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桜貝の残響、四十二歳の春

第3話 第3話

第3話

第3話

「7時頃」と、短く打って、送った。

送信の音も振動もないはずなのに、指先に微かな抵抗があった。画面を伏せて、ベンチに置いた。置いてから、膝の上に戻した。膝に置きなおして、また、尻の下に差し入れた。スマートフォンの位置が定まらないのは、自分の身体の位置が定まっていないからだった。

川沿いの桜の下で、もうしばらく、動けなかった。

動かないまま、時刻だけが過ぎた。対岸の小学校のほうに、外灯が一つ、二つと灯りはじめた。水面に、オレンジの光の輪が、揺れながら長く引き伸ばされていた。自転車のベルが、どこか遠くで鳴った。一度鳴って、少し間があって、もう一度鳴った。鳴らしているのは、たぶん子どもだ。鳴らす理由もなく、ただ指で押したくて押している、そういう間隔の鳴らし方だった。

立ち上がるのに、ひとつ、合図がいった。膝に手を置いて、膝を押した。膝は、思ったより硬くて、冷えていた。腰を伸ばすとき、背中で何かが、かちり、と鳴った気がしたが、それが音なのか、錯覚なのか、分からなかった。鞄の中のパンフレットが、中で二冊、寄り添うように重なっている。歩きはじめたら、それが自分の脇腹を、一歩ごとに、とん、とん、と叩いた。

駅へ向かう坂道で、追い越されていく人の顔を、できるだけ見ないようにした。見たら、向こうに、見られる気がした。見られることが、このあいだまで、ずいぶん長いあいだ、自分の仕事でもあった。人前に立って、説明して、見られて、納得させる。それが得意な時期もあった。それなのに、今日は、誰の視線にも耐えられる気がしなかった。

改札を抜けて、ホームの端に立った。電車が来るまで、七分あった。電光掲示板の文字が、ぱたぱたと入れ替わる。その音だけが、耳に残った。

自宅の最寄り駅で降りたとき、空はもう紺色だった。

改札の向こうに、花の終わった桜の木がある。陽菜が保育園に入った春、あそこで写真を撮った。母親の手を握って、ピンクの鞄を肩からさげて、こちらを睨むように笑っていた。写真の中の陽菜の前歯は、上が二本抜けていた。頭の中の写真は、鮮明なのに、実物は、もう、三年くらい、ちゃんと見ていないかもしれなかった。

マンションのエントランスで、管理人の男に会釈をされた。

「お疲れさまです」

「ああ、どうも」

自分の声が、ほんの少しだけ、遠くから聞こえた。エレベーターに乗り、十二階を押した。十二の数字が光る。狭い箱の中の鏡に、自分が映っていた。もう、鏡を避ける気力もなかった。ただ、見た。鞄を持ち替える手つきだけは、朝と同じだった。

玄関の鍵に、鍵束を差し入れる。

三秒、かかった。鍵を回すのに、普段なら、一秒もかからない。今日は、指が、回したくなかった。回し終わったドアが、中から押し返すようにわずかに浮いた。開けた。

味噌の匂いがした。

出汁の匂いに、すこし甘い、玉ねぎを炒めた匂いが混ざっていた。玉ねぎ、ということは、豚汁かもしれない。あるいは、カレーの下拵えかもしれない。どちらでも、美咲の味だった。結婚してから十五年と少し、この玄関で、毎日のように、味噌の匂いに迎えられてきたはずだった。それが、今日は、初めて、胸の奥を、爪で引っかいた。

喉の奥で、声が止まった。

「ただいま」の、た、のかたちに、口の中の上顎が触れかかった。触れかけて、そのまま、戻った。戻って、口を閉じた。閉じたまま、靴を脱いだ。靴の向きを、念入りに、揃えた。揃える必要が、普段、どれくらいあっただろうか。揃えて、立ち上がって、廊下の奥を見た。

リビングから、テレビの音が漏れていた。夕方のニュース番組だった。女性アナウンサーが、どこかの桜の名所からの中継映像を紹介している。その背景で、美咲の背中が、カウンターキッチンの向こうに見えた。エプロンの紐が、いつもより、結び目が高い位置にあった。最近、結び方を変えたのかもしれない。それとも、昔からああだったのに、気づかなかっただけなのかもしれない。

「おかえり」

振り向かずに、美咲が言った。

「ああ」

自分の返事は、ただの、呼気だった。

「早かったね」

「うん」

「ご飯、もうすぐだから」

「ああ」

美咲は、鍋に向かい直した。お玉で、汁を一度、持ち上げて、味を見た。小皿に取って、口に含んで、首を傾けて、少し考えて、それから、塩を、指でひとつまみ、落とした。その動作の一連を、自分は廊下の中ほどで、立ったまま見ていた。見ていたあいだ、息を止めていたことに、あとで気づいた。

廊下の右側に、陽菜の部屋がある。

ドアは、閉まっていた。ドアの下から、薄い光が漏れている。イヤホンから、かすかに、音漏れらしきリズムが、ドアの向こうで震えているのが分かった。ノックをしようか、と一瞬、手を上げかけた。上げかけて、また下ろした。「ただいま」を、先に、どちらに言うべきだったのか、もう、順番が分からなくなっていた。

夕食の席で、自分は、鯖の味噌煮の身を、ひたすら小さくほぐしていた。

味噌煮の汁は、甘辛くて、温かくて、いつもならご飯が進むはずだった。ご飯茶碗の半分を食べるのに、二十分近くかかっていた。美咲は、ときどきこちらを見て、何か言いかけて、やめた。やめてから、自分のぶんの椀を、両手で持って、しばらく温めてから、また置いた。

「……お仕事、忙しい?」

「ああ、まあ、いつも通り」

「そう」

美咲は、それ以上、聞かなかった。

聞かない、ということは、聞きたくないのか、聞かないでおいてくれているのか、たぶん両方だった。結婚した当初、美咲はもっと、細かく聞く人だった。会議がどうだった、昼は何を食べた、電車は空いていた。その一つひとつに、自分は面倒くさそうに答えていた気がする。気がする、というより、そうだった。いつのまにか、美咲は、聞くのをやめていた。やめさせたのは、自分だった。

陽菜は、最後まで、食卓に来なかった。

「陽菜は」と、一度だけ、聞いた。

「先に食べたわよ。塾の時間が早いから」

「……そうか」

「最近、そうなの」

美咲は、それだけ言った。最近、という言葉の、最近、がいつからなのか、自分は知らなかった。

食後、風呂に入った。湯船に沈んで、首まで湯に浸けて、目を閉じた。目を閉じると、診察室の亀裂の入った椅子が、瞼の裏に浮かんだ。半年、という音が、湯の中で、ぽと、ぽと、と落ちていた。手を湯面の下で、ゆっくり握って、開いた。指のあいだを、湯が通り抜けた。湯は、生きている人間の温度だった。自分の指も、まだ、生きている人間の温度だった。そのことが、妙に、他人事だった。

風呂から上がって、書斎に入った。

鞄を、机の上に置いた。ファスナーを開けて、パンフレットを二冊、取り出した。「緩和ケアについて」と書かれた冊子の、薄い緑の表紙を、指の腹で撫でた。紙は、つるりとしていた。つるりとしたあと、少しだけ、ざらついていた。この紙のざらつきを、何年先まで覚えていられるのだろう、と考えて、考えた瞬間に、その「何年先」が、自分にはそれほどない、ということを、思い出した。

ページを、一枚、めくった。

痛みのこと、眠れないときのこと、家族の心のこと。見出しが並んでいた。家族の心のこと、のところで、指を止めた。「族」の、「矢」のかたちが、妙に目についた。子どもの頃、この字は弓偏だと思っていた気がする。違うと気づいたのは、陽菜の宿題を見ていた、小学校の四年生の頃だった。陽菜は、当時、「族」の字を、何度も何度も書き取りしていた。鉛筆の音が、居間のテーブルで、ことこと鳴っていた。

ふと、パンフレットの上に、水滴が一粒、落ちた。

紙の色が、そこだけ、濃く変わった。

目を、指の腹で、軽く押さえた。押さえてから、机に肘をついて、両手で顔を覆った。覆った手のひらの中で、自分の呼吸の音が、二重になって聞こえた。

息が、少し、乱れていた。

声を、出してはいけなかった。廊下を挟んで、陽菜の部屋がある。リビングには、美咲がいる。今、声を漏らしたら、誰かが気づく。気づかれたら、説明しなくてはいけない。説明する言葉を、自分は、まだ、何ひとつ、持っていない。

パンフレットを、机の引き出しの、奥の奥にしまった。

しまったあとで、引き出しを、わざわざ二度、引いて、戻した。鍵のかかる引き出しだった。鍵を、机の奥の、ペン立ての底に、隠した。隠したあとで、馬鹿らしくなった。馬鹿らしくなって、笑いかけて、笑えなかった。

書斎の電気を消して、廊下に出た。陽菜の部屋の、ドアの下の、薄い光は、まだ、ついていた。リビングからは、もう、テレビの音はしなかった。

寝室に入り、ベッドの縁に、腰を下ろした。天井のクロスの継ぎ目が、一本、右から左へ、まっすぐ走っていた。その継ぎ目を、目で追ってから、もう一度、最初から追った。二度追って、もう眠らなくてはいけないと思って、なお、横になれなかった。

明日の朝、「おはよう」と言わなくてはいけない。そのことだけが、確かだった。明日の、その、朝の「おはよう」までの時間を、自分はまだ、どう呼吸して渡りきればいいのか、分かっていなかった。

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