほうが、よろしいかと」

「……はい」

「ご家族にお話しされるのは、早いほうがよろしいかと思います。お一人で抱えていらっしゃると、かえって」

医師は、その先を言わなかった。

言わずに、代わりにパンフレットを二冊、机越しに滑らせてよこした。緩和ケアについて、と書いてあるほうと、ご家族の皆さまへ、と書いてあるほうだった。自分は、それを両手で受け取った。受け取った手が、思ったより冷たかった。冷房のせいなのか、血が巡っていないのか、見分けがつかなかった。

病院を出て、どこをどう歩いたのか、あまり覚えていない。

気がつけば、川沿いの道に出ていた。

会社へ戻るには、反対側の駅から地下鉄に乗るはずだった。それなのに、足は橋を渡り、土手の上の桜並木の下へ迷い込んでいた。昔、何度か歩いた道だった。陽菜がまだ小さかった頃、休日の午後に、三人でよく歩いた。陽菜はブランコが目当てで、美咲は途中のパン屋の角の食パンが目当てで、自分はただ、二人のうしろを歩いていた。二人のうしろを歩くのが、自分の役目だった。

桜は、ほとんど散りかけていた。

枝の先に、まばらに花弁が残っているだけで、幹の根元には、踏まれて茶色くなった花びらが溜まっていた。風が吹くたびに、いくつかの花弁が舞って、川面に落ちていった。川は、ゆっくりと、北へ流れていた。対岸の向こうに、見覚えのある鉄塔が見える。ああ、ここか、と、ようやく思い当たった。

ベンチがあった。

緑のペンキが剥げかけた、木のベンチだった。背もたれに、誰かが彫ったハートマークが、うっすら残っていた。陽菜が三つか四つの頃、このベンチに三人で座って、コンビニのおにぎりを食べたことがあった。あれは、自分が初めて部長になった年の春だった気がする。陽菜は海苔を剥がして先に食べる癖があって、美咲はそれを注意しながら笑っていた。自分は、その光景を、携帯のカメラで一枚、撮ったはずだった。写真は、もう、どこにあるか分からない。

腰を下ろした。

下ろしたきり、立ち上がれなくなった。

立ち上がって、駅へ戻って、会社へ戻って、デスクへ戻って、明日までの資料を仕上げて、帰って、風呂に入って、眠る。そういう一日の続きが、身体の中からすっかり抜け落ちていた。抜け落ちた場所に、半年、という音が、ぽとり、ぽとり、と落ちていた。パンフレットの入った鞄を膝の上に置いたまま、自分はその音を聞いていた。

手が、膝の上で、少し震えていた。

止めようとして、止まらなかった。右手の甲に、左手を重ねて、押さえた。押さえている手の甲の、皮膚の下の血管が、思ったより浮き出ていた。こんなに細い血管で、自分は生きてきたのか、と妙な感心をした。感心したあとに、ひどく疲れた。疲れた、というより、身体が脱げ落ちそうだった。

風が吹いて、花弁が一枚、鞄の上に落ちた。

花弁を、指で摘もうとした。

摘めなかった。指が、自分のものではないくらい、遠くにあった。花弁は、風に、また飛んでいった。目で追ううちに、目の奥が熱を持った。熱は、目の縁まで上がってきて、そこでしばらく止まっていた。下に落ちたほうが楽なのに、落ちてくれなかった。自分は、泣き方を、どこかで忘れてしまっていた。

夕方の鐘が、対岸の小学校のほうから聞こえた。

陽菜の通っていた小学校ではないけれど、同じような鐘の音だった。陽菜は、今、高校の二年生だ。帰宅部なのか、それとも、部活にいるのか、正確には分からなかった。正確に分からない、ということが、ようやく、今、胸の奥を引っ掻いた。

スマートフォンが震えた。

美咲からだった。画面の文字が、一瞬ぼやけて、また輪郭を取り戻した。「晩ご飯、何時頃になる?」と、短い一行。画面の下に、既読の青いマークが、まだ付いていない。指を、画面の上に浮かせたまま、しばらく動かせなかった。

何時頃、という問いに、答えなくてはいけなかった。

答えなくてはいけないのに、答えれば、その時刻に帰らなくてはいけないのに、帰ってしまえば、玄関を開けなくてはいけないのに、玄関を開ければ、顔を見なくてはいけないのに。顔を見て、「ただいま」と言わなくてはいけないのに。そこまで考えて、呼吸が一度、浅くなった。

ベンチの背に、肩を預けた。

空が、少しずつ、青から紫に変わっていく。紫の、そのまた奥の、夜の入り口の色を、見ていた。帰らないといけない、と、もう一度、口の中で呟いた。呟いた声は、誰にも届かずに、桜の花弁と一緒に、川のほうへ流されていった。

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